7

 森田りょうの「本題」はチケット譲渡の相談だった。自分たちの畑クラシックかと思いきやミュージカルで、しかも譲り先を探しているのは夏井なつい先生だという。

「もともと夫婦で行く予定にしていたけれど、都合がつかなくなったので譲り先を探している。できれば二枚まとめて引き取ってほしい」との相談を受けたところ、森田が思いついたのが自分とみそらだったらしい。「山岡さん、こういうの好きそうだと思って」という森田の予想のままに、事情と演目を伝えるとみそらは「行こうか考えて諦めたやつだ」と感激と悶絶を同時にしていた。器用すぎておもしろいしかわいい。

 そのみそらは一分もしないうちに相田あいだ美咲みさきに電話をかけていた。水曜の夕方は二コマ連続でオペラ演習があるからだろう。単位はもう足りているのだけど、だからといって軽々しく欠席しないのが山岡みそらだ。オペラ演習ならそうなるな、と思いながら三谷みたにがこっそり見ていると、「え、まじ?」とみそらはびっくりした調子で話していた。なんだろうと思っていると、どうやら美咲も親と一緒に観に行ったばかりらしく、「アンサンブルが圧巻だから観に行ったほうがいい。演出と振り付けもあっちの人だからほぼブロードウェイ版。休んで行く価値ある」というお墨付きをもらったようだった。ここまでくるともうチケットが回ってきたのは必然的だったと思えてくるのがふしぎだ。類は友を呼ぶというか、チケットを呼ぶのかもしれないと三谷は数分考え込んでしまった。

 そんなこんなで迎えた二日後の水曜、その終演後に二人が向かったのは、こちらはいつもと変わらないコーヒーのチェーン店だった。急に決まったことで夕飯の場所の目処もつけていなかったし、とりあえず感想を言い合いたいとなると、結局のところここが一番しっくりくる。

「――びっくりしたよね」

 ホットラテの小さなカップを持って席に戻ってきたみそらが、そう言ってくすくすと笑う。先に席にいた三谷は顔を上げた。

白尾しらおのこと?」

「うん。いそうだなとは思ってたけど、まさか日程が一緒だなんて」

 無事終演し、ホールからロビーに移動したときだった。見慣れた小柄なシルエットに、みそらが最初に反応した。その視線を追った三谷も気づいたとほぼ同時に、なぜだかこちらを振り返った相手が「いる!」とびっくりした声を上げた。三谷の同門の生徒である白尾あきらだった。

 みそらが三限まで出席したので、移動もあってあまり時間の余裕がなかったせいか、開場のころは席につくのでいっぱいいっぱいだったし、幕間では二人とも席を動かず前半の感想を言い合っていた。それで気づいたのが終演後になった、――ということなのだろうけれど。

 じつは前日の夜に「しらちゃん、これ行ってそう」とみそらも言っていて、たしかにそうだと三谷も思っていたのだ。でもまさか、二十公演ほどある中からどんぴしゃで同じ公演、――というのはなかなかの確率だ。同学年の同じ専攻なのだから、スケジュール感が似ているということもあるということを差し引いてもなかなかだ。

「いっしょにお茶する?」と声をかける二人に、けれど白尾あきらは「大丈夫」と、それこそキャストのような雰囲気で――アメリカ人のような軽妙で断固とした「NO」の風情をまとって言った。

「二人が見るの、これ一回きりなんでしょ? 二人の感想の邪魔はしたくないし、私は全部で五回あるから、まだしばらく一人で感想こねくり回させて。大楽が終わったくらいに感想言い合お?」

 と、サムズアップする勢いでさっそうと会場を出ていった。そのうしろ姿には、まごうことなき貫禄が備わっていた。現場を訪れる回数を粛々と重ね、そして他人の意見の前では笑顔を絶やさないファンのプライド、とでも言おうか。あまりにも格好良すぎて、二人して数秒ぽかんとしてしまった。

「観劇慣れしてるよな、白尾」

「だね。けっこういろんなジャンルも観てるし」

「白尾の教養って、ああいうところにあるんだよな……構成力のうまさとか」

「ああ、わかる。――あ、そういえばお母さんが宝塚歌劇のファンって言ってたよ。現地に実際の衣装を着て写真が撮れるお店? があるらしいんだけど、四十歳の記念にそれをやるからっていっしょについていったこともあるって」

「まじ。フットワーク軽いな」

「ね。なんかそういうところ、演奏にも出てる気がする」

 みそらは笑って、それからやっとラテに口をつけた。飲み口が小さいのでやけど対策だろう。――それくらいに金銭的な余裕があるから「全部で五回ある」ができるのだ、ということは、二人とも言わない。もしかしたら五回のうちのどこかにはその母親も来ているのかもしれない、なんてことも。

「……なんか」

 ふと言葉がこぼれた。

「白尾と小野おの先生って、けっこう合うのかも」

「そうなんだ?」

「なんだろうな、白尾のそういうバイタリティとか。あとはシンプルに体格かな。小野先生と白尾、身長とかも同じくらいだと思うし」

 言ってみたものの、白尾が小野先生に実際に師事するということは考えにくかった。もう四年だということもあるし、――おそらくそういう話になったとしても白尾自身が拒むだろうという気もする。

 脳内で比較したのか、みそらも「たしかに」とラテを片手にうなずいた。

「三谷が言うから気づいたけど、たしかにピアノ弾くときって、体の使い方は重要だし、わたしと葉子ようこちゃん、身長おなじくらいだしね」

 葉子と小野先生の教え方やスタンスが違うのは、それこそダブルレッスンの初回くらいで気づいた。回数を重ねるごとにその違いもさらにはっきりし、高校までの師匠が「小野先生とは合わないから」という理由で受験をやめたのも、いまなら理解できると思う。

 他の教え方にあまり寛容ではなく、ソロを第一とし、小さな音から生み出される美しさにこだわりぬく――それは小野先生の哲学、美学であり、二年生の永本ながもとさんのように心酔するような生徒がいるのも理解できる。けれどおそらく、自分はそうではない。葉子はそれをわかった上で、行っておいでと背中を押したのだ。

 自分のスタンスと違う考えを持った人と関係をもつこと、その中で乗り越えるべきことがあること。もちろん、本当に三谷が音を上げたら――メンタル的に参ってしまうとか、練習量がキャパオーバーしてしまうとか、そういうことになれば葉子ならすぐに対応してくれるんだろうということもわかるし、葉子にとって夏井先生がそういう存在であったのかもしれないとも思う。夏井先生があまり特待生などに必要以上にこだわらないタイプだということは、それこそ森田涼から聞いている。

 ――と、また思考に没頭していると、向かいのみそらがふと首をかしげた。みそらもみそらで考えごとに集中していたようだ。こういうところがみそらとの間にある居心地のよさのひとつなのだとも思う。

「いまふと思ったんだけど、そういう突き進む力って、ローズマリーっぽいよね」

 みそらが言ったのは植物ではなく、作中のキャラクターの名前だ。主人公に恋心を寄せる可愛らしい、そしてちょっと思い込みの激しいところもある女性。その「突き進む力」で、最終的に彼女は初志貫徹し、最後のシーンでは主人公の奥さんのポジションをつかみとる。

「あとはなんかさあ……これはしらちゃんとはちょっと違うけど、ああいう、小柄で声が高くて仕草も可愛くて、っていうのは、日本の解釈――っていうか文化なのかなあ。ちょっと気になるよね」

 そういえば、と思い出す。みそらが休憩中からしきりに言っていた名前は、そのローズマリーの親友ポジションにいる女性キャラクターのものだった。みそらいわく「キャスト全員そうだけど、あの人とくにすごい。日本語なのにニュアンスが全部英語。すごい。声の高さも、ヒロインの親友ポジションとして完璧」とのことで、その気持ちはなんとなくわかる。

「山岡がふつうにやってもローズマリーほどの高さ――っていうか細さ? じゃないし、スミティのほうが共感しやすいとか?」

「それもあるかも。スミティの役どころってたぶんメゾの役割もあると思うんだけど、あれはやっぱりローズマリーの高さとの対比もあるよね。逆に言えば、スミティの落ち着きがあるからローズマリーが妙にはしゃいだ声でも許されるというか。バランスだよなあ」

 翻訳ものを「日本人が演じても違和感がない」ところに落とし込むのは難しいだろう。日本語に変換しないオペラとはまた違う難しさもあるのだろうし、そういう意味ではやはりオペラの声はイタリアの歌い方がベースになっているから日本人の感覚では重く感じる。

「映画版の『オペラ座』のクリスティーヌも、今日のローズマリーと比べたら断然低い部類に入るし。ディズニー映画でも本家ヒロインは声低めだけど、翻訳したら高くなってることもあるよね。教育番組の歌のお姉さんのイメージ? 日本っていとけなさを求める文化なのかな」

 なるほど、と思う。たしかとあるピアニストのエッセイにも、日本人は若い、幼い傾向があると指摘している部分があったのを思い出す。

 ――こういうところだ、と思う。みそらのソプラノとしての強みのひとつに、深い分析、洞察によるキャラクターの再現度の高さがある。これは木村先生だけではなく相田美咲、オペラ演習などを担当する飯田先生などにも共通した意見らしく、それにさらに素直に関心してしまう。――というか、そこがすごく興味をかきたてられるところでもあった。それこそ二年生のときの学内選抜の『私の名前はミミ』がそうだ。

 曲の解釈はあっても、ピアノにはキャラクターの解釈はないし――と思ったところで、作曲者のパーソナリティに置き換えられるだろうか、とも思う。ラフマニノフの苦悩、モーツァルトの天才的な行動、ショパンの故郷への思いなども、――もしかしたら似たようなものなのかもしれなかった。

「やるならどのキャラクターがいいとかある?」

「え、――わたしが?」

「うん」

 ふとした思いつきだったけれど、三谷の言葉にみそらは思いのほかまじめに考え始めたようだった。

「うーん、完全にダンス度外視になるけど、やっぱりスミティかな。キャラクターの声の割り振り的にもスミティくらいだと思うし……メゾの役割、嫌いじゃないんだよね」

「ああ、スズキもうまかったもんな」

 以前美咲とやった『蝶々夫人』の重唱も、スズキの役割――ヒロインをうまく引き立てる役割をきちんと捉え、表現していたのがみそらだ。そういう点でも、とあらためて思う。みそらもやっぱり、アンサンブルが好きな人種なのだ。

「エレベーターの中での三重唱でのスミティの役割も好きだったし、二幕すぐの秘書メンバーの勢いも好きだったな。ああいうコケティッシュさはもっと身に着けないといけないし……」

 学内選抜もあるし、と唸るみそらの顔には、ただ好きなものを追いかけているだけの、無意識のうちに感じる幸せのようなものがにじんでいる。――こういう顔が、あの場所にはたくさんあった。自分では確認できないだけで、自分だっておなじだろうと思う。

「あとは、絶対いまの年齢とかじゃ無理だけど、ミス・ジョーンズ。あの色気はどっちかっていうと美咲かもしれないけど……あっ」

「どうしたの」

 いきなり声を上げたみそらにびっくりしてカップをテーブルに置く。何かこぼしたのかと思ったがどうにもそうではないようだ。

「思い出したけど、ミス・ジョーンズ役の人、元タカラジェンヌ――っていうかトップスターだよね? だからしらちゃん、来てたのかな……」

「……ありうる」

 二人の周囲の席にも、社長秘書役を務める役者の名前が何度も聞こえていた。主役だけでなく、何人もの俳優陣のファンが入り混じっていたのだろう。たった一つの舞台であっても、観客が見つめる先はさまざまだ。

「三谷は?」

 みそらの声がして顔を上げる。みそらの長いまつげが、きれいに上向いてこちらに伸びているのが見えた。

「気に入ったキャラいた? やっぱ主人公かな」

「主人公もだけど……男性陣ならバドもいい」

「わかるなあー! バド役の方、すんごくお上手だったよね。どうしようもない性格っていうのはわかるけど、そのどうしようもない部分がすごくコミカルなんだよね。あれも主人公と対比させて引き立てる役割があるよね。本人が思ってるほど嫌がらせがうまくいかないってところも観客のストレスにならないし」

「うん。ある意味、主役よりうまくないとできない部分もあるだろうし」

「それで言うとスミティもそうかも。キャラクターの役割分担って、ほんとに構成――っていうか、演出にも大きく影響するよね……」

 そのままみそらは少し黙った。学内選抜のことでも考えているのかな、と思ってそっとしておく。と同時に、三谷が考えるのは室内楽のことだった。役割分担――まさにそれだ。

「できれば卒業しても、こういった場所には足を運び続けたいよね」

 ぽつり、としずくが落ちるようにみそらが言った。こちらに言っているようで、自分に言い聞かせる、そんな色が見える。

「うん、――できる範囲で」

 いまよりも時間が取れにくくなるかもしれないし、反面、自由に使えるお金は増えるのかもしれない。まだはっきりとはわからないけれど、――でも、行く、ということを未来への約束にするのはいいものだと思う。

 一時間ほど話し、それから二人は店をあとにした。駅に向かうと人はまた増え、その動きが先ほどのさまざまな場面のアンサンブルを連想させた。

 こちらに歩いてくる人、それていく人、先を進む人、追い越していく人、こちらが追い越す人、急いでいる人、待っている人――世界もまたアンサンブルなのかもしれないと、エレベーターのドアが閉まるのを見ながら、三谷はこっそりと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る