6

「――ちょっと妬ける」

 不満そうな表情をしてつぶやいたみそらの言葉に、三谷みたにはつい首を傾げた。

「え、なんで?」

「森田くん、ずるい。ドイツに行くのに三谷のこと大好きだし、それにさっきのチケットの話だって……」

 これだから男子って、とすねたようにも悔しそうにも見える表情で続けるみそらを見ても、どうにも三谷にはぴんとこなかった。

「山岡とりょうじゃ、ぜんぜん立ち位置も専攻もちがくない?」

「それはそうだけど。でもなんかちょっと負けた気分。なんか今日集中してるなと思ったらそういうことかって思うと余計に」

「集中?」

「うん。三谷ってあんまり顔とか言葉とかにはマイナス――じゃないけど、ポジティブじゃないほうの感情っていうのかな。だからってネガティブじゃないんだけど……何か深いところで思考してるんだなっていうのが、練習中とか、してる最中には出るなと思ってる」

「……まじで」

「まじです。あ、べつに嫌だとか痛いとかじゃないから気にしないで。そっちのほうが余計にきもちいいときが多かったりもするし」

 にこ、とみそらはいつものように笑った。光を少なくした部屋の中でもその笑顔はひときわきれいだし、みそらの白い肌には二人分の汗が載っていて、みそらの言葉に嘘やはぐらかしがないこともわかる。

「なんかちょっと、楽器になった気分にもなれるし。そういうところもすごく好き」

 終わったあとのみそらは、いつ見てもやっぱり簡単にはふれられない歌姫の雰囲気があった。田舎娘のふりして、誰ひとり手を握らせない高潔な女性を演じてみて――そんなことを言っていたのを思い出す。そこにふれられることが素直にうれしくて唇でみそらのかすかに色づいた頬にふれ、そして枕に広がるみそらの髪を少し手に取るとさらさらと絹のように手の中をすべっていく。唇でふれると花を思わせる甘い香りがした。

「楽器って?」

「うーん、なんというか……」

 みそらはかすかに首をかしげた。その白い首筋を、混ざりあった汗の粒が透明な線を描いて転がり落ちていく。

「自覚、あんまりないと思うけど、三谷ってピアノ弾いてるときの色気ってけっこうあるんだよ。すごくピアノを大事にしてるのが伝わるというか。弾くことで何でも楽器には打ち明けながら一緒に育って来たんだろうなって思うと、ちょっと妬けたりもする。だから、するときにそういうのが伝わってくると、わたしって気を許されてるのかなって、ちょっとうれしかったりもするし」

 なんて返事をしたらいいのかわからなくなった。楽器に打ち明けながら――というのは、自覚がある。弾いているときは無心になるときもあるけれど、思考の整理をすることも多い。それに気づいていたのかとか、ごめんとか、そういうのじゃない気がして、――でもそれでもみそらが愛おしいのは変わらなくて、もう一度そっと、今度は手でみそらの頬にふれた。彼女の目元にたまっている涙を、右の一の指の腹でぬぐう。

「……もうちょっと言葉にしたほうがいい?」

「てわけでもないよ。言語化できないこともあればしたくないときもあるだろうし。だからひとってセックスするのかなとも思うし」

 みそらはにこりと笑って続けた。

「それに三谷ってぜったい嫌なことしないもん。ちゃんといっしょに気持ちよくなろうとしてくれてるんだなって毎回わかるっていうか。だから、考えてることをぶつけてくれても、それはむしろうれしいんだよ」

 瞬間、返答に詰まる。そのすきを狙うように、「だから」とみそらは続けた。

「逆にそうしなくても踏み込める森田くんが、ちょっとうらやましいってこと。男子ってなんでいつもこう、ただ『男子』ってだけで意思疎通できるんだろうな」

「……してるっけ?」

「してるよ。こないだ江藤えとう先輩のことをライバルって言ったのもそうだもの」

 そういえばそんなことも言っていた。と、ちょっと驚いて三谷が黙ると、「繰り返しますが」とみそらは強調するような口調で続けた。

「三谷が弾いてるときの音の色ってほんとにすごいんだよ。最初に聞いた『水の反映』もそう。性質は違っても、木村先生と同じくらい色っぽいなあって思ったのは、いまでもしっかり憶えてる」

「……木村先生と同じ、は、言いすぎじゃないの?」

 さすがに首をかしげるけれど、みそらは軽やかに「そうでもないよ?」と言った。

「先生のは物語とかキャラクターの色気が見えたけど、三谷のは音の色が肌に染み込んでいくみたいだった。自分の中の水分と、演奏から見える水面が共鳴したみたいな。感覚的にはべつのものだけど、でもどっちも一目惚れだったな」

 それをてらいもなく言うのがみそらなのだ、と思う。いまの表情だけで、どれほど自分が世界に存在することを認められたような気がするか、みそらは気づいているんだろうか。

「それに、わたしの名前、どっちかなんて聞いてきた人、いまだに三谷だけだよ」

「そうなんだ?」

「うん。インターン先でもやっぱり歌手さんのほうで言われるし」

 まだ一年の、入学してそんなに経ってない頃だったと思う。何かで――そうか、木村門下の発表会だ――それでみそらの名前を見かけて、ひらがなであることにふと引っかかりを覚えて、なんとなく聞いてみたことがあった。

 みそらもおなじことを思い出しているのか、ふふっと笑いこぼすと小さく続けた。

「名前の由来って、色のこと? それとも歌手さんのこと? って。由来になってる言葉すら知らない人ばっかりだったのに。うれしかったな」

 当時もそう返されたような気がする。――思い返せば、これがちゃんと話すようになったきっかけだったかもしれない。

 みそらの名前の由来は、色だった。みそら色――空に、「み山」「み吉野」と同じように尊いものを称える美称の「み」をつけて、みそら。明るく澄み切った、青紫色の美しい色の名前は、母方の祖母がつけてくれたという。

「そういうところも、三谷の『色』の感度が高い証拠だと思うんだよね。三谷の実家に行って確信した」

「え、うち?」

「うん。とくにご飯がそうかな。全部が全部手作りじゃなくても、どこかしら季節のものが入ってたりするし、それはここでも自然とそうなってるなと思うよ。ちゃんと野菜売り場とか魚売り場に行っても、三谷って旬のものを見てるなって思う。あとはやっぱり、喜美子きみこさんの読み聞かせとか、お着物もそう。うちの家にはあんなに何枚もないもの。わたしの成人式の着物はお母さんのものだったし、もしかしたら杏奈あんなちゃんが着ることになるかもしれないけど、詳しい知識があるとかそういうわけじゃない」

 思いがけない方向に進んだ雑談だけれど、そういうところがいいのだ、とやっぱり思う。自分が弾いている間にいろいろと思考を整理しているように、みそらもどこかで彼女の中にある思考を整理している。そのひとつがこうしてふれあっている間なのかもしれないと思えただけでもちょっとした発見だ。――だからやっぱり、ミミとかが似合うのだ。清純そうで、でもじつはしたたかな顔を持つパリの少女。

 もう一度彼女の中に身を埋めながら、それこそ言われたように自然と思考が展開していくのを感じる。それは厳密に言語化されたものではもちろんなくて、それこそ弾いているときの思考を何十倍にも希釈したようなものかもしれない。それでも自分の中の何かが流れて先へ進もうとあがいているのはわかる。それはここが学校に近い部屋の中だろうと関係なかった。外側には星が無限に広がっているし、みそらの吐息が風に乗ってバタフライ効果が生まれる。花びらが夜露に濡れているうちにあたらしい種が柔らかい土に落ちる。新しく咲いた花のそば、小さな獣が親の腹の下でまどろみ、親はみずからと愛し子を狙う獣の気配を敏感に察しすばやく立ち上がって駆ける。その先には雨雲が見えた。水滴が空から落ちて山に染み込み、ゆるやかに土の中を移動した水は川に届き、さらに波となって日本の海岸からヨーロッパの海岸まで時間をかけて移動し、海岸のそばで走り回る子どもの足元を濡らしている。その子どもが見上げた空の遠くでは数万年、数億年前の景色がきらきらと輝いていて、さすがにそこまではバタフライ効果も届かないかもしれない。それでもすべて変化していきながらひっそりと闇に濡れるような世界を繰り返し繰り返し感じていると、やっぱり楽器というみそらの言葉が的を得ていると思う。

 ――もがいていたのかな、とは思う。それは彼の曲の端々から感じ取れた。ポーランドという国の歴史を見れば、身を裂かれるような思いで故郷に焦がれることも、実感には程遠くとも、伝わるものが――二百年のときを超えた、こんな、ショパンが見たこともない場所と時代の、砂のひとつぶてのような自分でも慮ることはできる。そしてたぶん、それでいいし、――それが命題だった。

 思いを馳せることが、自分たちに受け継がれてきた、遺伝子によらない、音楽の血脈の証明であるはずだった。そしてそれは、みそらを見ていると、そこに矛盾はないのだと理解できる。みそらの中には、ミラノの歌姫も、スイスの水車小屋の娘も、パリの娼婦も、日本の四季に微笑む少女も、矛盾なく同居していて、それが山岡みそらになっているのだから。

 誰かとつくる音楽が、ここにはある。――あのとき、高校三年の夏に願ったことは、もう叶ったんじゃないか、と、ふと思う。みそらもそうなのかな、とは思うけれど、口には出さない。叶ったことがゴールではないからだ。

 ゴールで許されるのは、高校くらいまでだと思う。自分たちは学生だけれど、成人のカテゴリに入れられる年齢だ。将来一緒にいたいと思う人を自分で選ぶこともできるし、そのことについて家族と対等に話すこともできる。働く場所について調べて選べるし、何かを続けることも、やめることも選べる。――できなければならない。

 そこまで考えて、ふいに思考に光がさすような気がした。みそらの肌が透けてうっすらと輝く。――うん、決めた。やっぱり行こう。

「十二月中旬、か、年末年始になるかもだけど」

 上がった息を整えながら、見下ろしたみそらの前髪を軽く指で流していく。

「そっち行くから、予定しといて、山岡も」

 見上げてくるみそらの瞳が大きく開かれると、やっぱり何度見てもダリアのように美しかった。息をする赤い唇が動いて二度、三度と呼吸をすると、上下する胸と腕が自分にふれた。みそらはまだ上ずった声で、自分の肩にふれた指先にかすかに力をこめてそっと言った。

「十二月、の、上旬までは、スケジュールがあかないってことだよね?」

「うん、そういうことになる――というか、そうしたい」

 三谷がしっかりとした口調で言うと、みそらは今度こそ「そか」と吐息とともに小さく言って、ぎゅっと目をつぶる。それからゆっくりと目をあけると、花がほころぶように、こらえきれなくなったとわかる笑みをその顔に浮かべた。

「どっちも、ってことだよね?」

「うん」

 三谷がもう一度うなずくと、みそらは両手で口元を覆った。長いまつげが薄く影をつくるさまを見ていると、指輪が銀色に鈍く輝くのがわかった。

「すんごいご褒美がきた感じ」

「言っとくけど山岡、片方は当事者だよ」

「わかってます。でもうれしいものはうれしいの」

 みそらの笑顔を見ていると、「山岡さん効果ってすごい」という森田の言葉が頭をよぎる。――結局当たってるんだよな、涼の言うこと。毎回。腹が立つけど。

 みそらの左手を自分の右手で絡め取ると、みそらの左の指にある細い銀色が鈍く輝く。それをそっと引き寄せて銀の光に唇でふれると、遠い国の風が薫るような気がした。

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