5-2
(承前)
たぶん、と、以前こっそり森田と話したことがある。
葉子の奏法は、
これはたんなる事実だ。
そう考えると、
「涼って、弾けなくなったらどうしようとか思ったことないわけ」
あまり深く考えずに口に出したことだった。けれど歩いていた森田は、心底驚いたように足を止めて三谷を振り返った。
「
「え、――いまの?」
うなずいて、森田はまた歩き始めた。三谷もそれに続く。
「ちゃんと一般的な思考回路してるなと思って、ちょっと感動した。俺、それないし。あ、嫌味じゃなくてね」
と言って、森田はちらりと視線をよこした。
「夕季って、就活中に『いつか怪我してこの会社に勤められなくなったらどうしよう』とか思ってたことある?」
「……ないね」
言って、思いっきりため息が出た。
「ごめん、変な質問した」
心から言うと、森田は「気にしなさんな」と本当にからりと笑った。
「だから山岡さんも安心なんじゃない? 山岡さんってけっこう、走り出したら止まらないところがありそうだし」
「……それはあるかも」
たしかに「三谷の意見があってよかった」とみそらから言われたことは何度かある。――というか、そういうのを見抜いてしまうのが、やっぱり森田涼が
「俺のエゴと夕季のエゴって、ぜんぜん別なところにあるんだよ。違うっていうそれだけの話だと思うけど」
「エゴ?」
「俺は弾ける以上は弾いていきたいし、習うなら葉子先生みたいな教え方の先生がいいっていう、弾くことを前提にしたエゴ。でも夕季は、学問としての付き合いをやめることを前提にしつつ、その上でギリギリの選択をする。しかも進学校から音大で今度はストレートに就職って、どんだけ嫌味なんだよってなるだろ、一般的に見て。そういうエゴ満載なところが、夕季のいいところ」
「……ぜんぜんいいところに聞こえないんだけど」
「一般的に見たらそうかもだけど、そこまでしがみついてるところが俺は好きだし、江藤先輩もついついかまっちゃうんじゃないの?」
しがみついてる、というところについ息が詰まる。すぐにそれを吐いて、三谷は少し声を落とした。
「じつは、卒業してからも月二回くらいは葉子先生のレッスンに行こうかなと思ってて」
「え、まじ、初耳」
「考え出したのほんと最近だから」
「なんでなんで? まじ? まじでいってんの?」
ここまで食いついてくるか、と内心ちょっと引く。
「山岡はけっこう前からレッスン続ける気でいたみたいだし、今回みたいに江藤先輩から声がかかったときに技術的に出来ない、って思うの、やだなと思って」
日程などで参加できないぶんは仕方がないと思う。会社のイベントとか、どうしても練習時間が取れないとか、そういう理由なら。でも、――思うだけで胸が灼けるのだ。技術的なことで江藤先輩に、山岡みそらについていけないと、そういったことを想像するだけで。
――たまらないほどの絶望が胸に響く。
「だからまあ、涼の言うエゴって、大正解な気がする」
うれしくないけど、と心の中で付け加えると、「へえ」と森田は感心したようにつぶやいた。それからもう一度「へえ」と言って、今度こそうれしそうに笑った。
「山岡さん効果ってすごいな」
「茶化すなって」
三谷が本気でいやがったのを悟ったのか、森田は「いや、まじだよ」と言葉のとおり真面目なトーンで言った。
「山岡さんがいなかったらそこまで考えなかったってことだろ? 江藤先輩もだけど、江藤先輩はもうプロの人だから、夕季ってその一線は踏み込まないし。でも山岡さんだったら現実的に考えられるってことだろ。すごいよあの人」
本当に感心したように言って、それから涼はまた笑った。
「よかった、夕季が続けるんなら」
あまりの屈託のなさに三谷のほうこそびっくりしてしまう。言葉を返せないでいると、「じゃあ、あれもお願いできるか」と森田は続けた。
「コンチェルトの練習のときのセコンドとか」
「はあ?」
思わず出た声に、すれ違う下級生らしき生徒がびっくりした目線を投げてきた。
「え、だって夕季ほどセコンドうまい人、いないし」
「
「だから帰国したときとか」
「おまえほんとめんどいな」
本音がぜんぶ漏れてしまった。でも森田相手だといつもこうだ。――それがとてもありがたかったりもする。
「で、本題に戻るんだけど」
三谷の言葉は完全にスルーし、そう言って森田はソルフェージュの部屋のドアノブに手をかける。廊下の窓から差し込む光は、秋の夕暮れ、あざやかな茜だった。
本題って先輩の伴奏じゃなかったのかと半分呆れながら思うけれど、口にするのはもうやめた。それくらいにきれいな茜色に体をひたす森田涼を、――この距離で見るのはあと何回だろう。
「今度の水曜の夕方、時間ある?」
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