5-1

 室内楽は、二年生以降は生徒たちでグループを組むようになっている。三谷みたに夕季ゆうきは二年次に三重奏トリオ、三年からは基本的にピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットという構成の六重奏セクステットだ。曲の編成によっては五重奏クインテットになることもあるので、他のグループと掛け持ちしている生徒もいる。こういうのは好みが出るもので、羽田はねだ門下の四年生でいうなら、森田りょうは二年のときからずっと三重奏だし、白尾しらおあきら、清川奈央なお、松本恒大こうだい四重奏カルテットを選んでいる。

 室内楽をやっていると、ふしぎと幼児期から小学校を卒業するまで通っていた音楽教室のレッスンが思い出された。清川奈央の就職先もこの音楽教室――もちろん店舗は違うけれど――で、自分が通っていた場所に同門の友人が就職する――あのころの自分からは「先生」に見えていた人に、友人がなるのだというのは、なんだか妙な心地がした。いやとかうれしいとかそういうたぐいのものではなくて、――年をとったな、というような。

 思い返せば、受験時に聴音ちょうおんやソルフェージュが苦にならなかったのはその音楽教室のグループレッスンでやっていたおかげだし、伴奏での移調いちょうもそうだ。習熟度の確認のために毎年度末にはグレードの試験があって、そこでは初見しょけん演奏や伴奏づけ、即興演奏などもやっていて、それが室内楽や伴奏の役に立つということにも三谷は早い段階で気づいていた。

 外で遊びたいさかりの小学生のうちに、グループレッスン、個人レッスンと、週二回のレッスンを続けられたのは、ひとえに自分がグループレッスンでやるアンサンブルが好きだったからだ。

 自分ひとりのソロでは演奏できない曲、たとえばガーシュウィンの『パリのアメリカ人』などであっても、六、七人のグループで電子ピアノを駆使すれば形になる。その感覚は伴奏にもよく似ているし、なにより室内楽に通じるものが大きい。室内楽は三谷夕季にとって純粋に「なつかしい」と感じられる時間だった。

 森田涼につかまったのは、週明け、その室内楽が終わったあとだった。先にレッスンが終わっていたらしく、三谷たちのグループの部屋の扉の横にいた森田を認めた三谷は率直にぎょっとした。

「涼、なん――え、俺?」

 思わず確認すると、森田は「いや、他に誰がいんの」と軽く受け流した。他のメンバーが「じゃあまた来週」と三々五々散っていくのに返事をしながら、三谷夕季ゆうきは思いっきりうさんくさいものを見るような視線で同門の友人を見た。

「……なに」

「つぎのソルフェ、一緒に行こうかと思って」

「え、――きもちわる」

 反射的に出てきた言葉は本音だった。森田涼は「誰かと一緒に」というようなタイプではもちろんない。ていうか絶対にありえない。なにしろ同門で、一年のころからの付き合いなのでそれくらいはもう十分にわかりきっている。でも予想外に森田はかすかに顔をしかめた。

「きもちわるはひどくない?」

「いやだってお前……キャラ変か」

 これもつい正直に口に出すと、森田は軽く笑って歩き始めた。

「そっち、いまやってるの何?」

「プーランク」

 三年のときにはオーボエが入ったモーツァルト、ベートーヴェンなどの五重奏を、今年度は楽器が入れ替わりながらカプレやリムスキー=コルサコフの五重奏、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の室内楽編曲バージョンもやった。いまやっているのは二月に行われる選抜チーム演奏会のための、プーランクの六重奏だ。

 一方で森田のグループの三重奏は、二年からやっていたことに加え、森田と並んで遜色のないレベルのメンバーしかいない。森田はこういう性格だけどじつはかなりのオールラウンダーだ。三谷ほど伴奏に執着がないのが森田涼で、伴奏・ソロの両面の要素が求められる室内楽も得意だ。中でも古典派がうまいのが森田のグループだった。少ない音数、楽器が、最大限に生きる――そういう、室内楽の本質的な良さがある。

 ソリストの伴奏をするのとも、コンチェルトのセコンドを担当するのとも違う、ごく少人数でそれぞれの楽器の特性を生かしながら作っていく曲は、なんというか、とてもクリアだと思う。大人数でやるコンチェルトなどとはまた違う、それぞれの楽器の良さがありありと浮き彫りになる演奏形態は、純粋な「合わせる」おもしろさがある。

 森田はそういう部分もよく理解し、楽しんでいるからこそ室内楽といった少ない編成でも彼のオリジナルな部分が発揮できるのだろう。森田の解釈は、最近はソロだとよりそのオリジナリティが発揮されるようになっていた。楽譜通り、つまり神の声――作者の指示通りでありながら、「ショパンらしい」「ベートーヴェンらしい」という表現だけにおさまらない、どこか泰然とした――あまり大声では言いたくはないけれど、大人びた解釈が森田にはあった。戦中戦後などに活躍した大御所たちのようなあくの強さみたいなものが出てくるのはせめて三十を超えてからじゃないのか、と思わずにはいられなかったけれど、――これこそが森田が渡独できる理由のひとつで、だから菊川きくかわ先輩と並んでいてもふつうに見える。

 つくづく嫌味なやつ、とは思うけれど、今日の突拍子もないような行動も、ソロの独自性も、室内楽の勘所の良さもすべてまるっと「森田涼」なのだからしかたない。――と、思えるようになったのはいつ頃だっただろう。

 そんなことをほんの数秒のうちに友人が考えたなど知りもしない森田は、三谷が言った作曲者名だけですぐに曲がわかったらしく、「ああ、あれか」とつぶやいて歩き始めた。

「いいよな、あれ。人数が多いぶん合わせるのは大変だと思うけど」

「そっちに比べればそうかもだけど、うち、吹奏楽の経験者が多いから。リーダーは倉持くらもちだし」

 クラリネットの倉持は三谷たちの学年の管楽器の特待生だ。彼女が特待生を落としたのは二年生に上がるときの一度きり。それくらいに特待生の維持は難しいのだけれど、三年生に上がるときの特待生選抜試験での彼女の演奏はすさまじかった。なんというか、――ありていに言うと、覚悟のようなものがあった。この楽器を離さない、ここで生きていくというような、そんな、二十歳そこそこの少女には見合わないような、それでいて彼女にしかないような生命力があった。

「あ、そうか倉持か。じゃあ大丈夫か」

 吹奏楽経験者はアンサンブルに慣れている。ピアノでアンサンブルといえば連弾が最小の形で、三谷が経験した音楽教室でのアンサンブルは、通っていなければ経験できない、ある意味とてもまれなものでもあった。そう気づいたのも、じつは大学に入ってからだ。大概の生徒は個人レッスンのみで学んできている。

「ピアノくらいだもんな、ずーっと一人で山ごもりしてんの」

 山ごもり、という言い方が妙に的を得ていて、つい三谷は吹き出す。

「まちがいない」

「な。――だから、なんかたまに場違いな気もすんだよな」

 場違い、という言葉に意表を突かれ、三谷はつい森田を見た。

「――やっぱきもちわる」

「え、何が」

「涼がそういうこと言うの、まじできもちわるい」

 三谷が正直に言うと、森田はなぜか呆れたような、感心したような顔で大きく息を吸った。

「……ほんと、夕季って俺のこと好きな」

「余計きもちわるいこと言うな」

 ほとんどかぶせ気味に言うけれど、相変わらず森田は気にしていないようだった。

「山岡さんのおかげ、っていうのはあるんだろうなと思って」

 続けて聞こえた言葉に、三谷は思わず首をかしげた。なんでここで山岡の名前が出るんだ、という疑問が顔にありありと出たのか、森田はそんな三谷を見て笑った。

「で、どうすんの、江藤えとう先輩のやつ」

 それが聞きたかったのか、とつい苦笑しながら三谷はバックパックを背負い直した。

「やりたい、とは思ってるよ」

「夕季が『やりたい』って言うときって、もうほぼ決まりじゃん」

 森田の言葉を否定する気は起きなかった。というか人間はたいていそうだ、と三谷は思う。やりたい、と誰かに言ったときは、大概そちらに意思が傾いているときだ。

「決めきれてないの、どうせ小野おの先生関連だろ」

「――涼」

 五限目の前とはいえ、生徒はまだ多く行き来している。どこにどんな耳があるかわからない。三谷のそういう視線に気づいても、でも森田の表情はいっさい変わらなかった。

「気、つかいますね」

「そりゃそうだろ、葉子ようこ先生の顔もあるんだし」

「そういうところがめんどいんだよな……」

 森田の反応に、夏井なつい先生か、と心の中でつぶやく。森田がダブルレッスンについているのは、客員教授の夏井先生だ。小野先生とも仲がよく、そういうこともあって葉子が現役時代にダブルレッスンについた先生でもある。ただ、仲がいいからといってかならずしも奏法や教え方が一致するとは限らない。小野先生と夏井先生は、違うからこそ得るものがある、という考えのようだった。そうでなければ互いの生徒をそれぞれダブルレッスンとして行き来させるなんてできないだろう。


(5-2に続く)

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