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 向かった学食で、いつもどおりに比較的栄養バランスの良さそうな定食を受け取り、みそらは相田あいだ美咲みさきの姿を探した。混雑した学食、でも――ものの数秒で見つかった。

 いつもの場所ということもあるだろうけれど、そうでなくとも美咲の姿は目を引くのだ。美咲がめざす研修所の試験は十一月上旬からはじまる。日々のレッスンに加え、バレエや食事、美容にもかなり力を入れている美咲は、試験日まであと二ヶ月を切ったいま、さらにその美貌に磨きがかかっている。どこにいても否応なしに目を引く、――そんな存在が親友であることが、いまは素直に誇らしい。

「おまたせ」

「おつかれー」

 これぞ日本美人というようなつややかで豊かな黒髪を背中に流し、美咲は手を上げた。まるで白雪姫か――その継母みたい、とみそらはこっそり思う。悪役っぽいということではない。美咲の美しさと声質には、その悪役すら自在に演じてみせるような、しなやかな強さがあった。

「やっぱり学食、人多いね。駅ビルがよかったかな、カロリー計算とか大丈夫?」

「だいじょーぶ、調整できるようにしてるし。そもそも呼び出したのは私なんだし、みそらが気にしなくていいの」

 美咲もみそらと同じ定食だ。にこ、と笑って、美咲は対面の席を手のひらで示し、「そちらにどうぞ」と軽やかに続けた。

 今日の二人の講義は四限の合唱からだけれど、美咲が二限に担当講師である飯田いいだ先生に呼び出されたこともあって「一緒に昼ごはん食べない?」と声がかかった。おそらく試験前の特別レッスンか、それに伴う話し合いなどではないか、とみそらは踏んでいる。三谷みたにも今日は四限の室内楽からなので、三谷の練習時間をつくるのにもちょうどよかった。

「合わせは?」

「出てくる前にしてきたよ。合唱とかがあるから短めだけど」

 みそらが腰を下ろしながら答えると、美咲は「さすが」と感心したようにつぶやいた。

「三谷って、みそらのマネジメントしてるんじゃないかってたまに思うよね」

 美咲がそう言うのは、みそらの伴奏者である三谷が「歌いすぎは声楽科にとっては禁忌」ということを十分に理解しているからだ。とはいえマネジメントとまで言えるだろうかと、みそらは「いただきます」と手を合わせながら考えてみる。

「マネジメントってほどかなあ」

「だと思うよ。二人のペースが似てるっていうのもあるだろうし、それ以上にお互いの専攻の特性をよくよく理解してるでしょう」

 たしかに、とみそらは心の中でうなずいた。

「あと三谷ってアンサンブルが好きみたいなんだよね。今日の室内楽もそう」

「あ、それもわかる。私が振った伴奏法だってそうだしね。――で、後期も早いうちにまた羽田はねだ先生の伴奏法に行きたいんだけど、三谷、どう?」

 美咲も手を合わせ、それから定食に手を付け始めた。こんなに庶民的なラインナップなのに、美咲だと箸の動かし方や手付きなどで、マナーがしっかりと身についているとすぐにわかる。美咲は左利きだけれど、動きがきれいなのでまったく気にならないのだ。みそらはうっかりして何度か美咲の左側に座ることがあったけれど、それでも美咲の所作の美しさには一点の曇りもなかった。右に矯正されるわけではなく、その上でしつけられている。相田家の考えが垣間見えるように思えた。

「こないだ江藤えとう先輩から伴奏のオファーがあったらしいよ。正直、けっこう忙しいと思う」

「まじで? 江藤先輩?」

 ぱっと喋っても美咲の美しさは変わらなかった。と同時に、やっぱり江藤先輩のネームバリューの重みを感じる。

「まだ本決まりじゃないらしいけど」

「でもやるんじゃない? 江藤先輩が相手なんだから」

「うん、かなりやりたいだろうとは思う。でもそうなるとなあ……」

 四年になってどこの専攻も学科は減ってきたとはいえ、ピアノ科では室内楽をはじめとした実技形式の講義はまだあるし、三谷のレッスン自体が今年度からはダブルレッスンになった。みそらの伴奏も相変わらずでたまにコンクールなどにも出るし、当然ながらインターンもある。これだけでも空恐ろしいくらいなのに、時期的には学内選抜の予選がみそらと三谷それぞれにあり、さらに三谷はコンチェルトの選抜も受ける、と言っている。そこに先輩の話があれば、――と思ったところで、もうひとつのことも思い出した。

「あとは、のびのびになってることもあるし」

「のびのび?」

 語尾を上げる美咲に、みそらはうなずいて飲み込んで、それから言った。

「うちへの挨拶」

「ああ、実家ね。そっか、それっぽいの決めたの、こないだだもんね」

 菊川先輩のコンサートのときなので、まだちょうど一ヵ月くらいだ。その間に後期が始まり、みそらは一度葉子ようこにくっついて福岡に行っていて、さらに先の予定もかなり埋まりつつある。

「電話とかではお母さんともお父さんとも話してるし、亮介りょうすけとかもよくチャットしてるし。うちの親だってそれなりにこの忙しさは理解した上で、まだあとでいいって言ってるんだけど」

「その時点でもう及第点なんか余裕で超えてるでしょう」

「と思うけど。でも三谷にしたら赤点回避くらいなんじゃないかなあ。たぶん、わたしが三谷の実家に何度か行ってるのもあると思う」

「うーん、でもそれ、完全に距離の違いじゃない?」

「そうなんだよね。それにうちの親、学内選抜に受かったら聴きに来るって言ってるから、それでいいんじゃないかと思うんだけど」

「そうは言っても、――ってやつね」

 美咲はうなずいて、味噌汁に口をつけた。口紅が落ちるようすがまったく見当たらないのは、やはりいいお値段の商品を使っているからだろうな、とみそらはこっそり思う。それがうらやましいとかじゃなくて、美咲の場合は「相田美咲」というブランドがそうさせるのだとも理解している。

「そういえば、学内選抜はあの二曲なんだよね?」

 何気なく話題を変えてくれるのも、美咲のするどい観察眼のおかげだ。

「うん、前期のうちに候補にしてたやつ」

「そか。いい選曲だよね。私としては、みそらならもっと前からできると思ってたんだけど」

「そこはまあ――踏ん切りがついたっていうか。そっちは?」

 先日まではみそらとおなじでまだ選んでいる途中、と言っていた。今日の飯田先生の呼び出しもあるし、この話題を振ってきたということは――とみそらが思っていると、美咲も「うん」とうなずいた。

「『椿姫La Traviata』」

「『Addio, del passato』?」

「Si」

 みそらが曲名を原題で言ったからか、英語での「Yes」とおなじ意味のイタリア語で美咲が答える。美咲はもうイタリア語も相当話せるはずだ。曲名を聞いたみそらはつい笑みを抑えきれなくなった。

「美咲のドラマティコなヴィオレッタ、いいよねえ」

「っていっても、オペラ演習とかでも聞いてるじゃない」

「授業とかじゃなくて、選ばれて用意された舞台に、美咲のヴィオレッタが降臨するのがいいんだよ」

 力説するみそらに美咲は一瞬ぽかんとしかけ、右手で口元を覆ってやや呆れたように言った。

「みそらも私のこと、大好きだよね」

「そりゃあ、自分と真逆の声だもの」

 真逆の声、となんの引っ掛かりもなく言えるようになったのは、先日の福岡行きのおかげかもしれない。――ゆうちゃんは元気だろうか。この時間なら幼稚園に行っているのだろうか。三谷と名前の色がおなじ、ちいさな女の子。

「三限目、伴奏法のネタ出しどう?」

 美咲の、やや低めながらリズムを感じられる声が聞こえてみそらは顔を上げた。

「そうだね、――いまのうちにやっといたほうがいいよね」

 みそらのスケジュールを把握しているのが三谷なら、逆も然りだ。江藤先輩のことも加味したほうがいいな、と思いつつ、みそらはどんな曲がいいか考えをめぐらせ始めた。

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