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 土曜の夕方の下り電車は、それでも人はそこそこ多くて、三谷みたに夕季ゆうきはつり革に捕まってスマホの音楽プレイヤーを立ち上げた。曲を聞きながら合わせの内容を反芻していると、電車に乗っている時間もあっという間に消えていった。

 先輩は曲についてはふれていなかったけれど、おそらく今日やった曲のうちのどれかがプログラムに載るのだろう。いまから新曲で合わせるというのは、伴奏が自分ではなくてもスケジュール的に厳しいのだと思えた。

 どれだろう。トマジは去年の演奏会でもやったし、ディプロマ・コースの試験曲でもあった。でも第三楽章ならまだ一緒にではやってないし、――などと考えながら、足はしっかり無意識のままにもマンションへ向かい、部屋のドアの前へとたどり着いていた。スマホをもう一度取り出し、『ついたよ』と送る。ものの数秒でドアチェーンが外される音と鍵が開く音がして、開いたドアの隙間からみそらの笑顔が見えた。

「おかえり」

「ただいま。キッチンにいた?」

「うん。そろそろつくり始めようかなと思って移動したところ。だからまだ手つかずだけど」

 部屋の中に入ってよく見れば、みそらは袖をまくってエプロンもつけていた。授業がある日よりも早めに動けるのは、今日が土曜だからだろう。

 三谷が荷物を下ろして手洗いとうがいを済ませた頃合いを見計らってか、みそらが洗面所の後ろから鏡越しにまた顔をのぞかせた。

「先輩、なんだった?」

「演奏会の伴奏の打診。十二月の第一土曜にあるんだって」

「ほんと――」

 と言いかけ、けれどみそらは音がしそうな速さで両手で口を覆った。三谷が思わず「どうしたの」と振り返ると、みそらはそのまま首を横にちいさく何度も振った。

「なんでもない」

「うそ。何か言いかけたじゃん」

 反転していないみそらの左手にはいつもの指輪があって、それにどこかほっとしながら三谷はその軽やかな左手にふれた。

「なに?」

 やわらかく促すと、みそらはかすかにむくれたように顔をしかめた。恨めしそうにも見える瞳を縁取るまつげがこちらを向くと、何度見てもダリアのように美しい。みそらはまだ口元を押さえたまま、ちいさな声で言った。

「外野の声で判断を鈍らせたらだめだと思って」

「外野の声って――」

 なんのこと、と続けそうになって、ふいに気づく。そうか、あれか、ファン発言か。つい笑みがこぼれた。

「ファンの声ってかなり大事だと思うけど」

「だから――」

 みそらはじれたように手を下ろした。でも三谷の右手はまだみそらの左手にふれたままだ。

「ファンの声優先で、自分優先にならないのはおかしいよ」

「やっぱりファンのところは否定しないんだ?」

 なかばからかうように言うと、みそらは「しません」とすねた口調で言った。

「卒演以来に三谷と先輩のコンビ見られると思ったら浮かれそうにもなります。でも――まだ決めてないんでしょ」

「うん」

 みそらは自分がどれくらいの曲を抱えているか、どんな予定があるのかなども把握している。

「だから、わたしの勝手な舞い上がりっぷりが判断の邪魔になっちゃだめだと思ったの。これは同居人としても、同級生としても、ファンとしても、共通の意見」

 決然とした口調から、言ったことに嘘がないことがわかる。でも。

「そういうの、先輩だったら素直にうれしがると思うよ」

「もー! だから、おたくを喜ばせるようなことばっかり――」

 前触れもなくみそらを抱き寄せる。さすがにみそらも軽く驚いたようで一瞬体が固まる。でもそれもすぐにほぐれて体の線がやわらかくなり、自分の背中にみそらの両手がふれるのがわかった。

「……もしかして、すごくがまんしてますね?」

「してますね」

 三谷の即答に、みそらは嬉しそうに笑いこぼした。

「だよね。半年ぶりだもんね。――ごめん、じつはちょっと、そういうことにならないかなって期待してました」

「え、まじ」

 驚いてみそらの肩口にうずめていた顔を軽くあげると、「まじです」とまた笑みを含んだみそらの軽やかな声が右耳のすぐ近くで聞こえた。

「先輩からの呼び出し、あんまり脈絡ないなと思ってたの。会って近況報告するだけだったら、わざわざスタジオじゃなくても良さそうだなとか」

「それって……おたくのカン?」

「うーん、これはどちらかというとライバルのカン?」

「なにそれ」

「クリスティーヌを取り合うラウルとファントム的な」

「……なにそれ」

 ぜんぜん意味がつかめなくて脱力したようにおなじ言葉を繰り返すと、みそらが笑う振動が体に伝わってきた。

「三谷がやりたいならやればいいと思うし、そうなれば素直にわたしはうれしいし。でも学内選抜もあるから無理しないでね。月並みなことしか言えなくてごめんだけど」

「うん」

 うなずいてすこし距離を取ると、みそらの表情がよく見えた。いつもの落ち着いた表情をつくる透き通る白い肌に、かすかに気遣う色が見える。かすかに、というのがみそららしくて、それに気づくとついふれてしまいたくなる。そういう顔、しなくていいのに。――違うか、させてるのは自分だった。

 雪みたいだ、と思って、みそらの左頬に指先でふれた。鍵盤にも似た色なのに、ふれた感覚はまったく違う。やわらかくて――体温が、ある。

 この白い肌や、みそらの美しい声をつくったのは、まだ自分が足を運んだことのない、みそらの故郷だ。抱きしめて、口づけて、体を重ねたところでそれが見えるわけでも聞こえるわけでも香るわけでもない。

 それでもすこしくらいは感じ取れるだろうかと思いながら、ゆっくりと口づける。みそらの長いまつげが自分の頬をなで、吐息を通わせるたび、まだ見えない場所への距離がかすかに縮まるような気がした。

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