第十一章 空の色をおしえて
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久しぶり、という感覚は、ものの数秒で消えた。
最初に音を合わせた瞬間、これまでの半年という時間が泡のように消えていった。いや、消えたという感覚よりも、溶けた、というか。最後に合わせた三月からこの九月までの時間が、なにか融合してしまったというほうが近いかもしれなかった。
いつもどおりだった。先輩の呼吸に合わせる、音に合わせる、音の先を見て自分のペダルを調整する。一緒にのぼり、下り、曲を旅していく。トロンボーン特有の音が肌を震わせ、狭い部屋の中、ピアノの上を縦横無尽に駆け巡る。相変わらずの自由さの中に三月までにはなかった響きを見つけて、
部屋を借りる時間は二時間だ。通してみて細かく合わせ、また別の曲も合わせながら通し、あっという間に時間が過ぎていく。世界が音と自分と先輩と楽器だけになる中で、ふいに赤い色が割り込んできた。部屋の防音ドアの上あたりにつけてあるランプだった。
救急車のように回転するランプは、終了まで残り五分であることを告げた。音楽スタジオだからか、音は鳴らないままに、しかし主張の激しい色がピアノや先輩の楽器を照らすのを見て、もう終わるのか、と思った。――二時間って、こんなに短かったけ。終わりを悟った体から一気に力が抜けた瞬間、「みっちゃん」というクリアな声が耳に届いた。
「とりあえず撤収しよ。俺のは外でもできるから、先にピアノで」
「はい」
三谷は先輩の楽器のようすを横目に入れつつ、ベンチに腰を下ろして息をつく。半地下になっているこの店の入り口から見える空は、かすかに茜に染まりはじめていた。
「つかれた?」
会計を終わらせた江藤
「いや、そこまで。でも先輩、やっぱスタミナついてますね。最後までほとんど息上がんなかったし」
「そーだっけ? みっちゃんもノンストップだけどぜんぜんだいじょうぶそうですげー楽しかったよ」
屈託なく笑って、しゃがみこんだ先輩はいつものように――半年前とおなじように、手早く、でも丁寧に楽器を片付け始めた。
「音の厚み、前より良くなってるなと思ってたんだけど、そういえば
森田の、が抜けているけれど、先輩の言っていることはわかった。ショパンのコンチェルト一番のことだ。
「第一楽章だけですけど。セコンドもやったから、そのせいかな……」
「え、まじ、セコンドやったの? へー聞いてみたかった」
「もうだいぶ抜けてますけど。いまやってるの、プリモなんで」
「コンチェルト、受けるんだ?」
「予定では」
「予定」
と繰り返し、先輩は一度ちらりと視線をこちらへ寄越した。
「本決まりじゃないんだ?」
「本決まりのつもり……ではあったんですけど」
一度言葉を切る。それから三谷は続けた。
「ちょっと迷ってて」
「ふうん」
と先輩がいつものように軽く相槌を打つのと同時に、パタンと音を立ててケースが閉まる。先輩はバックパックからペットボトルを取り出すと、それを持ったまま三谷の隣に腰を下ろした。
「あのさ」
先輩が蓋をひねると、かすかに空気が抜ける音がした。
「今日、じつは、お願いがあって呼んだんだ」
三谷がつい首をひねると、先輩はちょっとだけ表情に苦笑の色をまぜた。
「もしスケジュールが合えば、十二月の第一土曜にある演奏会、伴奏してくんないかなーと思って」
さすがにびっくりして目が丸くなるのが自分でもわかった。卒業してこちら、先輩からの伴奏依頼はなかったし、それが暗黙の了解でもあった、のに。
「え、いつもの伴奏者さんは?」
「ほかの予定とかぶっちゃったんだって。俺が参加するのが決まるのが遅かったのもあったんだけど。で、どーしようかなと思って。っていってもみっちゃん一択だったんだけど」
そこまで言って、先輩は「ごめん」と苦笑した。
「あとから言うとか、ちょっと順番が意地悪で」
「あ、いや――半年あいてますし、その分レベルが落ちてないかの確認は必須だし」
と三谷が言うと、一瞬きょとんとした先輩は、それから一気に笑い出した。
「ごめん、そっちか。あーみっちゃんってそうだよね、そっちだった」
一人で納得し、先輩はすぐに笑い収めた。でも表情はどこかうれしそうだった。
「俺が言った『意地悪』は、合わせのあとだったら断りづらいだろうなってこと」
「断りづらい?」
「楽しかったでしょ? 久しぶりにやると」
こういうときに真正面から言ってくるのが江藤颯太だ。三谷もつい笑いこぼした。
「ですね」
「ねー。だから楽しいのがわかったら断りづらいだろうなって思って。スケジュール的なのはべつにして」
順番ってそっちか、と内心でほっとする。先輩の観察眼は相変わらずだった。それに――
「レベル的には問題なし、ってことですか?」
「え、ぜんぜん。それどころか卒演のときよりなんかよくなってるし。それがコンチェルトとかのおかげかなーとか」
「それもあるかもだけど、――あと、伴奏法とか」
「あ、
相田
「言い出したのは相田ですけどね」
「でもそれに乗ってやり遂げちゃうあたりがみっちゃんたちらしいけど」
そう言って笑って、先輩はお茶を何口か飲んだ。自分も喉が乾いていたのを思い出して、おなじようにバックパックからペットボトルを取り出す。
「最近、どう?」
そういえば合流してすぐに合わせに入ったから、こういう雑談はまだ今日はやっていなかった。お茶で喉をうるおすと、落ちていく水分が体中の細胞にしみ渡っていくような感覚がした。
「うーん、普通ですかね。インターンも続けてるし」
「でも実際、俺とやってたときよりもだんぜん忙しくなってない?」
「そうですか?」
先輩の言葉に三谷は首をひねった。
「やることはたしかに多いけど、――基本的に、自分のことに責任取ればいいから、気は楽かも」
「ふうん」
ちょっと感心したように先輩は言った。
「山岡さんのことは『自分のこと』に入るんだ」
相変わらず先輩はこういう言い回しにも敏感だ。
「ねー実際どうすんの? 籍入れる?」
絶対言うだろうなと予測したそのままの言葉だったので、三谷は慌てずに答えた。
「どうしようかとは話してます。卒業式と入社式の間がいいかとか……名前がもう仕事先で浸透しちゃってるんですけど、それはビジネスネームでいいかとか」
「そこは別姓とかにしないんだ?」
「いまのところは」
「そか」
とうなずいて、先輩はペットボトルを手のひらでころころと行ったり来たりさせながら笑った。
「一年前、どうしようか悩んでた人とは思えない回答」
「……先輩こそどうするんですか、名前とか」
「俺はまだ。卒業して一年経ってないし、早くても来年の春以降か、もうちょっと様子見してもいいかもだし」
たしかに江藤先輩が葉子の教え子だったことを憶えている人物は、まだ周りにも多い。後輩なんかもそうだ。そこに先輩と師匠の慎重さを見た気がして、三谷は小さく息を吐いた。
「ほんとは、ちゃんと山岡の実家に行こうと思ってるんですけど、なかなかスケジュールが取れなくて」
「四年生って、あんがい暇じゃないっしょ?」
「ですね……」
先輩は就活組ではなかったけれど、それでもどこかに挨拶に行ったり、演奏会に参加したり、学内の企画や発表会に参加したりと忙しくしていたのを思い出す。――たしかにあれから一年が経ったのだ。
「まあそこで話をもってくるのが俺なんだけど」
と、悪びれない口調で続くので、三谷は思わず笑いこぼした。
「さらに考える案件が増えましたね」
「うん。コンチェルト受けるとするならけっこう、ていうかかなりスケジュールいっぱいいっぱいだと思うけど、でもやっぱり声かけるならみっちゃんだなって」
「断りづらい言い方しますよね」
正直に言うと先輩は悪びれずに笑って、またお茶をひと口飲んだ。
「だってほんとだもん。合わせなくてもみっちゃんがいいなーってそっこーで思ったし。合わせたら余計にやりたいって思えたし」
正直すぎるのがこの先輩だ。三谷は思いっきり苦笑した。でも悪い気はまったくしない。
「たしかに、『意地悪』ですね」
「ね。ま、ほんとのところ葉子先生にもお願いしたいんだけど、それもちょっとまだ控えたいしね」
先輩と葉子――自分の担当講師でもある
けれどそんなことを無駄に気にしないのが、この先輩だ。相変わらずのテンポで先輩は言った。
「まあ風のうわさじゃ、二人にもファンがかなりついてきてるみたいだし。先に脱退したメンバーとしてはうれしい限りですよ」
そのまま「そろそろ行く?」と外を軽く指差す。三谷はうなずいてペットボトルをしまい、そのまま肩にバックパックを背負う。先輩もおなじで、そこに楽器ケースが増えるくらいの違いだった。
受付に「ありがとうございました」と会釈し、ガラス戸を開ける。ほんのすこしだけど、先月のコンサートに比べて秋の色が空気に混じっている。半地下から道に上がるための階段を登る先輩の背中から、「いまのところ」という声が聞こえた。
「どう?」
「――伴奏のことですか」
「うん。いまの状態だとどこまで返事できる?」
率直な言い方だった。だから率直に答えられる。
「半々です。正直やりたいんですけど、まだ即答できるほどスケジュールの整理ができてないので」
「そか」
一番上の段について歩道に行った先輩は、それでも三谷を振り返るとうれしそうに笑った。
「かなり見込み大」
「え、――
「いや、
びっくりして三谷が先輩を見返すと、人混みを背に先輩は笑った。
「みっちゃんが俺の誘いを断るとかはあんまり思ってなかったけど、忙しいのは事実だから」
うっわすごい自信、と思ったけど、このすがすがしさも江藤先輩ならではだ。
「いつまでに返事すればいいですか?」
「できるだけ早いと助かるのが正直なとこだけど、――でもっぱり月末かな。ごめんね、時間なくて」
十二月に本番ならそこくらいが限度だろう。昨年の演奏会とは状況が違う。三谷は「ごめんね」に首を振って笑った。
「わかりました。そのくらいまでには」
「うん。無理はしないで。でも俺としてはみっちゃんがいいけど」
最後にやっぱりうれしい『意地悪』を付け加えて、先輩は「じゃーね、ばいばい」と手を振りながら人混みにまぎれていった。
最寄り駅までは徒歩五分ほどだ。そちら方面に向かい直すと、自然と大きな息が出た。自分のレベルがまだ先輩に通用したという安堵がその大半を占めるけれど、――また大きな課題が増えたな、とは思う。うれしいけれど。正直うれしすぎるけれど。
夕暮れ前の独特の、いろんな色がまざりあった空を見上げると、鳥が数羽、その中を横切っていくのが見えた。
スマホを取り出す。みそらにかんたんな連絡を入れて、三谷は駅に向かって歩き出した。
※しばらくしたら消します※
あけましておめでとうございます。
十一章のみっちゃんからはじまります。今年もよろしくお願いいたします。
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