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 翌月曜は午後からしかコマを取っていないため、みそらも三谷も午前中は家でゆっくり過ごし、みそらは昼休みに葉子ようこのレッスン室に向かった。そこで渡されたのは今回の謝礼だった。昨年の発表会ほどの金額ではなかったけれど、それでも謝礼が出てくるのにびっくりして、でもすぐにこれが葉子の言う「社会性」の一環なのかもしれないとすぐに思い直した。これがもしインターン先だったらと考えると、受け取るべきだと思えたのだ。――音楽であっても、社会の構成要素のひとつなのだから。

 さらに翌日、火曜のレッスンで再会した木村先生といえば、演奏会後に後泊してきたとは思えないくらい元気だった。いや、後泊したからこそ元気なのかな、と、顔を見ながら思い直す。いつも以上にご機嫌なようすでレッスンを進めていく。みそらが曲を決めたことを伝えると、木村先生も満足そうにうなずいていた。

「そうだ、みそら。聞いたよ。橋本はしもとさんのお嬢さんと知り合ったそうだね」

 先生がふと思い出したように言った。誰だろうと首をひねりかけ、すぐにもしかしてと思いつく。

「――ゆうちゃんのことでしょうか」

「そう、まだ三歳らしいね。僕が言ったのはそのお母さんのことで、彼女もよくお父さまに手を引かれて、演奏会に来てくれていたよ。結婚したと聞いたときはうれしかったな」

 思い出がたくさんあるのだろう、そういうやわらかい木村先生の表情と声だった。ピアノの前にいる三谷みたにも先生に失礼にならない程度に視線を向けている。

「ただ、夕ちゃんが生まれたときは落ち込んでらしてね、ちょっと心配だったんだ。今回久しぶりにお会いして元気そうだったのが見れて、僕もうれしかったよ」

「落ち込んで……?」

「難聴だそうだよ。片耳だけだし、まったく聞こえないわけではないらしいけれど」

 先生の隣で三谷も息を飲んだのがわかった。木村先生は誰のこととは言わなかったけれど、それが夕ちゃんをさしているのは話の流れでわかる。でも、――そんなそぶり、本人も、お母さんもまったく見せていなかった。歌もあんなに楽しそうに歌っていたし――

「……とくにそんなようすは見受けられなくて、びっくりしました」

 みそらが正直に言うと、先生は「そうかもしれないね」と笑った。

「ご両親や、そもそも僕の付き合いのある祖父母の方々はもっと落ち込んでいらしたようだけれど、本人がね、気にしてないんだよ。生まれつきだから」

 みそらはまたたいた。先生はまた、いつものように、気品あふれるようすで言葉をつむいでいく。

「本人はいまの状況が普通だと思っているんだね。それでもちょっとした不便はあるだろうけれど、それで彼女の尊厳や、彼女が愛されること、彼女自身が愛するものが変わるわけではないからね」

 夕ちゃんのようすが思い出された。海でも元気に駆け回っていたし、みそらと一緒に歌うときも聞こえにくいそぶりもなかった。ロビーで会ったときも元気そのものだったし、お母さんも――お母さんこそ、そういうことを匂わせるようなようすは、かけらほどもなかった。――いや、いま思えばつねに夕ちゃんの左側に立っていたから、もしかしたら右が聞こえにくいのかもしれない。でも思いつくのはそれくらいだ。

 みそらが神妙な顔をしすぎていたのか、先生はいつもの二割り増しくらいの笑顔を見せた。

「しかし、思ったんだけれど、ミュージカル曲、とくにディズニー作品の受けはいいね。やはり耳にすることが多いからかな」

「ああ、――そうだと思います」

 みそらは思考を切り替え、うなずいた。

羽田はねだ先生のところの発表会で日本歌曲をやったときも、やはり反応はよかったですし。日本歌曲ならそもそも学校で習ってることもありますし、ディズニーだと、メジャーなというか……テレビで流れる作品の曲だと反応しやすいのかな、とか」

「そう考えると、オペラも『メジャーな作品』と呼ばれるようになりたいものだね」

 先生は片手を顎に当てて考え込むようにした。みそらたちにとってはオペラも「メジャーな」ものだけれど、それでも一般的にはまだまだ西洋ほどのなじみはない。でもそれは同時に、日本の文化があるからだというのもわかる。だからこそあれほど、日本歌曲も愛されるし、日本語で歌うミュージカル曲も愛されるのだ。

「これも継続するしかないんだろうね」

 先生はまたご機嫌な口調でそう言い、「ああ、そういえば」と思いついたように続けた。

「それこそ、いつか『オペラ座の怪人』をやってみるのもいいかもしれないね。みそらがクリスティーヌをやってくれれば、僕がファントムをやれるんだし」

 みそらは心底ぎょっとした。ぎょっとしすぎて体全部が心臓になったみたいだった。一気に血が全身をめぐり始めて、体全部がどくどくと音を立てている。レッスン室がぐるぐると、夏の陽炎に染まったみたいだ。

「――先生、冗談で――」

「まさか。こんなことを冗談で言うわけがないだろう」

 心外だなあと、ほんとうにそう思っているとわかる口ぶりでつぶやき、そうして先生は隣の三谷を見た。

「そのときは麻里子まりこじゃなくて三谷がいいだろうな。きみの音はみそらに一番合うし、僕にも合うよ。とくに低音がいい。今度、どれか弾いてみようか、ここで」

 具体的な提案に、さすがの三谷もびっくりしたようだった。でもすぐに三谷は笑ったようで、軽い声が聞こえた。

「断れない言い方しますね、先生は」

「それはそうだよ。僕たちの願いは、きみたちが続けていくことなんだから。どういう形でも、どういう関わり方でもいいんだよ」

 先生の声はすがすがしく、秋の空そのものの音で言葉をつむいでいく。

「きみたちの生活に音楽があるように導いていくのが僕たちの役目だし、いずれきみたちがその役目を担ってくれるともっとうれしいんだ」

 木村先生はそう言って、もう一度だけ付け加えた。その雰囲気はまるで映画に出てくる思慮深くて機知に富んだ賢者のようだった。

「――音楽と一緒に生きてくれるなら、どんな形であろうともね」



[午後十一時、姫君の帰還 了]



※年明けのどこかで消します※

2021年、お世話になりました! 今年中に十一章を終わらせられてよかったです。

また来年も、よろしくおねがいします。

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