5

 バラは結局、葉子ようこのお母さんにあずけることになった。包んでもらえるような時間もなかったし、茎を切って水につければ大丈夫とのことだったので、ありがたくお願いすることにした。

 離陸して遠くなっていく夜景を眺めていると、いつの間にかみそらは寝入っていた。目が覚めたのは着陸時の轟音と揺れのおかげで、疲れてたのか、と思って若干気恥ずかしかったけれど、なぜか葉子は「みそらってほんとにまつげ長いよね、何か美容液使ってるわけじゃないよね?」とそっちに話を持っていくので、ついまたいつものように化粧の話などをしながら電車を乗り継いで帰路につく。

 先に葉子の最寄り駅に着いた。「もし時間があれば、明日どこかのタイミングでわたしのレッスン室に来て」と別れぎわに葉子が言っていたけれど、なんだろう。みそらは軽く首をかしげたけれど、自分だけではなく葉子も疲れているはずだ。追求するのはやめておいた。

 葉子の最寄り駅を出たことを三谷みたにに連絡する。すぐに既読の小さい文字が浮かび上がり、二十分ほどすると学校の――今のみそらの最寄り駅に到着した。

 見慣れた駅のようすに知らず、ほっと息が漏れる。空気はあちらよりも湿り気がないぶん、すこしひんやりと感じられる気がする。そんなことを思っていつものICカードの音を聞きながら改札を出ると、すぐに三谷夕季ゆうきの姿が見つかった。

「ただいま」

「おかえり。お疲れさまです」

 なんてことない会話に、みそらはおもわず破顔した。それを見た三谷がかすかに首をかしげた。

「どうしたの?」

「ううん、とくに何もないけど、ちょっとほっとした」

「そか」

 うなずいて、三谷はみそらのスーツケースを引き取る。そのまま昨日の朝に出たマンションへ、いつもの道のりを歩いていく。

「ご飯、食べた?」

「うん。りょう、また来たし」

「ほんと?」

「晩ごはん目当てだよ。さっき葉子先生と別れたって連絡来たときに追い出してきたから、キッチンがまだ片付いてないけど」

「そうなんだ」

 追い出す、という言い方がおかしくて、みそらはつい笑った。清川きよかわが言った「わんこ」のイメージがすっかりみそらの中で定着してしまった。

「お土産は葉子ちゃんのお母さまが選んでくださるらしくて、今はないんだけど」

「え、大丈夫なのそれ」

「お勧めがありすぎるからむしろ送らせてほしいんだって。その代わり、空港で夕飯を食べたお店のおにぎり、持ち帰りしてきた」

「うなむす?」

「じゃないんだな、ごめん。かしわご飯なんだけど、食べない?」

「今から? いつものカロリー制限的には?」

「今日は特別です。移動の分のカロリー消費はしてるはずだし、移動のご褒美で」

 ありきたりな言い訳に、三谷が笑うのが街頭のおかげで見えた。――ああ、ほんと、一日半くらいしか離れていなかったのに、こんなにも真新しく映るなんて。

 部屋に入ると今度こそほっと息が漏れた。手洗いとうがいをしている間に、三谷がスーツケースの車輪の部分をタオルで拭いてくれていた。おにぎりはバックパックに入っていたので、四つ買ったうち二つを取り出してレンジにセットする。ほかほかになったおにぎりからは、ふんわりと出汁の匂いがしていた。トレイに乗せて部屋に戻ると、みそらはふいに「あっ」と声を上げた。ソファ近くにいた三谷がびっくりして振り返る。

「え、なに」

「ごめん、何も考えずに用意してたけど、練習……」

「練習?」

「あ、わたしじゃなくて、三谷の――」

 と、慌てて部屋の時計を見ると、――二十三時なんてとっくにすぎていた。そんなみそらを見て三谷は遠慮なく笑った。

「何それ、時差ボケ?」

「……かもしれない……」

 フライトのほとんどを寝ていたので、あながちはずれでもない。

「葉子ちゃんの地元、こっちよりも日の入りが一時間くらい遅いんだもの。なんか感覚ずれちゃってるのかも」

「そうなんだ。夜明るいっていいね」

「冬の朝はそのぶん遅いって言ってたよ。冬至近くだと、七時くらいになってもまだ薄暗いって」

 みそらがテーブルにトレイを置くと、三谷は「あ、おいしそう」とうれしそうな声で言った。

「あと二個あるから、それは冷蔵庫に入れてる。明日でもいいかなと思って」

「うん」

 きちんと正座をすると、二人揃って「いただきます」と手を合わせた。鶏もも肉やにんじん、ごぼう、しいたけなどが入ってほんのりと甘い。おかずなしでこれだけでも十分かも、と思わせる味で、今度レシピをサイトで探してみよう、なんて話しながら食べる。コンビニのおにぎりくらいの大きさなのですぐに食べ終わったけれど、三谷は「涼の相手をしたあとにはしみる」と妙にしみじみと言っていて、またそれがいつもの場所に戻ってきたという実感も連れてくる。

 箸をテーブルに置くと、みそらはひとつ呼吸をした。そして三谷を見て、言った。

「――学内選抜の曲、決めたよ」

 三谷もちょうど食べ終わっていて、こちらをまっすぐに見つめてくる。そしてゆっくりとうなずいて「どっち?」と柔らかく促す。

「最初のほう?」

「うん、最初に挙げてた二曲。さっき電車で考えてたの」

 最後の学内選抜の曲を、みそらはまだ決めきれないでいた。候補を二パターン考えていたからだ。どちらにしろ練習はしていたので三谷の負担はそう変わらないはずだけれど、それでも決まっていないというのは相手にとっても良いものではない。

「ごめんね、遅くなって。でも、あの二曲でやってみようって踏ん切りがついた」

「そか」

 三谷も笑ってうなずく。

「もう時間が遅いから、あっちであったことはあしたとかでいい?」

「もちろん。ていうか、俺も卒試の曲、いい加減決めないとなんだけどな」

 三谷がまだ、卒業試験――卒業論文に代わる、集大成となる実技試験の曲選びに迷っているのも、もちろんみそらは知っていた。けれど、決めるのは自分自身だ。みそらの学内選抜の曲とおなじで。

「とりあえずは無事に帰宅してくれて何よりだよ」

 聞こえた声に、みそらはついきょとんとしてしまった。

「ただの同行だよ? 一泊だし」

「そうだけど。ふらふら海とか行くからちょっと心配した」

「……暇だったんだもの」

 正直に言うと、三谷は笑った。

「自由にいろんな場所に行ってみたいっていう行動原理、映画のヒロインみたいだよね」

「ええ……なにそれ」

「ディズニー映画とかってけっこうそういうお姫さま多いと思うけど」

「……ジャスミンとか、アナとか?」

「うん」

 それこそ、夕ちゃんの「お姫さまシリーズ」と丸かぶりだ。三谷もそう思っていたのか、となんとなく悔しくなる。悔しくて、――うれしい。

 でも、そうなれたのは三谷のおかげなんだけどな、とも思う。全力で音楽ができたのも、全力になっても壊れないようにしてくれているのも。――だから、みそらは、トスカにも、ミミにも、蝶々さんにも、「日本歌曲を歌う日本人」にも、誰でもなれる。それこそ魔法のように。

 もしかしたら、短いながらもちょっとした冒険だったのかもしれないと思う。――二人で生きるための、まず一人でやらなきゃいけないことをクリアする冒険。だから、笑顔でみそらは言うべきなのだ。

「――無事に、ただいま戻りました」

 みそらのかしこまった口ぶりに、三谷もつられたように笑う。

「うん。――おかえり」

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