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 それからしばらく話して、葉子ようこは「おやすみ」と自室に戻っていった。手術のこと、江藤えとう先輩のことなどがあっていくらか前に一度戻ったことはあったらしいけれど、それでも久しぶりなことには変わらないだろう。葉子にとってのホームがここなのだ、と、妙に感慨深くなるのは、自分が先月、実家に戻ったからかもしれなかった。

 話しながら少しずつ飲んでいたお茶も県の名産品のひとつらしくて、その気遣いというか、地元愛のようなものにも触れられたのはとてもうれしかった。――自分だって、誰かが地元に来てくれたらそうするだろう。口に合うかどうかはどぎまぎするだろうけれど――それでも最高のもてなしをしてくれたのは、肌で、声で、表情で、温度でわかるものだ。

 明日は一人で起きるのか、と思いながら口に含むお茶は、ほどよい渋みと深さのようなものを感じられて、冷えてきてもおいしいままだった。まだカップの半分ほど残っているのを確認しながら、みそらは布団の隣に置いてもらったリモコンを手にして、温度設定を見る。

 今は現状の温度からマイナス二度の設定。お風呂のほてりもしずまったし、問題は湿度なのだからプラマイゼロの温度でもいいかな、と思って――喉のためにはどうしようとかすかに首をひねった。切ると暑いし、寝苦しそうだ。マスクがあるからいいか、と思考を切り替え、リモコンを本体に向けて操作する。電子音が二回鳴って、リモコンの表示が変わった。

 それにしても――、やっぱり意外ではあった。まさか音楽から遠くにある「普通の社会人」が、音楽を教える側に紐付いてくるなんて。言われてみれば納得の連続だったけれど、あまりそこまで考え方ことはなかった。三谷みたには考えたこと、あるんだろうか。

 みそらは思いついて部屋の隅に置いていたいつものバックパックから充電用のコンセントを取り出して、スマホをそれにつないだ。

 ――木村先生のコンサートに初めて行ったのは、高二の春だった。たしか一学期の中間考査が終わったあと。顧問からアナウンスがあって、フライヤーを見た同級生が「顔かっこいいし、男声に接点がないから行ってみようかな」と言い出したのがきっかけで、本当の本当に興味本位、だった。でも。

 その、いい意味での――音楽へのハードルの低さという意味での「気軽な気持ち」を、木村先生は大いに裏切った。あまりにかっこよかったのだ。立ち姿も、曲間の説明も、そして何より、歌も――

 その頃は本気で音大に行く、などとまでは考えていなかった。顧問から選択肢のひとつとしてアドバイスされたことは何度かあったけれど、それでも実感はもてなかった。田舎だったからだ。仮に音大を出たとして、ピアノ専攻でもないし、この田舎に戻ってきてなにをすればいいかと言われれば――学校で部活の顧問がやれるとしても、そもそも教員の枠がとんでもない狭き門になるはずだった。文学部や社会学部、経済学部、そういうところに行って就職しやすくするほうが現実的だった。

 でも、木村先生はそれをふっとばした。現実を。想像しやすい道を。歌で。全部ふっとばした。

 演奏会が終わったあと、みそらはいてもたってもいられず、会場に来ていた顧問をつかまえた。そして「今歌っていた人に会いたい」と申し出たのだ。このときの勢いを、いまだに一緒にいた友人たちは「一目惚れの猪突猛進」とからかってくるけれど、まあ、実際そうなんだと思う。歌に対する興味に、進路という現実が結びついた瞬間だった。

 みそらの勢いにおされ、しかし喜びながら、顧問はコンタクトを取ってくれた。その日の晩はあいにく先約があるということで――いま考えると、地元のスタッフさんたちなどをねぎらい、次回へ結びつけるための食事会だったのだろう――難しいけれど、翌朝、新幹線に乗る前なら、ということで、約束をもらった。もちろん学校は「耳鼻科に寄っていくから」というありきたりな理由で遅刻することにして、それらのアリバイ合わせを友人らに頼み込んで。

 そうして、翌朝十時。いまとなってはよく足を運ぶようになったコーヒーチェーンにいた木村先生をあらためて見て、ああ、ファントムだ、と思った。舞台上だけじゃなくて、それなりの雰囲気のある、でもありきたりな店の中にいても、隣に伴奏者がいても――あとから知ったけれどその人こそ奥さんの木村麻里子まりこさんだった――、陽の光の中にいても、ファントムだった。みそらにとってのはじめての実体を伴った「音楽の天使」がいたのだ。

 制服姿でやってきたみそらを見ても、先生は驚きもせずにこやかなままだった。今思えばレッスンと同じ雰囲気だ。はじめましてから簡単に自分の名前や学校、部活で昨日のコンサートに行ったことをとにかくわかりやすく、へんにならないようにと言い募ると、木村先生は「可愛らしい声だ」と言ったのだ。

「素晴らしいな、きみの声は誰にでもなれる声だ。中でもミミやトスカのように内に秘めたものがあるキャラクターが似合うと思うよ」

 そう言うと、いつの間にかみそらの分のカフェラテを買ってきてそっとテーブルに置いてくれていた奥さん――麻里子さんに、「そうだろう?」と、どこか誇らしそうに同意を求めた。すると麻里子さんもにっこりとうなずいた。

「リリコか、うまくすればコロラトゥーラもいけるかも」

 それにうれしそうにうなずいて、木村先生はさらに制服姿のみそらに言った。

「好きな曲は何かな?」

「祖母が日本歌曲が好きだったので、そちらもけっこうすきです。あとは――」

 瞬間、言うか迷ってふれた紙カップが熱かったことを、まだはっきりと覚えている。

「映画版の『オペラ座の怪人』が好きです。とくにクリスティーヌが。――あ、もちろん、ちゃんと歌えてないですけど」

「うん。でも、これから先、歌えるだろうね」

 先生は笑顔で即答した。もう決まっている未来を見ているように。

「みそらさん、だったかな」

 名前を呼ばれただけで体中の細胞が震えた。自分の名前がこんなにも美しいなんて知らなかった。

「きみの声は誰をも虜にする、お姫さまのような声だね。――もし夏休み、時間とやる気があれば、うちの学校の夏期講習に申し込みしてごらん。名前を見つけたら、必ずレッスンしてあげよう」

 そうして半信半疑で申し込んだ夏期講習、本当にレッスンを担当したのは木村先生だった。これが音大におけるコネクションというものか、とかすかに背筋が寒くなったものの、それでも――自分がつかみとった一筋の光だった。この人のもとでなら勉強がしたい。自分がいきてきた中でふれた歌を、あんなにも素敵に歌い上げる人に教えてもらえるのなら――

 ひと通り思い出すと、やっぱり肝が冷える行動だ。というか、先生たちのコネクションがなかったらただの押しかけだし、実質ストーカーだし。本当にさっき葉子が言った通りに、若さゆえ、という、ただそれだけに支えられたものでつかみとった木村門下への道、その入口のドアだった。もちろん顧問をはじめとする先生たちの口添えもあったと思う。基本的にそうやって、無理やりにでも開いていくのが先生たちへのつながりだと知っていたけれど――我ながらよくもまあ、あんな行動力があったものだと、いまとなってはあっけにとられる。

 でも、あれからもう五年も経った。――同時に、祖母が死んでからも。

 この家――葉子の実家は祖母の家の匂いがするな、と思う。そんなに古いようには見えないけど――たぶん、畳の感じとか、そういう懐かしさがある。

 と、ぼんやりと思っていたところだった。充電器につながったスマホが音を奏で始めた。いつもの電子音だけれど、静かなところでは思いのほか響くことに気づいて、みそらは慌てて畳を這うようにして取りに行く。手に取ると音は自動で少し小さくなったのでほっとしたところに見えた名前に、つい表情がゆるむのがわかった。練習中じゃないっけ、と思いながら画面をスライドして「はい」と応えた。

「あ、起きてた。いま大丈夫?」

 数時間ぶりに聞いた三谷夕季ゆうきの声は、妙に胸に響いた。みそらは胸から妙な空気みたいなのが抜けていくのを感じながら、「大丈夫」と答えた。我ながら気の抜けた声だ。

「だけど、そっち――練習は?」

「え、さっき二十三時になったけど」

「えっ」

 思わずスマホを耳から離して時刻を確認する。たしかに二十三時を三分過ぎていた。すぐに耳に戻して言葉を紡ぐ。

「過ぎてたんだ……気づかなかった」

「うん。だから気にしないで。――で、どう、そっち」

「めちゃくちゃ良くしてもらってて、ものすごくありがたい。そうそう、夕飯にいただいたうなぎのせいろ蒸しのおにぎりがあって、それがすんごくおいしかった。あれはもうなんというか、やばい。ちょっと説明がうまくできないけど、あんなにうなぎでおいしいと思ったのははじめてだよ。……あ、しらちゃんには内緒ね」

 とみそらが付け加えると、「戦争にならないようにか」と三谷がからかうように笑った。白尾しらおあきらは名古屋出身だ。

「でも、せいろ蒸しでおにぎりって、あんまりイメージつきにくいかも」

「うなむすって検索したら出てくるよ。ちょっとお高めだけど、今度お取り寄せしてみない?」

 みそらが言うと、電話の向こうで三谷はまた笑ったようだった。

「めっちゃ前向き。そんなに気に入ったんだ。こっちなんてあのあと、りょうに襲撃されたのに」

「森田くん?」

 思いがけない名前に素直にびっくりすると、三谷は「そう」とうなずいたようだった。

「山岡が今週末いないって、うっかり話の流れで言っちゃってて。じゃあ夕飯の材料あまるだろうから食べてやるよ、って、あの電話のあと、急に押しかけられた」

「そうなんだ?」

 森田の口調をつい音で想像してしまって、みそらも笑ってしまう。

「そー。だから結局、いつもより多めに作った」

「良かったよ、楽しそうで」

「良かったかな……まー、ほんと王様だよ、あいつ」

 森田くんなりの甘え方なんだろうな、という言葉は飲み込んだ。夏休みの練習の件もあってか、最近は三谷から森田や清川きよかわの話を聞くことも増えた。みそらは脚を伸ばし、壁に背中をあずけた。

「森田くんって、菊川きくかわ先輩に会ったりしてるのかな」

「どうだろ、あんまり聞かないけど」

 みそらがふと思いついた疑問に、三谷も電話の向こうで首をかしげたような声で答えた。

「菊川先輩も、地元に帰ったりしてるんじゃないかな。あとは仕事関係とか?」

「だよねえ」

 先月のミニコンサート後、あらためて清川奈央なおと一緒に菊川先輩に会ったのは今月に入ってからだった。コンサート後すぐにみそらと清川が帰省したこともあって日程がずれこんだためだ。どうやらドイツの大学の夏休みは十月中旬くらいまでとずいぶん長いらしく、先輩のほうがだいぶゆったりと過ごしているのではないかと思う。

「緊張、してなさそうだね」

 ふいに聞こえた、納得したような、どこか安心したような声に、みそらはおや、と思う。もしやこれは。

「……心配してくださいましたか」

「杞憂だったみたいですけどね」

 同じ口調で返ってきた三谷の言葉に笑いを誘われる。

「全然してないって言ったらさすがに嘘になるけど、去年の着物のときとは雲泥の差ですよ」

 あれは完全なるアウェーだった。楽器も違うし、そもそも関わっている人も違う。けれど今回は自分が歌うわけではないし、サポートする相手もよく知っている羽田はねだ葉子なのだ。でも――三谷はそれを承知の上で電話をしてきてくれたのだ。うれしいことこの上ない。

「でも、ありがとね」

「いいえ。――寝る前に声、聴きたかったし」

 みそらは思わずぎゅっと目をつぶった。ほんっと、こういう、ことを、言う、の、ほんとにもう。

 ここまで来ても慣れないどころか、どうして嬉しさとかくすぐったさばかり増すんだろう、と思いながら、言葉を振り絞る。

「……わたしもです」

「それはよかった」

 当然と言わんばかりの、でもうれしそうな声が返ってくる。そこがまた愛おしかった。

「じゃあ、明日がんばって。おやすみ」

 みそらの悶絶した温度が伝わったのか、あちらの声もかすかに温度が上がったようだった。「うん、おやすみ」と返し、通話を切る。通話時間はほんの数分と短かったけれど、自然と頬が緩んでいるのがわかる。ほんとうに現金だ、とは思うけれど、でもこうやって背中を押してくれるから、大丈夫、と自分に言えるのだ。

 アラームの時間を最終確認し、スマホを充電コードにつなぎ直していると、ふと菊川先輩に会ったときのことが蘇った。――遠くにいるからか、いつもなら隣にいる人がいないからか、それとも海のせいか。今日はいろんな景色が記憶からあふれてくる。

「緊張しないんですか」という月並みなみそらと奈央の質問に、「するよ」とあっけらかんと先輩は答えた。

「緊張っていうか、ギロチンの前に立ってるみたい。自分が生きていていいか、それを問いに行くような緊張感があるかな」

 瞬間、それって緊張感のレベルが違うんじゃ、と、おそらく清川とみそらの心は通じ合ったと思う。ギロチンという単語の重みと、先輩の表情の軽やかさの乖離には、何かぞっとするものがあった。

「でも、毎回だけど、行けば大丈夫なんだよね。ピアノと曲とちゃんと話せば、いつもそこが居場所になるから」

 そう言って先輩はまた天使のように微笑んだ。それからこうも付け加えた。「そうしてくれたのが六花りっかだったし」。

 ――清川がみそらと一緒に呼ばれたのは、森田の話を聞いてみたいから、という理由からだったらしい。どんなキャラクターなのか、どんな演奏をするのかをあちらの大学の先生が知りたがっていたらしく、それならば清川に聞いたほうがいいだろうと思った、というのだ。

「だって清川さん、涼と付き合ってたんじゃないの? なんかそんな雰囲気だったけど」――江藤先輩といい、どうしてこうも舞台の化け物たちはカンがいいんだろうか。そんなことを思っているみそらの隣で、当然ながら清川は顔色をなくしていた。そういったそぶりは、少なくとも楽屋では見せなかったのに、とあとで震えていたくらいだ。

 さらに驚いたのは、留学前に藤村ふじむら先輩としたとある約束のことだった。そもそも一緒にドイツに行く予定だったのをやめる代わりに、毎月、新しく作った曲を送ると、藤村先輩は菊川先輩にそう約束していたらしい。

 自分が楽譜をちゃんと読めるようになったのは六花りっかのおかげ、と菊川先輩は言っていたけれど――それが具体的にどういうことかまでは、みそらも清川も聞けなかった。それでも、そのことがきっかけで菊川先輩の音楽や、将来の道筋が変わったのは理解できた。――それは自分もそうだと思うからかもしれなかった。

 歌のお姉さんみたいね――その言葉が本当に褒め言葉なのか、いまだにみそらにはわからない。少なくとも三谷にも、木村先生にも言われたことはないから、判断がつかないということもある。

 ただ、それでも、――同級生から揶揄されたころよりは、もっとましな歌が歌えているはずなんだけどな。そう思いながら、みそらはそっと左の四の指にある指輪にふれた。

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