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夕飯に出てきたのは「うなむす」だった。県南の名物に「うなぎのせいろ蒸し」があり、
うなむす――よく考えたら直球すぎるネーミングだけれど――は、そのせいろ蒸しをおにぎり状にしたもので、冷凍にして遠方にも発送していたりもするらしく、それを葉子のお母さんは取り寄せてくれていたようだった。県南まで足を運ぶ余裕がないスケジュールへの配慮が感じられるとともに、ひと噛みするごとに葉子の言葉がまったくの誇張でもなんでもなく、本当に事実だったことを思い知る。これはやばい。おにぎりでこれなら本来のせいろ蒸しってどれだけおいしいんだろう。使わせてもらったお風呂なんかでも反芻してしまうくらいで、いつもどおり、しかし手早く風呂上がりのルーティンを終わらせた頃には「いつか絶対食べにいかないと」という決意のようなものさえ芽生えた。あてがわれた和室で用意された布団を広げ、一息つくと、ふと畳の上に置いておいたものに目が行く。明日の演奏会のフライヤーだ。
表面に写っている木村先生は、いつもよりももっと精悍でかっこよかった。レッスン時はだいたい普段着なので、こうやって燕尾で決めている先生を見ると、最初に先生のコンサートが部活でアナウンスされたことを思い出す。
コンクールなどにも実績がある合唱部がある、という理由で選んだ女子校だった。おもしろかったのは、女子校という甘い言葉の響きのイメージとは、中身はほとんど真逆ということだ。他の女子校がどうかまではわからないけれど、少なくともみそらが通った学校は違った。男子がいないから力仕事も含めてなんでも自分たちでやる。そういうことを自然と身につけられたのは大きな財産だったといまでも思う。
そんな合唱部のメンバーにコンサートの話を持ってきたのは当時の顧問だ。それこそまだ二十代後半の若い先生で、しばらく前まで首都圏の音大にいた、というタイプ。その顧問の師匠の友人が、木村先生だった。
あのときの自分の行動力は、まさに若さゆえの無鉄砲だったなあ、と、何度思い返してもそうとしか思えない。まさかコンサートの翌日に、あんなことをするだなんて。
そう思いながらフライヤーを改めて見る。『Caro mio ben』といったメジャーなイタリア歌曲から、フィギュアスケートで一気に知名度が上がった『誰も寝てはならぬ』といった外国語の曲が前半に、『荒城の月』『
「みそら」
ふすまの向こうから葉子の声がして、みそらは背筋を伸ばした。
「はい」
「開けていい?」
「うん」
スラリという和室特有の音を立ててふすまが開くと、顔を出したのは葉子だった。化粧をしていない葉子をはじめて見たけれど、やっぱりきれいな肌をしていたし、化粧をしているときとそう印象も変わらない。こういう大人になりたいものだ、とあらためて思う。
入ってきた葉子はトレイにカップを載せていた。あたたかいお茶だった。それをみそらの横にゆっくりと置きながら葉子は言った。
「みそらのスーツケース、お母さんが車でホールまで持ってきてくれるから。朝出るときの荷物は必要なものだけで大丈夫よ」
「え、そんな――そこまでしてもらわなくても」
「気にしなくていーのいーの。わたしの荷物がそうなってるんだから。ついでよ、ついで」
ついで、と言われるとそれを断ることはできなかった。正直ありがたいので、みそらは正座をして「ありがとうございます」と頭を下げた。
「どうせ聴きに来るんだしね。あ、あとおみやげも、どうしても買いたいもの以外なら、こっちから送るって」
「え、――ほんとに? お土産だよ?」
みそらがびっくりして息を呑むと、葉子は軽い口調でまた「いいのいいの」と手を振った。
「あれ、地元民イチオシの『食べてほしい』ってやつを送りたがってるだけだから。基本こっちのお菓子ってはずれないんだけど、はずれないだけに荷物がかさばる可能性もあるから。まあ、うれしいんだと思うし――選ばせてあげて」
最後は苦笑するように葉子は言った。葉子のおかあさんの笑顔が思い浮かぶ。――予想に違わず、葉子におもざしが似ていて、品がよくて、それでいてなんというか、ぱきっとした人だった。竹を割ったようなきっぷの良さのようなところも感じられて、それが葉子の容姿だけではなく雰囲気にもよく似ていた。
みそらは一度ゆっくりと噛みしめるようにうなずき、それから「じゃあ」と言った。
「お言葉に甘えます」
「ありがとね。ちなみに甘い系と、おせんべい系、どっちがより好き?」
「え、どうだろ――わたしはどっちでもいいけど」
「あ、みっちゃんか」
みそらはうなずいた。葉子が首をかしげると、風呂上がりのゆるく結んだ髪が揺れた。
「でもこっちの甘い系、どっちかっていうと和菓子系か、それかミニロールケーキ的なやつだから、大丈夫なんじゃないかと思うけど」
「ああ、それなら大丈夫そう。三谷が食べなくてもわたしが食べるし」
「そこで太るのを気にしないのが若さだよねえ」
がっかりしたような空気をまとう葉子を見て、どこが、と思う。葉子ちゃん、スタイルいいくせに。
「葉子ちゃん見てるとそんな言葉信じられないんですが」
「努力です。あのさ、みそら」
葉子が一歩分、膝を詰める。レッスン時のような真面目な顔と口調で続ける。
「ほんとに、思ったよりすごいから。老いっていうのは。おどしじゃないからね、本当だから。だから、美白も保湿も運動もストレッチも、全部全部、いまのうちからきっちり習慣づけなさい。いまのみそらの美しさへの努力を支えている大きな大きな柱は、言うまでもなく若さよ。それを将来、ふいにしないようにしなさい」
あまりの真剣さに気圧されて、数秒返事ができなかった。
「……はい」
やっとの思いでうなずきながらそうとだけ言う。こんな葉子ちゃん、めったにない。と思うと、本当の話――実感なんだろうな、と思う。よく聞くことではあるけれど、他ならない葉子がせっかく忠告してくれたのだから、しっかり覚えておかないと。
みそらが真面目な顔をしすぎていたのか、葉子はふっと表情をゆるめた。
「移動、疲れた? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。海も気持ちよかったし、お風呂もありがとうございます」
「海もそうだからね、今日はとくに天気良かったんだし、海風もあるからね」
急にまた渋い顔になった葉子についていけず、みそらは一瞬混乱しかけ、――そしてすぐに肌のケアのことか、と気づいた。
「大丈夫、ちゃんと美白のやつもぬってるから」
「うん、そうして。明日あっちに帰ってからもね」
至極まじめな反応が返ってきて、――ついみそらは吹き出した。
「ねえ、これ、演奏会の前日の夜に言うこと?」
「大事なことよ。これからもまだ人前に立つんだったら、より大事なことなんだから」
「人前かあ……」
たしかに、インターン先での仕事内容が入社後にも変わらなかったら、広報として人前に出ることもあるのだろう。それに副科声楽のレッスンをするなら――ブランディングは必要だ。
ふいに「ゆうちゃん」の「歌のおねえさん」が蘇った。たしかにあれもひとつのブランディングだ。とはいえ、みそらにとっては「オールマイティに歌えるだけ」という意味をもつのがそのフレーズだ。誰かに嫌われるようほどに癖が強いわけでもなく、全年齢が聞いて不快にならない、そして与えられた歌をある程度のレベルで歌える人。――むかし揶揄してきた人たちはそういう意味で言ったのだと、みそらは十分に理解している。
「葉子ちゃんってさあ」
「うん?」
「なんでわたしだったの?」
「今回の同行のこと?」
「あ、ごめん、そうじゃなくて、――副科声楽のレッスンのこと」
手のひらにふれる畳の感触は久しぶりだ。と思ったけれど、よく考えたら夏休みに帰省していた。まだ一ヶ月も経っていない。でも久しぶりと感じてほっとする何かが、この客間としても使われているらしい和室にはあるように思えた。
葉子は「そういえばちゃんと言ってなかったっけ」と軽く首をひねった。そうして部屋着に包まれた足を崩した。
「技術的な信用度が高い部分はもちろんだし、わたしがみそらの性格とかを知ってるっていうのもある。それはわかった上で――ってことよね?」
葉子がこちらを見つめて確認するので、みそらはしっかりとうなずいた。葉子が言ったことができる人ならほかにもきっといるはずだ。それ以外の理由がないと、どうにも座りが悪いのが本音だった。葉子はかすかに視線をあげて考えるようなしぐさをしながら言う。
「いくつかあるけど、――最近とくに思うのは、インターンかな」
「インターン?」
予想外の返事に、思わずひっくり返った声が出る。けれど葉子はまた至極まじめに続けた。
「そう。最初に依頼したときはまだインターンの申し込みをやってるくらいだったけど、それから実際に受かって、春休み中から行って、それで内定にもつながって、いまもできる限り続けてるでしょ。その社会的なコミュニケーション力を見てると、やっぱりみそらにお願いして間違いなかったな、って思ってる」
みそらは数秒考えた。客間のエアコンはたしか除湿になっていて、葉子の地元特有の湿気を軽く拭い去っていく。
「
みそらはうなずいた。
「だから、じつはあんまり、通常の社会経験をする場がないの。奈央は勉強家だから大丈夫だと思うけどね。でも音大出て、そのままそういう『ピアノの先生』とかになると、ほんとに社会経験がないから、いろいろわかんないことも多いのよ。とくに、親御さんとの関係づくりとか、楽器店だったら、営業さんとの共有、連絡とか」
そう言われると、今度はみそらもなるほどと思えた。ビジネスマナー、同僚との連絡や共有。こういったものは、たしかにインターンで自然と身についてきている自覚はある。
「とくにああいう楽器店は未就学児童から中学生、高校生までが対象なわけだから、フロントは親御さんになるわけよ。とくに小さければ小さいほど決定権は親御さんにあるし、そのぶん自分の子どもを守ろうとする意識も強い。それが発表会とかコンクールの結果とかにも関わってくるし、レッスン自体を続けるかどうかも然り。わたしみたいに大学だとメインに相手をするのが大学生だけど、それでも受験前の親御さんもいるし。――ここまで言えば、もうわかるよね」
続けようとして、みそらの雰囲気を察したのだろう、苦笑気味に付け加えられた葉子の言葉に、みそらも今度は深くうなずいた。
「合唱部に置き換えればなんとか」
「ああ、そう、そうね。みそらがいた部は全国とかにも行ってたんでしょう? だったら旅費問題、親同士の問題とかもあったんじゃない?」
「……まあ、うん」
「ね、つまりはそういうこと。――もちろん、技術的なこととか、曲に対する真摯さは当然あるし、そこが感じられなければ依頼しようとも思わない。だから依頼してからこちら、どこで信頼ができるかって確信を得たかといえば、やっぱりみそらに社会性がある、もしくはこれから身につくだろうから大丈夫だと思えたっていうのが、わたしの答え」
「……そっか」
納得するには十分な説明だった。――それにしても、意外だった。
「インターンとか、あんまり関係ないと思ってた。切り離して考えるというか」
「まさか。っていうのも、わたしも実際働きだしてから気づいたことではあるけど。学生時代に社会人の経験ができるっていうの、本当に貴重なことよ。バイトとはまた意識も違うだろうしね」
みそらは黙ってうなずいた。たしかに、インターンの入社当初から、求められているものは「社会人」としての振る舞いだったことを思い出す。
「そう考えたら、音楽もやっぱり、普通に『社会』の構成要素のひとつなんだね」
「そりゃそうよ。働き方の違いは多少あるけど、それでビジネスが成り立ってるんだから」
「たしかに。まあ、子どもの前では言いたくないけどね」
容赦のない葉子の口調にみそらが思わず苦笑すると、「そうそう、それも」と葉子もつられたように苦笑した。
「子どもには言わない、っていう線引き――夢の見せ方かな、そういうのをわかってるのも、みそらがいいなって思うところよ。いずれ現実と向き合わせるのが講師の役目だとしても」
「……葉子ちゃん、わたしのこと褒めっぱなしだね」
「聞かれたから答えただけなんですけどね。――でもまあ、そういうことです」
葉子は微笑んだ。化粧っ気のない顔でも、いつものようにとびきり美人で、いままでの話に嘘とか誇張がないことももうわかる。みそらもうなずいた。
「うん。ありがと」
葉子はかすかに肩をすくめた。
「べつに世の中、どれかの仕事だけが正義なんじゃないんだから、みそらは両方やれるって強み、大事になさいね」
やわらかい、レッスンのときのような口調だった。みそらは思わず、嬉しいやら悔しいやら、へんな気持ちになった。たぶん表情も微妙な苦笑みたいなへんなものになっているに違いない。
「やっぱり葉子ちゃんって、褒め上手」
「そうね。講師の素質って、それもひとつあるかも。怒られてなにくそー! ってなる人も多いけど、それよりもやっぱり、人間って褒められたほうが嬉しいし、脳のシステム的にもそれがいいでしょうしね。――奈央にも言ったけど、こうやって情報交換していけばいいと思うのよ」
「……たしかに」
「こういうところはみそらのほうが話が早いわね。インターン先の先輩たちに感謝しないと」
おお、最後は相手だけじゃなくてその周りも褒めるのか、とみそらは素直に感心してしまった。でもそれが――社会的なコミュニケーション、というものなんだろう。まだ実感は薄いけれど。
明日の起床時間などを確認し、その場でスマホのアラームを確認・セットする。それからおやすみと葉子は客間を出ていった。エアコンの音が耳に届く。みそらは布団の隣に置いてもらったリモコンを手にして、温度設定を見る。今は現状の温度からマイナス二度の設定――お風呂のほてりもしずまったし、問題は湿度なのだからプラマイゼロの温度でもいいかな、と思ってリモコンを本体に向けて操作する。電子音が二回鳴って、リモコンの表示が変わった。
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