4-1

 翌日の演奏会は十四時に開演だった。みそらと葉子ようこの楽屋入りは十二時くらいなので、朝昼を兼ねたご飯を食べてから葉子の実家をあとにする。

 終演は十六時の予定なので、撤収次第みそらと葉子は十九時半ごろの飛行機で戻る予定だ。市街地と空港が近いからできるスケジュールだった。ちなみに木村先生は今日もお泊りらしい。営業も大変なんだな、と、みそらは妙なところで感心してしまった。でもそうやって後泊などをするから、みそらだって木村先生に会う機会があったのだ。そう考えれば、もしかしたら今日、みそらと同じように思い、行動を起こす人が出てこないとも限らないのだ。

 今回は本当に譜めくり担当のみ、という役割だったので、スタッフさんたちのじゃまにならないように、ただ粛々とみそらは仕事をこなしていく。ホールでの合わせも順調で、木村先生の歌声に葉子の伴奏が重なるとこうなるのか、という新しい発見もあった。よくよく聞けば、やっぱり葉子の伴奏の音色やくせのようなものは、三谷みたにに通じるものもある。当然といえば当然だけれど。

 お客さんの入りも上々のようだった。楽屋にあるモニターからも、人が多く動いているのがわかる。みそらは白いブラウスに黒いタイトスカートという就活のような格好で、ここにこぼしたらいっかんの終わり、と肝に銘じながら、インスタントのコーヒーを片手にそれを眺めていた。これほどの人が、先生に会いに――歌を聴きに来ているのだという実感が肌をざわめかせる。

 黒の上品なドレスワンピースに身を包んだ葉子いつも以上にきれいだったし、木村先生は、世界が割れてしまうんじゃないかと思うくらいに、とんでもなくかっこよかった。いつものレッスンではもうこんなことまで思わないのに、今、高校二年のときほどの高揚感があるのは、ここが地元でもなく、学校の近くでもないからだろうか、と思いながら、みそらは二人に続いて舞台に出た。

 黒子として上がる舞台は、それでも自分が主役として立つときのようにライトが明るく、そして暑い。舞台上は本当に暑いのだ。演奏しているので、より汗もかく。

 しかしそれを顔に「つらさ」として出す演奏家はいない。あくまで舞台上にいる演奏者はもてなす側だからだ。――そう自然と思えて背筋が伸びるのが、木村先生の舞台だ、と、みそらはいつも不思議に思っている。

 先生がいると、まるでそこが、たとえば「椿姫」の社交場のようにすら思える。深くお辞儀をする木村先生の後ろ姿は、まさにそのきらびやかな時間を取り仕切る高貴な身分の主人だった。

 ヘンデル作曲『Ombra mai fu』。静かなピアノ伴奏から始まるこの曲で、この会の幕が開けた。

 女声では絶対にありえない深い響きをもって、木村先生の声がホールの隅々まで広がっていく。勢いとかそういうたぐいのものではなかった。ゆっくりとした風の流れのようで、歌詞にある木陰を連想させる。葉子の伴奏もけっして単調にならない、先生の声との和声の重なりを意識したものだ、とみそらにでもわかるものだった。――これが、プロとプロの仕事。

 つづくジョルダーニの『Caro mio ben』は、声楽専攻以外の楽器の生徒が学ぶイタリア歌曲のひとつとしても有名だ。耳なじみが良いせいか、ホールの空気がさっきよりもさらに穏やかに、ほがらかになったのがわかる。

 つぎはヴェルディの「椿姫」から『Di Provenza il mar, il suol』――『プロヴァンスの海と陸』だ。こちらも情感あふれるピアノ伴奏とのセッションが完璧だった。主人公であるヴィオレッタに恋する息子アルフレードを心配する父親の歌だ。先生の圧倒的な響きの中に溢れる愛がある。最後のカデンツァも素晴らしい発音だった。――先生はいつもこうだ。だから好きなんだ、だから信用できるんだ、と、みそらは震える胸の中で繰り返しつぶやく。

 地方に行く場合、たとえば有名な吹奏楽の団体などであっても、じつは二軍が来ることが多い。都市部や注目される公演にはレベルの高いメンバーを配置し、聞き手のレベルが高くないと踏んだ地方演奏会の場合は、一軍の休憩、もしくは二軍の研鑽として、二軍が来ることも少なくはない。

 ソロも楽器を問わず同じようなことがあって、地方だと世界的に有名なはずのピアニストがミスタッチをしまくり、挙げ句暗譜が飛ぶ寸前なのでは、とハラハラするということもあるのだ。みそらでも遭遇したことはあるし、三谷や他の友人たちも少なからずあるらしい。見ているこちらが体力を使うし、プロなのに、とがっかりするので、――そういう人はいくらプロであってもあまり信用できない、とみそら個人は思っている。

 でも、木村先生は違う。どんなさびれた都市だって、どんなに古くて音響が期待できないホールであっても、いつも同じクオリティをたもってくれる。それこそがプロの姿だと、みそらはいつも感銘を受けるのだ。

 高二の初夏、地元で最初に聞いたときもそうだった。地方公演だけどたまたま調子がいいのか――と、ほんのわずか意地悪なことを思ったのは事実だ。でも先生の演奏会に行くたびに、そうではないと理解できた。

 木村先生は変わらない。場所や人を問わず、同じように曲の素晴らしさ、物語の豊かさを伝えてくれる。こんなに信頼できる歌い手を、みそらは他に知らなかった。

 もちろん人間だから、ほんのすこし調子の悪いときなどもあるだろう。でも、たとえどんなときでも、それを気取らせない程度のクオリティで歌える、――それ自体がどれほど難しいか。

 でも木村先生はいつも同じに――いつも高いレベルで聴衆を魅了するのだ。だからついていきたいと思った。この人に習ったら、自分が歌いたい歌に近づけるのではないかと。

 切々とした美しい父親の愛の言葉が終わる。ほっとするような空気の中、みそらは素早く譜面台の楽譜を入れ替えた。木村先生がちらりとだけ、ほんのわずかだけ葉子を見たのがわかった。――それが合図だった。

 誰もが聞いたことのある、スペインならではのリズムが、ピアノから赤いマントをまとって躍り出てくる。――「カルメン」から『闘牛士の歌』。

 観客の声はないものの、息を詰めるような空気の動きと、それに伴って会場の温度がぶわっと一気に上がった感覚が伝わってくる。このリズムを聞いてわくわくしない人はいないだろう。それに菊川きくかわ先輩の演奏を聞いたからこそ思う。葉子のピアノにもまた、西洋のリズムがある。とくにスペインのリズムはまた独特だ。そこをうまくつかんでいるのは本当に――すごい。

 まあ、話の内容は色恋沙汰で殺傷事件というとんでもない内容なんだけどな、と、いくらか冷静な自分が言う。『ハバネラ』やこの『闘牛士の歌』は世界的にも人気が高いし、日本人でもメロディくらいは知っている曲だ。知らないというのならそれこそテレビを見ないとか、けっこう趣味が偏っている可能性がある。それくらいにメジャーなのだ。

 木村先生のエスカミーリョは色っぽかった。とんでもないくらいに。それなのに清潔感にあふれているのだ。この塩梅がすごい、と毎度思うところだ。闘牛士でアイドル的な存在でもあるだろうに、先生だとかならず品性が見えるのだ。

 主役のカルメンは浮気ぐせの直らない、いわゆるあばずれという役で、密輸なんかにも手を染める。衛兵であるホセを誘惑した挙げ句、この恋が実らないと理解したホセにカルメンが刺殺されるところで幕、という恐ろしい流れがこの『カルメン』だ。それでも人気なのは、そのある種、昼ドラめいた話の筋もあるだろうし、間違いなくビゼーの曲の魔力が大きい。

 しかしそれも、木村先生の声がなければ伝わらない。――当然、どの楽器にも気をつけるべきところはある。管楽器は唇が荒れると吹けないというし、ピアノは指先のけがだけではなく腱鞘炎なども関わってくる。声楽は、言わずもがな、声のコンディションだ。そしてそれは、「弾いてたら指のあかぎれの出血で鍵盤がに血が点々とついていた」というピアノとは、やっぱりすこし違うと思う。――声楽はあまりにも健康と直結しているのだ。

 だからみそらは、つきあいならともかく、自分が熱唱するためにカラオケにも行くなんてことはなかったし、運動でもランニングなどをしすぎると血行がよくなりすぎて喉の毛細血管が切れることがある。タバコももちろんダメだし、辛すぎる料理もご法度。眠る時にはマスクをつけているし、練習のしすぎも禁物。腹筋と背筋は声の質や肺活量に直結するので欠かせないし、キャラクターのビジュアルイメージを維持する――お客さんをがっかりさせないためにも自分磨きは欠かせない。季節で言えば冬は鬼門の時期だし、花粉の時期も気をつけることが多い。体調を一定にするためにはピルもうまく活用していく必要もある。

 ざっと挙げたこれら一部のことだけでもうんざりするのに、でも、プロは――木村先生はやっているのだ。それらの対策を日常にまで落としこんで生活しているから、いつでも同じクオリティで歌える。そこが学生とプロ、アマチュアとプロの大きな違いだ。

 だから――正直、不安はある。葉子はインターンのことも卒業後の就職のことも良い面で捉えてくれたけれど、それは音楽的なことよりも社会性に関してだ。ふつうの社会人として生きていく中で、果たして、学生と同じレベルで注意をし、自分のコンディションを維持し続けることができるのだろうか。そうできない公算が当然ながら強そうではあるし、だからこそそれをカバーする思考回路が必要になるだろうと理解している。

 音大を受けると決めた当初、亮介りょうすけ――弟は、なぜ卒業と同時に音楽をやめるのか、理解できないと言っていた。大学は就職のために行くのではないか、なら、やめることを前提で行くのは、ちょっと変なんじゃないか、と。

 しごく当然の反応だ、と思う。みそらの前任の伴奏者である諸田もろた加奈子かなこも同じような考えだった。「トスカ」を歌っていた頃――まだ三谷に伴奏を頼んで間もない頃に「まだそういうのに行ってるんだ」と諸田が言ったのは、裏を返せば、それほど一般就職に真面目だったということだ。諸田は地元静岡へのUターン就職を、これまた四年生の早い段階で決めていた。つまり、諸田はそのために早くから動いていたのだ。彼女には彼女の正義がある、それだけのことだった。

 だとしたら、わたしには。

 第一部の最後の曲は、「トゥーランドット」から『Nessun dorma』――こちらもフィギュアスケートなどで一躍脚光をあびた『誰も寝てはならぬ』だった。

 先ほどまでとは打って変わって、一途で真摯な愛が紡がれていく。皇子カラフの愛がトゥーランドット姫の氷の心を、優しく溶かしていく――その優しさが、先生の声にも、葉子の伴奏にもあふれていた。

 じつはこの曲はカラフ、つまり主人公の相手役なので、基本的にテノールの歌だ。バリトンの木村先生にはやや高めの音域と言える。それでも本来の声域の人と比べても一切遜色ない――それどころか、バリトンだからこそ持つ渋み、深みのようなものが、カラフの愛を支えているように聞こえた。こんな歌を歌われたら、そりゃトゥーランドット姫だってころっとほだされるよなあ、なんて、そんなことを思ってしまう。それくらいに魅力的だった。

 万雷の拍手で第一部が終わり、舞台から演者が引っ込むとともに休憩に入った。みそらはさっと伴奏譜を片付けながら、袖に用意していた飲み物を戻ってきた木村先生に手渡す。奥さんの麻里子まりこさんがいつも用意しているものを、葉子から教えてもらって準備していた。これも今回のみそらの役目のひとつだった。


(4-2に続く)

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