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(承前)


 そんなどストレートに言う? とみそらは内心ひやひやしたけれど、相手三人はすごすごと立ち去った。まあ、学年一位の声の持ち主に、しかも十センチヒールの高い場所から、ハリウッド女優かと言いたくなるような顔と、バレエで鍛えた美しい姿勢で、発音の美しい低めの声で本質をつかれて、言い返せる人のほうが少ないのだろうけれど。

 その頃、みそらと美咲みさきはすでに仲が良かった。みそらは合唱で知らず鍛えたことと、入学前に何度か木村先生にレッスンをしてもらっていたこともあって、入学時にはすでに「上位の生徒」になっていた。それでいて――自分で言うのもなんだけど、この母親譲りの容姿だ。気に入らない人が多いのは理解した上で入学したけれど、まあ、なんというか、ありきたりな嫌がらせでも、気が腐るのはどうにも避けられなかった。

 とはいえ、みそらと美咲の二人を対立させてあわよくば二人とも潰れてくれたら、という一部の生徒の思惑はすでに失敗したあとだった。美咲とも仲良くなっていたし、美咲にしてみれば「みそらの喧嘩は私の喧嘩でもある」という、どこのあねさんだ、と突っ込みたくなるような言い方ではあるけど、そういう認識になっていた時期でもあった。

 でも――結果的にいい意味になっていたとしても、嫌味としては成立している。言い方、研究したのかなあ、なんて的はずれな感想も持ちつつ、正直悔しくもあった。――人が一番気にしていることを、正面から刺しやがって。

 砂の感触をスニーカーの裏で確かめるように歩いていく。来たときよりも日が落ちているのがわかる。風に冷たさがまじり、影が少し伸びた。

 美咲のことは、ひと目見た瞬間から、人種が違う、と思った。それこそ高三の講習会で見た菊川きくかわ先輩や江藤えとう先輩のようなものだ。瞬間的に理解できる姿勢の良さ、スタイルの良さ。そしてにじみ出る品格と、本人の努力と気の強さがうかがえる美貌。そしてそれらに裏打ちされた歌。――彼女こそが歌姫だ。

 つまるところ、教養が違うのだ。ドラマティコという生まれ持った声も当然ながら、生まれた環境から与えられた経験が違う。美咲がオペラ歌手になると決めたのは、まだ五歳の頃だったという。それこそ親の付き合いで連れて行かれたオペラを何度も見るうちに、自分はそうなるのだとぴんと来た、らしい。

 それからはもとから習わされていたバレエにも真面目に取り組むようになり、行ける公演には足を運ぶようにして、イタリア語やドイツ語、英語も習い、栄養に気を配った食事も家にいる家政婦さんに習ったとまでいうのだ。一般の人と異なる素地すべてが、美咲の教養となって彼女と彼女の音楽を彩っている。生まれもった環境の影響はもちろんある。ただ、「それをどうするかはその人次第だ」ということを、美咲はやってきたのだ。幼少時から、ずっと。

 だからそれが大学に入ったときに、他の生徒との大きな差になっていた。そういう生徒の多くはもっとが多い他の学校を選ぶものだが、美咲は飯田いいだ先生に習いたいからとこの学校を志望した。だからこそ余計に目立つのだけれど、美咲は気にしていなかった。目標がぶれないからだ。だから――もう、そこにいるだけで歌姫なのだ。他の生徒と――自分と比べるまでもなく。

 オペラ歌手になるために生まれたのではないかもしれない。でも、オペラ歌手になるために育ってきたのが、相田あいだ美咲だった。

 だから、美咲が自分のことを気に入ったのは意外だった。みそらが歌を強く意識したのは小学生の頃だし、それから先も受験期前のレッスン以外は、学校の合唱部くらいでしか学ぶ場はなかった。追いつくどころか、一緒にいるのが気後れすることも、正直、当初はあった。自分のどこがいいのか、とは思うけれど、――まあ、気の強さは似通っているところではあるか。あとは、うーん。

 海を見る。夏の残り香が空にも、海にも色となって広がっていた。潮の匂いは、ほんとうに久しぶりだ。

 好み、なんだろうか。気が合うとかそういうところはもちろんあるけど、美咲はきっと、自分とはキャラクターが違う声質を気に入ってくれているのだと思う。――本来、オペラのヒロインの多くには向かない、軽やかな声を。

 女声の高音域の代表格といえば、モーツァルトの『魔笛』に出てくる夜の女王だろう。これを歌うのはコロラトゥーラ・ソプラノ――もともとコロラトゥーラには「細かい音符の連続やトリルなどの装飾音型を用いることによって、軽快で華やかに動く技巧的旋律」という意味があって、それができるソプラノのことをコロラトゥーラ・ソプラノという。他には「椿姫」の主役であるヴィオレッタや、「ラメンモールのルチア」のルチアあたりも要素としては含まれて、もちろんみそらも技術的な面でいえば歌える。

 それに、ミュージカル女優さんなどはしれっとコロラトゥーラ・ソプラノくらいの音域を音楽番組などで披露することも多いので、ツチノコほどめずらしいというほどではまったくないのだ。みそらも一時期コロラトゥーラでやろうかと思ったけれど、――それこそ「歌のお姉さん」のイメージと紐付いてしまうような気がして、引っかかってしまったのだ。

 何より、自分としては日本歌曲や、どちらかというとリリコの曲――これまでやってきた蝶々さんやミミ、トスカなどがここに分類される――をしっかり歌いたいという思いもあった。それを木村先生に相談したら、「うん、みそらはリリコが似合うと僕も思うよ」と言われたこともある。木村先生はそういったところでも妥協をしないので、その言葉に偽りがないことも知っている。――でも。

 自覚はあるのだ。ミュージカルとか、そういう曲のほうが自分の声には合うことを。二年生の学内選抜で林先輩と曲がかぶって負けたのはそういったところに敗因があるのも承知している。先輩も軽めの声ではあったけれど、経験値と勉強、そして練習量でカバーしていた。だから当時のみそらはまだ、キャラクター付けという戦い方しかできなかった。結果的にそれをやったことが自分の経験値――戦術のひとつになったとしても。

 でも、最終的に、自分の声を――声をつくる体を許容できるようになったのは、やっぱり三谷みたにのおかげなんじゃないかと、最近はとくに思う。自分の声でできる範囲の歌い方でもしっかりと合わせてくれるし。「ソプラノらしい」ってよく言うし。――この言葉がわたしの心をどれほど救っているか、あの人、わかってないよな、たぶん。

 と、そこまで考えて、そういえば三谷からの連絡に返信し忘れていたことを思い出した。葉子ようこの家まで空港からすぐに地下鉄に乗ったので、周りを気にしているあいだにすっかり失念していた。みそらはもう一度スマホを取り出し、――顔を上げて、眼前に広がる景色を見た。

 左右、奥、どこまでも広がっていく一面の、海。

 みそらは日傘を砂浜の上に置いた。風で飛んでいくかと思ったけど大丈夫そうだ。そうしてスマホのカメラを起動させる。

 ――信じてみてもいいのかもしれない、と思えたのは、三谷の専攻がピアノだったからだ。もちろん美咲の言葉を疑うことは一切ないけれど、同じ専攻の、しかも絶対にレベルの届かない相手に言われても、実感がないというのが正直なところだった。

 スマホを横にして撮ってみる。見て、なんとなく空と海のバランスが気になって三回ほど撮り直し、カメラロールを見直して、そしてみそらは無意識にほほえんだ。うん、これ、いい感じ。

 日傘が飛ばされないようにスカートをたたむようにして座り、スマホと向き合う。風に乗って周りの音が聞こえる。バレーを楽しむ学生たち、子どもの声、大学生らしき人たち――もし、すぐ既読になったら。

 宛先を指定して、これでいいと思った一枚を送信する。メッセージ画面に移動すると、ちょうど既読という小さな文字がぽっと点灯したように見えた。そのままほとんど反射的に通話のマークを押す。

「――びっくりした、どうしたの」

 ほとんどコールなしに聞こえた、しかも数時間ぶりに聞いた声にみそらは息を吸った。体がほぐれていくのがわかる。

「ごめんね、返信できてなくて。移動してたから」

 思わず頬が緩むのを自覚しながら早口に言うと、電話口の三谷夕季ゆうきは「だと思ったから大丈夫」と軽い笑みがにじむ声で応えた。だよなあ、と思いながらみそらは立ち上がって服から砂を払い、傘を取り上げた。

「いまね、海に来てるの」

「え、この写真、現地? あ、だからなんか音が」

「あ、そうそう。聞こえづらかったらごめんね」

「いや大丈夫。葉子先生も?」

 美咲にしたのと同じ説明をすると、「満喫してるなー」というちょっとからかうような声が聞こえてきた。

「日焼け注意だけどね」

「うん。肌きれいなんだからもったいない」

 もったいないとは。と言いそうになるけど、すんでのところでみそらはとどまった。いやまじで、こういうこと、すぐ言うんだよな、三谷って。まじでどうなってるんだ。

 ただ、三谷のこういうところが、自分を救ってきたのは事実だ、とあらためて思う。そもそも三谷がいなかったら、今も諸田もろた加奈子かなことコンビを組んでいた、ということになるんだろうか。いや、それはないだろうな、とすぐに思い直す。美咲も木村先生も怒っていたし、なにより自分が限界だった。だから、他の人。……うーん、全然イメージできない。

 もう一度海を見る。波の音がする。――いまみそらがここにこうしているのは、間違いなく三谷のおかげだ。三谷が伴奏をすると言ってくれたから、そこからいい方向に動き始めた。そのことは紛れもない事実だ。

 美咲と話した以上にとりとめない話をして通話を切る。正直に言えば、三谷夕季の声を聞きたかっただけだった。そのことを自覚しても、それが気恥ずかしいなんてことも、もう思わない。

 海風にまじる冷たさがかすかに増したような気がして、左手首にある腕時計を見る。十六時半くらいだった。もう一度空を見る。――そうか、すごいな、こっちだと一時間くらい、日の入りが遅いのか。

 と、今度はスマホがメッセージの受信を報せた。葉子だった。先ほど別れた駅への到着時間などが書いてある。今出ればちょうどいいくらいに着くだろう。

 みそらはもう一度だけ海を振り返って、それからもと来た道へと歩いていった。

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