第十章 午後十一時、姫君の帰還
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寄せては返す波、白い砂浜。遊んでいるのは学生や家族連れらしき人たち。
聞いてはいたもののあまりぴんときていなかった景色に、
地下鉄を降りて歩くこと三十分ほど。九月上旬のまだまだ強い日差しの中、真っ黒の日傘を片手に化粧から服までUV対策もしっかりやって、その果てにあった景色には、自分の想像していた以上に、なんというか、開放感と感動があった。
左右どこまでも広がっていく海岸線。遠くには海の家だけではない買い物ができそうな建物、バレーができるという砂浜のコート、うしろには沿道を走る自転車なども見える。三六〇度円形にぐるっと、みそらの周りすべてが海と海が近くにあるからこその景色だった。そして、波の音、子どもたちのはしゃぐ声、――日傘を横によけ、みそらは眩しい空を仰いだ。
夏の青、が、まだ残っている。
人工の砂浜だと、聞いていなければわからなかった。打ち返す水際で学生らしき数人が足を濡らしながらはしゃいでいるのを見て、ついみそらは今度は自分の足元を見つめた。長旅でも疲れないようにと履いてきたのは、履き慣れたスニーカーだった。しっかり足首くらいまで生地があるので砂も入りにくいけれど、――同時に、水で遊ぶことも、これじゃ無理だ。
つい思いっきりがっかりしていると、「うみー!」という高い声が右側で聞こえた。つられて見ると、母親らしき人の前に飛び出した小さな姿があった。サンダルで砂を蹴って進んでいく。ちょっともつれて転びそうになり、みそらはつい自分の手が動くのがわかった。その子は――三、四歳くらいの軽やかな白っぽいワンピースを着た女の子は、それでも「きゃー」と声を上げて嬉しそうに走っていく。日焼けなんて気にもとめない頃だな、とみそらはすこしうらやましくなった。
その子につられたわけではないけれど、足が水際に向いた。スニーカーの先でちょっと水をつつくくらいしかできないだろうけれど、それでもいい。びしょぬれになったら悲惨なので、波には気をつけて、と思いながら歩いていく。砂はやわらかくて、歩いていくとかすかに視界がぐらつく。
「うーみーはーひろいーな、おおきーなー」
女の子が歌っている。みそらはつい頬がゆるむのを感じた。かわいい。声も、ちいさなうしろ姿も。
「うーきーがのぼるーし、ひがしーずーむー」
月になってない、と思ってみそらは笑いをこらえた。発音がうまくできなかったのか、それとも覚え間違いか。どちらにしろそれでも大声で歌えるのはいい。
「ねえママー」
女の子が振り返った。その小さな足元を波が飛沫をあげてのぼり、また去っていく。
「にばんのかしってなに?」
はっとした。――イントネーションが違う。これまで移動するうちにも何度も思ったことだったけれど、はっきりと聞こえた音に地域の違いを感じた。「なに」の、「に」のほうが音が高い。これがこちらのくせなのだろうか。
「二番? 二番とかあったっけ?」
母親らしき人も白い上品なレースの刺繍がある日傘をさして、女の子のそばに寄ってくる。その彼女のよそおいもまた似たようなワンピースで、顔つきだけではなく雰囲気でも母娘だとわかるものがあった。
「えー、でもようちえんのせんせー、つぎあるって言いよったよ?」
「でもママわからんもん。それより帽子、かぶって」
「――あの」
声をかけたのはほとんど無意識だった。母親がはっとしたようにこちらを見て、あ、やばかったかと肝が冷える。見ればきちんと化粧はしているものの、みそらとそう何歳も離れていないくらいの顔つきだった。
「二番の歌詞、わかりますよ」
「え――」
「ほんと!」
母親の声の前に飛び出るようなはっきりした声で言い、女の子が文字通り飛び上がる。やはり三歳くらいの、頬がふっくらとして瞳の丸さも愛らしい姿だった。その子がうれしさで跳ねた姿を見て、母親も警戒を解いたようだった。肌に刺さる感覚が消えた。
「わかるんですか?」
「はい。その歌も、学校で習ったので」
なるべく人好きのしそうな笑顔になるように、と心の中で念じて表情を作った甲斐あって、どうやら成功したようだ。母親は表情をほころばせ、女の子の左側に膝をつくと、「聞いてみたら?」と娘に促した。そうしながら麦わら帽子をそのちいさな頭にかぶせている。
みそらは日傘をたたんで、同じように膝を折った。膝下丈のスカート越しに砂の感触が膝の皮膚に伝わってくる。女の子は目を輝かせてみそらの言葉を待っていた。掛け値なしにかわいい姿だ。みそらは視線を合わせ、比較的ゆっくりと、明るい口調で言った。
「海は大波、青い波。いっしょに歌ってみようか。せーの」
「うーみーはーおおなーみ、あおいーなーみー」
「そうそう、上手だねー。つづきもいくよ。ゆれてどこまで、続くやら」
「ゆーれーて、どこまーで、つづくーやーらー」
「そうそう、できたね。本当に上手だね」
みそらが思わずにこにこと身を乗り出すと、「ほんと? できた?」と女の子は頬を桜色に染めてみそらに言い、それから母親を見た。母親も「うん、上手。よかったね」と言って、女の子の背中を軽く、それこそ触れるかどうかくらいの強さで軽く叩いた。
「ゆう、お姉さんにお礼を言わないとね」
「おしえてもらって、ありがとうございました!」
はきはきとした口調や「おしえてもらって」という言い回しに、幼稚園と言ったか、そこの教育もしっかりと身についているように感じた。と同時に、お母さんが歌詞を忘れた季節の歌を楽しそうに歌っていてもおかしくはない。みそらももう一度笑顔を見せた。
「お役に立ててよかったです」
「おねえさん、うたじょうずね。うたのおねえさんみたい」
きらきらとした声だった。何の含みもない褒め言葉――に、みそらは一瞬胃がぎゅっとなるのを感じた。それでも顔には出さず、首をかしげて続けた。
「もう一回歌ってみようか。覚えてるかなー?」
「いいよー!」
と小さな手で万歳をしそうな勢いで言う女の子――ゆうちゃん、だろうか――と一緒に一番から歌ってみる。一回でしっかり覚えていたようなので、つい三番があることを言うとそれも教えてほしいとせがまれ、そのままみそらが教えるとゆうちゃんはすぐに覚えてくれた。耳がいいのと、歌が好きなようだ。「よくできました」と努めて先生っぽく褒めると、ゆうちゃんはまた頬を染め、波打ち際まで軽やかに走って行って、覚えたばかりの二番と三番も歌い始めた。
みそらは立ち上がり、スカートについた砂を払いながら言った。
「すみません、つい、差し出がましいことをしてしまって」
「いえ、助かりました。子どもの頃に習ってても、歌詞ってうろ覚えになりますよね」
母親もすっかり気を許した雰囲気で、内心ほっとする。
「そういうものですよね。わたしはちょうど学校で復習してて」
「学校って、保育科かなにか――」
急に電子音が鳴り響きだした。電話だった。屋外でもあるし、葉子と合流するためにマナーモードは解除していたのだ。
「すみません、電話――」
「いえいえ」
どうぞ、と母親は言い、そっと離れてくれた。みそらはポケットから着信音が軽やかに転がってくるスマホを取り出した。表示されている名前は、
「はい」
「おつかれー。着いた? どんな感じ?」
いつもとまったく変わらない音のクリアさに、なんだか気が抜けるような笑いが出てしまう。
「着いたよ。いま海に来てる」
「海? なんで?」
「
「あ、なんかゴウゴウ音がするのって海風せいか。って、え、じゃあ――
「うん。実家に楽器がないから、近くの知り合いのところで練習してくるって。さすがについて行ってもじゃまになりそうだったから」
「ああ、羽田先生、帰省も久しぶりなんだっけ。積もる話もあるというやつね」
――そう、みそらがいまいるのは、いつもの学校でもなく、学校から一番近い海でもない。羽田葉子の地元、その海だ。
海に目をやると、遠くに船が走っていくのが見える。形や大きさまではわからないけれど、そういえばここをずっと進んでいけば、大陸につながるのだったか、とぼんやり思い出す。
「うん。それに練習っていっても、たしかもう四回くらい代打やってるから。曲も変更ないらしいし」
「肝心の木村先生はどうなのよ?」
「こっちの人たちへの営業活動。という名のお食事会とかに行ってるみたいね」
「ああそうか、そういうのも必要よね」
打てば響くように美咲は納得した。美咲の場合、接待をする親の姿を何度も見たことがある、ということだろう。
今回の旅行、ではなく遠征は、木村先生の演奏会のためだった。授業の合間をぬって演奏会を全国各地で行うのは、いまも先生が続けている大事なルーティンだ。みそらこそ、その演奏会で地元に来た木村先生を見て、この人のもとで勉強がしたいと思ったのだから。
その木村先生の伴奏を葉子がやることになったのは、新年度になったころのこと。木村先生の奥さんが妊娠したため、その代理に、ということだった。演奏会の多くは各地方で行われる。今回はその地方行きの第一弾でもあった。
「いくら練習はきちんとやるといっても、
と、葉子から話を持ちかけられたのは、
木村先生の奥さんである「麻里子さん」のことは、木村先生と葉子のどちらからも、それぞれにすこしずつだけれど話を聞いていた。とくに葉子とおなじ元小野門下ということもあり、弾き方のくせなどを考えると葉子が適任だと、奥さんじきじきの指名もあったらしい。理由にも納得できたし、行き先が葉子の地元というところにも興味が出て、かつ交通費は先生が経費として出してくれるというので、みそらは喜んで引き受けた。
そうして迎えた今日、土曜の昼過ぎの飛行機でこちらに到着し、葉子の実家に荷物を預け、葉子はそのまま練習に、みそらはそのあいだ、軽い観光に、という次第だ。
「どう、海は」
「いいよー。なんか広くて落ち着くし。けっこう風はあるけどね。忘れてたんだけど、こっちって日本海側になるんだよね」
「あ、そっか。たしかにそうだ」
「ねー。冬は寒いって言ってたの、この風だと納得するなと思って。あ、でも日傘は持ってきて正解かな。まだかなり日が強いし、あと……予想より湿気がある」
「え、そうなの?」
「うん。飛行機降りてすぐ肌感でわかった。だから思っていたより蒸してるかも。ピアノの調律とか大変かもしれない」
「まじかー。日本って広いなー」
美咲って日本国内より海外のほうが家族旅行とかで行ってるもんなあ、とはみそらは口には出さずに遠くを走っていく船を見る。そうするとまだ先ほどの「ゆうちゃん」が水際で遊んでいるのが見えて、――数秒だけ悩んだ末、みそらは口を開いた。
「さっきさ」
「うん?」
「三歳か四歳くらいの女の子がいて、『海』を歌ってたの」
「海は広いな、の?」
「そう。で、お母さんに『二番の歌詞忘れた』って言ってたから、つい口挟んじゃって」
美咲はふふっと電話口で笑ったようだった。
「みそらってそういうところあるよね。先生に向いてそう」
「そう?」
「そう。羽田先生に副科声楽のスカウトされた理由ってそういうところよ。で、その『海』がなんだって?」
「海、っていうか」
続けようとして、やっぱり気がすさんだ。かすかにだけど。
「歌のお姉さんみたい、って言われて。その子にとっては褒め言葉だったんだろうけど、なんか……」
「ああ……」
電話口で納得する美咲の表情が目に浮かぶようだった。
「昔のこと、思い出したって?」
「……まあね」
「そうかー。なんかあれだな、いじめとおんなじ。言ったほうは忘れてるけど、言われたほうは忘れてないってやつね」
「そういうもんかね」
「そういうものでしょ。でも前も言ったけど、あいつらが言ったのって結局、いい意味で的を得てるんだから。悔しかったらみそらくらい勉強して日本語もイタリア語もきれいに発音して、軽やかで愛らしい声になってみろってのよ」
「……あいかわらず、美咲はわたしの声、好きっすね」
ちょっと感心してしまうと、「好きだよー」といつもの調子で返事がきた。
「他の楽器と違って、私たちって結局、生まれつきの音でしか戦えないじゃない。その中でもみそらの声はとびきりかわいいし、私は大好きよ」
なんのてらいものない、それでいて美咲らしい言い方に、ついみそらはくすりと笑った。
「ありがと。わたしも美咲の声も立ち姿も歌も、ぜーんぶ大好きですよ」
「両思いじゃん。三谷に焼きもちゴロゴロ焼いてもらわないとね」
それからしばらく通話をしていると、先ほどの「ゆうちゃん」とその母親は場所を移るようだった。「おねーちゃん、ばいばーい」という大きな、それでいて可愛らしい声に手を振り、母親にはスマホを一度外してお辞儀をする。
はたはたとスカートがなびくのを感じながら海岸を歩きながら美咲ととりとめのない話をして、それから通話を切った。表示には二十八分十七秒と出ていて、毎度のことながら美咲との話は油断するとこうなるな、と苦笑してしまう。今回の通話料は美咲持ちになるので、ごめんと思いながらもありがたくスマホを軽く拝んでおく。
それにしても、歌のおねえさん、か。――そんなことを同級生に言われたのは、入学してまだ二ヶ月とかそのくらいだったと思う。それぞれの名前や門下が一致して、歌のくせ、レベルなどを全員が把握し始める時期、でもある。
事実、みそらが歌に興味を持ったのは、ミュージカル作品がきっかけだ。中高それぞれの合唱部でも、定期演奏会などでは合唱曲だけではなく、プログラム構成の一環としてミュージカル曲を取り入れるのも多かった。とくに『美女と野獣』『アラジン』などのディズニーものは鉄板だ。
みそらは中高ともにソプラノ――つまり、
ただ、やっぱり声が軽い、というのは、この大学に入ってからは身にしみた。とくに美咲は入学時から容姿や家のことなどもあって目立っていて、なおかつ声質も日本人ではめずらしいとされるドラマティコだ。これが本来の姿――ソプラノを「学問として学ぶ」人だよな、と、何度も何度も思っていた。そんな頃に言われたのが、さっきの言葉だ。
山岡さんって、声が軽いよね。ミュージカルとか、歌のおねえさんっぽい。そういうの、似合うんじゃない?
自覚なんぞとうに高校の頃からありますし、そもそも歌のお姉さんって音大の声楽専攻を卒業してないとなれないんはずだけど知ってるよね、と言い返そうとして、それを言ったところでこの人たち――同じ学年の同じソプラノの生徒のうちの一部――には通じないな、と瞬間的にめんどうになってしまったところへ飛んできたのが、美咲のひと言だったのはいまだにおもしろくて仕方がないけれど。
「それって、自分の声になんの特徴もない人の僻み?」
(1-2に続く)
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