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 一応ことわっておくけど、べつに姉とはずーっと仲がいいわけではない。それこそ子どもの頃は取っ組み合いのけんかもした。それに、自分が中学生、姉が高校生の頃は、互いに受験に突入する時期ということもあって、一時期口をきくのも避けていたところはあった。何を話せばいいのかわからなかったからだ。互いに進路にピリピリしているのに、不用意なことを言えば互いにさらにイライラするのはわかりきっていた。よくある通過儀礼と言われればまさにそのとおりだけど、――つまり何が言いたいかというと、「よくある姉弟」だってことだ。

 でも――よく考えたら、その雪解けのきっかけになったのが祖母の死であり、杏奈あんなの存在だったかもしれない。智則トモ智則トモのまんまなので、「みい姉ちゃん」に対しても何も変わらなかった。そういうところは智則とものりのめちゃくちゃな強みだし、自分よりももっと愛情深いと亮介は思っている。

 いまでもたまに、風呂なんかでふと思い出すことがある。母方の祖母の最期は集中治療室だった。薬のせいか、最初そこに入ったころは会話ができていたのに、三日も経てば意識が混濁しているのか、会話もままならなくなった。そこではじめて白く濁りはじめていた目に気づいたけれど、その目も一切合わない。これが死に向かう人かと思った。祖父はどちらも自分の記憶がないころに死んでいるし、こうやって誰かが、一歩一歩、毎日毎日、自分が学校という外に行くのと反比例するようにゆるゆると死へ――内側へと収束していくのを間近で見るのははじめてで、だから祖母の姿は、いまだに忘れられるものではなかった。

 同時に親の悔恨も目の当たりにした。だからこそ思う、自分は決してそうはなるまいと。親を見送るときに、このような状態にはさせたくないと。それが人の生死という制御不可能なことであっても、それがわかった上で、心に刻むほどのものだったのは事実だ。そしてそれはきっと姉もおなじだったのだと思う。

 自分にとって杏奈がそうだったように、当時の姉の心の拠り所であり、拠り所だけになりきれなかったのが、その祖母が残したレコード――音楽だったのだと思う。自分だってあまり周りを見る余裕はなかったけれど、それでもなんとなくそうじゃないだろうかと思っていた。だから、進学先を音大にしたのだろうということも理解しているつもりだ。

 ――完璧に心情を理解することはできなくても、ある程度の共有はできる。そういう存在が自分にとっては杏奈で、そう思えば姉が三谷みたに夕季ゆうきを好きになるのもわかる気がした。実際にしゃべってみた感覚と、――やっぱり、あの『水のたわむれ』。

 姉の初恋はミュージカル映画の中にいるファントムだったのは知ってたけど、それとおなじくらい好きで、でもおなじくらい近くで「音楽」をやってる人がいれば、そりゃそうなるよな、と亮介りょうすけは思う。

 だからだろうか、さっきの姉もまた、あのときと同じように謝らなかった。「いてあげてほしい」というお願いというか、依頼はあったけど、押し付けることもなく、ただ、自分ができにくくなることを、できやすい状態にいる弟に頼んだだけだった。

 机の上に置いておいたスマホがふるえる。学校のほうに戻った智則だった。

「はい」

「亮? いまだいじょうぶ?」

「うん、なんかあった?」

 会話のテンポも変わらない。智則は亮介の問いにも「ううん、ない」とあっけらかんと続けた。

「でも、なんとなくカンが働いた」

「カン?」

「そ。杏奈いわく、『シンメのカン』?」

「なにそれ……シンメ? シンメトリーのこと?」

 手にスマホを持つのがおっくうになって、スピーカーに変えながら聞くと、「らしいよ。でも建築用語じゃないって」という智則の声が部屋に少し響く。

「どっちかっていうとアイドル用語? ダンスの立ち位置がシンメトリーの二人、だから略してシンメって」

 杏奈はどうしてこういう雑学みたいなことをよく知っているんだろうか。それこそ女子ネットワークなのかな。

「で、シンメは運命共同体なんだって」

 単語と単語がイコールにならなくて一瞬間があいた。

「え、なんて?」

「シンメは運命共同体。だから亮介がなにかピンチのときはそばに来て、いっしょに乗り越えるってやつ」

 一緒にって、とつい心の中で突っ込んでしまう。チャットツールがあっても、文字だけ・声だけ・カメラ映像だけの中で、正確な何かを得るのは難しい。距離があるからわからないことは事実多い。

「ま、わかんないけど。俺でよければ話も聞きますし、お願いごともある程度おっけーだよ」

「なにそれ、通常営業じゃん」

「なー。でもそれだからシンメってやつなんじゃない? わかんないけど」

 わかんないけどを連発するな、と思ったけど、――でも、そうか。

「じゃあさ、二つ」

「二つ? 多くない?」

「多くないよ。トモの言い分のほうがまだ多い」

「そうだっけ?」

 智則は電話口で本気で首をひねっているようだけど、こっちには星の数ほど思い当たることがある。でもそれは黙っておいて、亮介は続けた。

「姉ちゃんと夕季さんのこと、見れる範囲でよろしく」

「あ、それは大丈夫。タイミング合えばすぐ遊びに行ってるし」

「……それはそれでまずい気がしてきた」

「えーなんで」

 就活――は終わっているっぽいにしろ、いちいち智則のノリで遊びに行かれたら誰だって困る。自分以外は。という言葉はとりあえず飲み込んだ。なんて説明しようかと思っていると、「すごいよね」という智則の音が聞こえた。

「あの二人に限らずだけど、俺、音大行く人やばいと思ってる。だって学部もだけど、楽器まで入学時点で決まってんだよ。つぶし効かなくなるじゃん。医者のほうが大変とか言われるけど、最終的にどの科にするかはまだまだ先の話だし。それまで勉強しながらいろんなところを見て、それから決めればいいのに。少なくともみい姉ちゃんとか夕季さんとか、そのお友だちさんとかは、大学に入る前から決めてんの、覚悟が違う気がする」

 たしかにそうかも、と思っていると、「で、もいっこは?」と促される。そこ、単に思い出したから言っただけか、と瞬間的に追及が面倒になったので亮介は気を取り直すことにした。

「これはお願いとはちょっと違うけど……十一月くらいに学内演奏会があるんだって。オーディションに受かれば出れるらしいんだけど、たぶん受かるって言うから、それ、見に行こうかと思って。父さんはわかんないけど、母さんは行くし。杏奈も誘おうと思ってるんだけど、行く?」

「行く! スケジュールが重なってない限りは」

 最後のひと言が現実的だった。でも即答なんだな、とつい笑みがこぼれる。

「それって夕季さんとみい姉ちゃん、べつべつに出る可能性もあるってこと?」

「らしいよ。姉ちゃんの伴奏は夕季さんだけど。だからピアノとか声楽以外の楽器もあるらしい」

 要領を得ない言い方になってしまうのは、やっぱり「見たことがない」からだ。だからこそ行ってみたいと思った。姉が四年間、どんなものを見て、どんなものを聞いて、そしてそこから、どんなものを選んだのかを知るヒントくらいなら、得ることができるかもしれない。

 シンメかあ、と、智則となんでもない話を続けながらちょっとだけ考えてみる。左右対称、建築物として最も有名なのはヴェルサイユ宮殿。――こういうのを共有できるのは杏奈。トモは、うーん、なんでも共有できる。で、姉ちゃんが、家族とか、家のこと。それと、夕季さんを好きなこと。

 適材適所、とか、役割分担とか、そういう言い回しも、彼氏彼女、姉弟、家族みたいなものかもしれない、と思う。いや、十八歳のお子さまの言い分なんて、大して的を得たものじゃないとわかってるけど。でも、なんとなく、――分け合えればいいのかな、と思う。

 智則と、杏奈と、姉と、夕季さんと、両親と、学校の友だちと、学祭実行委員メンバーと、それぞれ内容も重さも違うけれど、少しずつ抱えているものを分け合って、共有して、だめなときは言って、いいときはいいと言って、――そうやって生きてくんじゃないでしょーか。わかんないけど。

 十八歳の山岡亮介なりに考えてみたらそういうことで、もしかしたら十九歳の山岡亮介だったらまた違うことを言うかもしれない。それでもいいし、そうじゃないといけないのかも。うーん、やっぱりわかんないけど。

 そう、わかんないことがこの世界には多すぎる。学校の勉強も、四年で終わる気がしなかった。あ、でも、――これが姉ちゃんが続けたい理由なのかな。そう考えれば姉の「続けたい」とか「やめないといけない」という思いも、以前よりは理解できるような気がした。

 これ以上考えても迷走するだけだと思って思考を切り替えると、智則の声がクリアに頭の中に入ってきた。こいつよくしゃべるなあ、ずっとこうだけど。

「あ、じゃあさ、そんときって俺の部屋、くる?」

「行かない。杏奈と二人で行ったら狭いだろ」

「えー、入ると思うけど。宿代浮くよ?」

「宿代はそうだけど、……冗談で言ったの真に受けんなよ」

「俺はいつも本音で話す主義ですから」

「……それは知ってる」

「あとさー、俺が特定の彼女つくんない理由、友だちに説明すんのめんどい」

「……それは、頑張って。俺、そこにいないし」

「まーじでめんどい。亮介ってほんと翻訳機の能力搭載してるよね。こっちに一人ほしい」

「言い方……。四次元ポケットくらいの軽々しさでこっちから出てくるわけじゃないんだから」

「あーだれかあの便利なドア、発明してくんないかなー」

 それには大いに同意する、と思ってつい小さく笑うと、自分の声がかすかに部屋に反響する。――学内演奏会。それに行けば、もしかしたら年末に見たあの景色と似たようなものが見れるのだろうか。そう思うと、いまからでもわくわくする心地だった。

 そしてそれを、誰かと共有できるなら。きっともっと、わくわくするんだろうな。そんなことを考えながらカーテンの隙間から空を見る。――だって、音はほら、いまもつながっている。



[きみとはんぶんこ 了]

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