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 杏奈あんな智則とものりと一緒に自宅に送り、その足で智則の家に向かい、あちらのご家族に久しぶりの挨拶をする。昔からのなじみのある間柄、ということももちろんあるけれど、智則の家系がこの地域を支えているから、というのが大きいというのは暗黙の了解だ。医療が大きくなればそれに伴って建設事業も潤う。新しいものを取り入れたり、規模が大きくなれば人員も必要になるので雇用も生まれる。そういう循環がこの田舎を支えているということに、亮介りょうすけはけっこう早い段階で気づいていた。

 ただ、それがあるから智則と仲良くなったわけじゃない。気が合うから、それだけだ。そういう点でも、杏奈は特別というか、めずらしい部類だったと思う。自分と智則の関係をアイドル的な見方をするわけではなく、妄想の一部として搾取するのでもなく、嫌味でもなんでもなく「仲がいいんだね」と感心したように言う女子は杏奈くらいだった。少なくとも亮介の記憶では。

 中学に入って二つの小学校が合併した先の、ちがう小学校出身の生徒の中に杏奈はいて、中一から中二まで三人とも同じクラスだった。ちょっとずつ仲良くなっていく中でも、杏奈は二人の間に割り込むでも、外にいるでもなくて、ふつうに「三」になるように居れる子だった。たぶん、それが不思議でもっと好きになったんだと思う。あと気が合ったのは互いに建築に興味があったことだ。純粋にそういう他愛のない話をしゃべるのも楽しかった。だから彼氏彼女とかの関係になったのも、特別な何かのせいなんかじゃないと思う。

 ただ、と、自宅までの薄暗い道を歩きながら思い出す。共鳴したものがあるとすれば、ちょうどおなじ時期に杏奈の母と、亮介の母方の祖母が亡くなったことだろう。もちろん二人ともおなじ病院――当然ながら智則の家の系列病院だ――に入院していたこと、同時期に入れ違いになるように忌引きになったことなど、「お互い大変だったね」くらいの何でもない会話からぽつぽつと自分たちの話をするようになっただけだ。

 その頃、姉は進路決定の時期に差し掛かっていた。母方の祖母にはとくに懐いていたので、落ち込みようというか――落ち込んでいるというよりも、何かがぽっかりと抜けたような感じになった姉を見たのははじめてだったかもしれない。普段どおりに楽しく部活に行っているように振る舞っているようで、その実、ほんとうはその「音楽」が姉を責めていたではないかとさえ思えた。でも。

 たぶん、四十九日を過ぎたころだったと思う。部活関係で足を運んだとある演奏会から帰宅した姉がいきなり「明日遅刻していくから」と言って、その次の日の帰宅後に、「この大学に行きたいです」と両親に正座して話をしているのを見た。

 あれは、姉が、色を取り戻した瞬間だったと思う。モノクロ写真のように笑わないでほしいと思っていたのに、いきなり息を吹き返したように、カラーの、極彩色の、彩度の高い姉に戻った。そしてそれも、やっぱり「音楽」のしわざだったのだ。

 わたし、習いたい先生がいるんだ。だからまずは、講習会に行ってくる。それで見込みがありそうだって思えたら、あっちの大学、行くから。

 姉はたぶん、あえて、「ごめん」というような言葉を使わなかったんだと思う。亮介自身も自分の高校受験を意識するようになった時期でもあったから、謝られるのはちがう、というのは幼いながらも理解できた。それに私立の音大の学費が高いこともなんとなく知っていたけれど、ただほんとうにありがたいことに、それこそ智則の家の事業のつながりで父の収入は良いほうだったし、自分自身がわりとできがいいということも理解し始めていた。それを承知の上で、姉は何かを自分に託したんじゃないかと、あとになって何度か思ったことがある。

 だって――音楽をやるのは大学までだなんて、最初は意味がわからなかった。大学って就職するために行くんじゃないんだっけ。なのに姉はそうじゃないようなことを言っていた。結局いま、やめないですむ可能性がでてきたみたいだけれど。でもやめることを前提で行くなんて、よくわからないと思っていた。

 実際に年末に足を運んでみて、姉のいる場所がどれほど遠いかは身にしみた。新幹線で数時間とはいえ、在来線で一時間とか、車で十五分とかの距離と比べられるわけがない。そういう場所に――地域の中にあるつながりが希薄な場所に、単身乗り込んでいった姉のことを素直にすごいと思った。

 親のつながりとか、そういう根っこにあるものがない場所で、姉は誰かと友だちになったり、先生と生徒になったり、誰かを好きになったり、好きな店でくつろいだり、――舞台の上で、一人で歌ったりしたのか。それはひどく勇気のいることのように思えた。ただ足を動かして距離を移動することよりも、何倍も、何十倍も、命を削るような作業に思えた。

 じつを言うと、姉が歌っている姿は、中学・高校の合唱部までしか知らない。理由はそれこそ、この距離の問題だ。コンスタントに発表会や試験、コンクールへの参加はあると聞いていても、それに、ただの高校生である弟がふらっと行けるような距離ではなかった。

 なので、年末の羽田はねだ門下発表会――だっけ、たしか――に連れて行ってもらったのは、純粋に興味があったからだ。「音楽の発表会」というものがどういうものかを見てみたかった。それは合唱の発表会とはまた違うんだろうと思っていたけれど、――思っていた以上だった。いまとなってはもっと早くに行ってみればよかったと思っているし、それ以上に声楽の発表会も気になる。

 それに、あとで知ったことだけれど、年末の発表会前には、その羽田先生の大人の生徒さんの発表会で姉が歌ったと聞いて――というかそのつながりもどうやってうまれたんだと思うのだけど――、それこそ早く言ってほしいとうらめしい気分になった。しかも和服を着たとか、成人式くらいだったのに、どういうことなんだか。

 と、いうようなことを杏奈に愚痴ると、「亮介はほんとにみそらちゃんが大好きだよね、わかるけど」と返ってくる。いやだから好きも何も、と思うのだけれど。でも年末のピアノの発表会は絶対に杏奈も好きだと思う。あんなに――あんなに立体的だなんて。音楽の授業程度じゃ全然わからなかった。西洋音楽ってどうなってるんだ。

 夕季ゆうきさんにそう言ったところ、「バッハだとバロック時代のものだから、よく聞けばほんとうにバロック様式の教会っぽい感じがするとかはあるよ」とのことだったし、実際にサブスクで聞いてみれば言いたいことがなんとなくだけどわかった。でも、発表会のときほどの衝撃はなかった。なんというか――音の圧。体に直接ぶつかってくるような、それこそ建物を目の前にして押しつぶされるような、あんな感覚は、サブスクの音源なんかじゃわからない。あれもやっぱり、「実物じゃないとわからない」というものなんだろうか。

 そんなことをつらつらと考えながら帰宅すると、母の声が聞こえた。お米、とか、段ボール、とかの単語と、いわゆる「よそ行きの声」になっているので察した。――夕季さんだ。「いえいえありがとう」「来月でもぜんぜんだいじょうぶ」「おばあさまにもよろしくね」「こちらからも伝えておきますから」――間違いない。

 手を洗ってうがいをしてリビングに戻ると、母の電話はもう終わっていた。「おかえり」と言われるので「ただいま」といつもどおりに返す。父は風呂のようだった。

「杏奈ちゃん、お父さんは帰ってきてあった?」

「うん。今回もお世話になりました、って」

「お世話になってるのはこっちなのにねえ」

 と母は姉とよく似た表情で笑う。――いや逆か。いやどっちでもいいけど、お世話になっているのはこっち、というのは本当だ。亮介の家は共働きなので、時間があるときに杏奈が夕飯を作ってくれたりするのはほんとうに助かっている。本人は趣味とか息抜きと言っているし、実際そうなのももうわかってる。勉強の合間に手を動かすと調子がよさそうだからだ。それにしても、なんだか杏奈も家がふたつあるみたいに見えてきた。いや、もう実際そうなんだっけ。

 ということを思いながらまたソファに座る。このソファは憶えている限り三代目で、まだ保育園児くらいだったころにクッションがおもしろくて飛び跳ねていたところに母から「壊れるからやめて」と怒られた記憶がある。

「夕季さん、なんて?」

「あれ、聞こえてた?」

「なんとなく。内容で予想がついた」

「あんたも耳がいいわね、みそらとおんなじ」

 母は感心したように言って、コーヒーの準備をしながら「今度、おばあさまのおすすめのお菓子を送ります、って。あとは雑談よ」と続けた。杏奈にメッセージを送ろうとチャットを開いたスマホから、亮介は顔を上げた。

「いつの間にそんなに仲良くなったの?」

「いつの間にって……しゃべってるうちに?」

「しゃべってるうちにってのはわかるんだけど。てか何しゃべってんの?」

「大したことじゃないわよ? でも夕季くん話しやすいから、ついなんか、ねえ」

 ついなんか、ねえ、じゃなくて。具体性のまったくない説明に思いっきり呆れたけれど、すっかり母も仲良くなっていることに、なぜだかほっとした。なんで俺がほっとするんだろう、と思いながら、亮介は今度こそ杏奈とのスレッド画面を開いて、指を動かし始めた。

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