6

 楽器店から大通りを少し遠回りして信号を渡る。それでも歩いてほんの三分ほどの場所に、記憶していたとおりの店があった。店内はいつも行くチェーン店とは雰囲気が違って、プランターの植物の緑が印象的だった。アイスクリームやシェイクも多いらしく、みそらはメニュー表にあるそれらをじっと見ていた。そっち方面にするのかなと思っていると、「うーん、やっぱりラテにする」と言った。

「甘いものじゃなくていいの」

 つい三谷みたにが言うと、「悩んだんだけど」とみそらは言った。

「ベーシックなところの味が気になって」

 そこか、とつい心の中で突っ込む。みそらにはこういうところ――妙なところで石橋を叩いて渡るというか、そういう部分がある。個人的にはそういう緩急がおもしろくて好きなのだけれど。

 自分もあまり悩まずマキアートを頼んで、まとめて会計をして先にみそらに座席を探してもらう。どうやらちゃんと手作業でドリップをしてくれるようなので少し時間はかかるようだが、それでもドリップ特有の香りと熱が伝わってきて心地よい。

 大通りに面しているからか、人はひっきりなしに入っては来るものの、そのままテイクアウトする人も多いようだった。二つのカップを手に座席に行くと、みそらはいつものように笑って「ありがとう」と言った。

「なんていうか、人種が違うよね」

「うん?」

「人の感じが違うっていうか。おしゃれだなーと思って。学校の近くと雰囲気違うんだもん」

「ああ、なんとなくわかるかも……」

 ここの人たちはせわしないな、とも思う。それは人が行き交う場所であって、学校の周りのように「住む場所」ではないからなのだろう。窓の外はさっきよりもさらに夕暮れに染まっていて、涼しい店内にいると残り少ない夏の時間を思わせる。

 ふと思い出してスマホを取り出す。清川きよかわに『合流したけどちょっとコーヒー飲んでくる』とだけ送る。こういうときに一番連絡をこまめに確認するのが清川だ。

 みそらの横顔はいつもどおりに見えた。いつもどおりに肌が白くて、流した髪がきれいで、外を眺める目をふちどるまつげが長くて、それでいてくちびるに血の通った赤みがあって目を引いて、細くて、でも細いながらにも案外骨格のしっかりしている体を包む黒いワンピースが店内の白い壁に映える、――そんな、いつもの山岡やまおかみそら。

「こないだ」

 どう言おうとあまり考えていたわけじゃなかった。でも言うなら今がいいような気がした。

「ばあちゃんから、卒業したら楽器どうするのかって連絡きて」

 みそらはラテを口に含んでいるのか、こちらを見ると黙ってひとつうなずいた。

「さすがに実家に戻さないとなとは思ってたから、そう言ったんだけど。つぎの家にも持っていきなさいって」

「……あの田舎から外に出すと、高くならない……?」

 さすがにみそらが心配そうに言う。みそらの言う通りで、音大の周辺、かつ郊外なので防音であっても比較的安い家賃で借りれるのだ。三谷はつい笑った。

「うん、おんなじこと言った。そしたら、最初だけは少し助けるから、持っていきなさいって言われて」

 今度こそみそらの目がまんまるに見開かれる。まつげが花のように咲いた。

「さすがに社会人になるのにそれはちょっと、と思って、返事、保留にしてたんだけど」

 窓の外を見る。けれど自分の目に見えているのは、さっきの演奏会のようすだった。

「さっきの演奏聞いてたら、遠慮してるのが、なんか、――ばかばかしくなって」

 ひとつ呼吸をするくらいの時間のあと、小さな声でみそらが「ばかばかしくかあ」と言ったのが聞こえた。視線をやると、みそらは苦笑するような、悔しさを隠すような、でも何にも分類できないような表情をしていた。

「なんかわかる。――さっき、ほんとに、嫌だなって思って。それでトイレって言ったんだけど、トイレに行く気にもならなくて外に出ちゃってた。ごめん」

 やっぱりと思いながら首を横にふると、みそらは今度こそ苦笑した。左手を右手で包み込むようにして言葉を探していく。

「三谷と森田もりたくんの練習に付き合ってるのも楽しくて。清川さんともゆっくり喋れたし。でもインターンはインターンで進んでいってて、会社に近い家もそのうち探さないといけないし。この生活、もうすぐ終わりなんだなあって思いながら今日の先輩の演奏聞いてたら、ほんとになんていうか、――先輩って、終わりを告げに来たのかなって思っちゃったんだよね」

「うん」

「それでもせめて学校にいる間は全力でやろうと思ってるし、でもそれももうちょっとしたら終わるのかなと思ったら、なんか……ちょっとだけ逃げたくなった」

「うん」

「自分の実力じゃここまでだって、それこそ四年前の先輩の演奏でわかってたことなんだし。――それは専攻が違ってもわかるくらいに。それに毎日毎日、どこかしらでがっかりするんだよね、自分に。美咲みさきに聞かれたら怒られそうだけど、美咲を見てもやっぱり違うんだと思うし。――内緒ね」

 みそらがちらりと視線を投げて小さく付け加えるので、「うん」と応えた。それにまた小さくうなずいて、みそらは独り言のような言葉を続ける。

「それが日常だもの。いまさら先輩の演奏ごときでへこむなんて、まじで、本気の本気で無意味すぎる。そもそもレベルが違いすぎるんだから。でも……さっきの喜美子きみこさんの話も、ごめん、ほんとは、そうなったらいいのになって、そう思った。お金のことじゃなくて、楽器が近くにあれば三谷が弾くんだろうなと思って。そうしたら、いまのまま終わるよりはさびしくないのかもしれないとか思って……ごめん」

 息を吸って、みそらは両手の指で口元を覆った。その指先がかすかに震えている。泣くかと思ったけれど、でもみそらはそうはしなかった。あくまで冷静な声が言葉を紡いでいく。

「なんか、自分のこと、ファントムみたいだなって思って。終わりたくないってわがままばっかり言って、誰かを自分のエゴに巻き込もうとしてるの、すごく醜い。でもクリスティーヌに『君がどこへ行こうと、自分もついていく』って言ったファントムの気持ちもすごくわかる……」

『The Point of No Return』のシーンのことだろうというのはすぐにわかった。みそらが幼い頃に歌を意識した「オペラ座の怪人」、その中でもっともみそらが印象的だったシーンだということは随分前に聞いていたからだ。でも――そんなのはきっと、自分もおなじはずだった。

 森田の無茶ぶりにああだこうだ言うのだって、ただ、楽しかったからだ。インターンの合間だろうとそうじゃなかろうと、きっと練習には付き合っていた。今しかないからだ。今しかできない。だからパートの入れ替えもやった。自分がやりたかったからだ、全部。――自分たちに残された時間は、もう、こんなにも短い。

 みっちゃん、大事になさいね。自分の手に負えない音楽や感情を抱えたこと、忘れないでいて。いつかそれはあなたを助けるわ。どうしようもない時にあなたを救ってくれると思う。――ふいに脳裏によぎる声があった。なんだっけ、と思い、すぐに思い至った。葉子ようこだ。二年生の学内選抜のあと。みそらが『ミミ』を歌ったあとの――

「全部が全部わがままでいい、とか言ったら先生に怒られそうだけど」

 ふいに口をついて出た言葉に、みそらが瞳をめぐらせる。どういう意味だろうとその視線が言う。三谷は胃のあたりにあった妙な空気みたいなものがふいに軽くなったのに気づいた。

「でも、周りがわがままでいていいって言うんなら、それに乗ってみてもいいかなって、いま思った」

「周り?」

「ばあちゃんのことも、葉子先生のことも。――先生が山岡に講師の件を依頼したのだって、続ける道のひとつだって意識してほしいっていう狙いがあったんだと思うし」

「そうかな」

「そうだよ。それで先生が策士なのは、山岡がやめない限り、俺もやめないのをわかってるとこ」

 みそらがまた驚いたようにまたたいた。やっぱり花のようだと思いながら、その手にそっと自分の手でふれてゆっくりと下におろしていく。そうするとみそらのきれいな顔が全部見えて、長いまつげにふちどられた瞳がかすかに揺れているのがよく見えた。――離したくないのは自分のほうだ。

「楽器をつぎの部屋にも持っていったら、副科ふくか声楽の準備とか、練習しやすい?」

「――もちろん」

木村きむら先生のレッスンにも行きやすい?」

「当然だよ」

 みそらの左手にある指輪は、今日はひとつだった。こないだの誕生日に買ったあたらしいもの。よんの指に――薬指にひとつだけある、銀色のシンプルなものだけ。

 それに軽くふれて、三谷は正面にいるみそらをまっすぐに捉えた。

「じゃあ、少なくともいますぐに諦めないでいい方法があるんだから、ありがたく乗っかろうよ。そして、それから先もどうにかしていけるように、一緒に方法を探してくんない?」

「――一緒に?」

「うん。前も言ったと思うけど、山岡が歌うとき、隣にいるのが俺じゃないと、絶対に嫌だから」

 手の中でみそらの手がふるえる。

「こんなこと言うと、どっちがファントムなんだって話だけど。でも――俺も終わりたくない」

 学生生活は間違いなく終わる。でも、終わるために毎日、練習していたわけじゃない。ひとつずつ、ひとつずつ、あしあとをのこしていく。それは未来の自分のためだった。せめてすべてを諦めないで済むように。なんとかして、自分が弾く意味を見つけられるように。それには自然と、いつの間にかみそらが含まれるようになっていた。

 自分が自由に弾くだけじゃなくて、山岡みそらのそばを離れないでいられる、その方法を、これからは探して、実践していかないといけない。それが「学生の終わりへ向かう道のり」だというのなら、それでもいいと思う。やってみる価値は、それこそこの学校を受けたときと同じくらいか、――それ以上にあるはずなのだから。

 あの舞台にのぼれないただの凡人だって、それくらいはゆるされるんじゃないだろうか。いや、のぼれないからこそ――今日の演奏を聞いたからこそ、せめて自分にやれることをもっとやってみることは、許してもらえないだろうか。

 あんなふうに金の羽を降らせることはできなくても、誰かと――みそらと一緒に、音楽を抱えたまま生きていくことだけでも、せめて許してもらえないだろうか。

「――うん」

 みそらの左手が、自分の手を握り返してくる。

「わたしも終わりたくない。できる限りあがきたい」

 ――きれいだなと思う。こういうことを言うみそらは、何よりも、誰よりもきれいだ。本人にその自覚はたぶんないのだろうけれど、――それこそ、その表情で歌う音楽が、少なくとも自分の生きる背中を押してくれている。

 このままふれて抱き寄せてしまいたいとも思う。ここは部屋じゃないし、そんなことはしないけど。でも、と思って、指をからませる。それに気づいたみそらがおなじように返してきて、ふふっと小さく笑ったようだった。

「四年前のわたしに教えてあげたいな」

「――なにが?」

「大丈夫だよ、って。ひとりじゃないよ、頑張れって。学校にいるのはファントムとか天使とかヨーロッパの公爵とか、化け物ばっかりだけど。でも仲間はぜったいにいるよって」

 そのみそらの表情こそ、「一緒に」と歌いかけるクリスティーヌそのものなんだけどな、なんて思う。さっきみそらは自分のことをファントムだと言ったけれど、そんなのこっちだっておなじだ。いや、それどころじゃなくて、きっともっとあの怪人に近しいものを抱えているのだと、三谷夕季ゆうきは十分すぎるほどに自認している。

 でも、もし、それでも生きていっていいのなら。

 みそらの言う「仲間」は、自分だけじゃなくて、清川や白尾しらお松本まつもと、同門の田辺たなべのこととかも含んでいるのだろうと思う。だったら余計に、その筆頭に自分がいなきゃいけない。そのためにやれることは、まだあるはずだった。

 ちらりと腕時計を見る。撤収までどれほど時間が残されているだろうか。

「――いちおう、行ってみる?」

 言うと、みそらは「楽屋?」と問い返してきた。

「うん。時間は厳しいかもしれないし、もしかしたらもういないかもしれないけど」

「うん。行くだけ行ってみよう」

 みそらは笑って言うと、ぎゅ、と握る手に力をこめた。

「大丈夫、ひとりじゃないから。行くよ」

 そう言って微笑むみそらこそ、天使のようだと思う。音楽の天使Angel of Musicって本当にいるものなんだな、と今度は素直に受け入れながら、二人で残りを飲み、手早く片付けた。

 先ほどよりも夕闇が迫ってきている。暗くなった外に出ると、電飾がついた店内はよりまばゆく見えた。その店名がふと「不完全」を意味することに気づいて、三谷は一瞬ぽかんとしてロゴを見上げた。

「――どうかした?」

「あ、いや、――ごめん。なんでもない」

 数歩先にいるみそらが振り返るのに首をふって、隣に並ぶ。ケヤキの木が並ぶ通りを歩きながら、店名を反芻すると軽く笑いがもれた。――不完全なファントムか。それはそれで悪くないかもしれなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る