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「じゃあ、三谷みたにもコンチェルトのオーディション、受けるんだ」

 清川きよかわの言葉にみそらがうなずくと、清川も納得したようにうなずいた。

「あれだけ譜読みすれば、いっそ受けたほうがいいよね」

「って本人も言ってたよ。そっちのほうが時間が無駄にならずに済むって」

「でしょうね」

 清川が笑うと、手に持っているアイスラテの氷がころころと揺れた。

 ミニコンサートの翌々日、みそらのイターンは休みだったけれど、三谷はずれこんだ夏季休暇前、最後の出勤日だった。みそらは地元が遠方だから、という理由でお役御免になっているので、もともとの企業側のお盆休みと合わせると長い長い夏休みをもらってしまったことになる。清川とのこの時間が終われば部屋に戻って荷造りの続きをしないといけない。といっても結局五泊程度しか帰省できなくなったので、荷物はそんなに多くはならないはずだった。

 夏休みも残り少ないコーヒーショップの店内は、PCと資料を広げた大学生、もしくはリモートワーカーのほか、家族連れや中高生らしき人も見かける。中学生くらいでこの店レベルの値段の飲み物を買うことがなかったみそらなので、そのくらいの年齢らしきグループを見るとつい数秒じっくりと眺めてしまった。もう完全に小姑おばさんだ、と気づいて自分をいましめていると、「でも」と清川が続けた。

りょうも喜ぶと思うよ。涼、三谷のこと、演奏も大好きだからさ」

「そうなんだ。まあそれはそうか、好きじゃないと一緒に練習しないもんね」

「そうそう。自分と違って万人受けするそつのなさと、絶対的な音のきれいさがあるから、ショパンにも向いてるのに、って言ってた」

「万人受けってところ、三谷は嫌がりそうだけど」

「言い方の問題だよね。誰にでも好かれる誠実な、とか言えばいいのに」

「ああ、なるほど……」

 森田が一番なついているのは清川だから、という三谷の言葉に納得するのはこんなときだ。先日のようすから考えても、三谷が森田の演奏をとても好ましいと同時にうらやましく思っているのも伝わったのでなおさらだと思いながら、みそらもシロップが底に溜まらないよう、ストローでラテを軽くまぜた。

「ないものねだりだね」

「ほんとそう。だからわんこだって言いたくなるわけです」

 それこそ先生のような口調で言って、清川はまたひと口ラテを飲んだ。そしてひとつ息をついて独り言のようにつぶやいた。

「にしても、なんで私もなんだろ……」

 おとといのコンサート後、楽屋に行ってみると残っていたのは菊川きくかわ先輩、藤村ふじむら先輩、葉子ようこ、小野先生、そして二人のマネジメント会社の人物だけだった。撤収間際ぎりぎりだったけれど、菊川先輩は「みそらちゃんだ!」と喜んでくれた。憶えてたのか、とびっくりした反面、相変わらずのテンションにみそらはついほっとした。

 時間がないから後日会いましょう、ということになり内心おっかなびっくりだったけれど、さらにびっくりしたのは「清川さんも一緒に来れるか、誘ってみてくれる?」という先輩の言葉だった。

「さっき話してみて、もうちょっと話を聞いてみたくなって」

 と先輩は笑顔で言っていたけれど、――なんとなく、もしかして、と思うものもある。

 帰宅したあとに三谷から菊川先輩と藤村先輩のことについて聞いた話がある。二人はおなじ高校出身で、在学中の二人を知る人なら二人が付き合っていたことは知っているはずの情報だ。その菊川先輩が留学する際に、藤村先輩がとある約束をしたという。

 みそらになら話していいと先輩たちから言われたから、と三谷は前置きしてくれたけど、――みそらは正面に座ってスマホの通知を確認している清川の肌の白い顔を盗み見た。勝手に話すわけにはいかないし、森田とのことがどうなっているかも、まだ聞かないほうがいい気がした。でもなんとなく、先輩が興味を持ったのはそのあたりもあるのではないか、とも思う。

 それにしても、何気ない会話をしている先輩は、昔と変わらず死の天使というイメージとはほど遠い。ほんとうに不思議だけど、「おなじ学校にいた、ピアノ専攻の女子」にしか見えない。でも舞台に立つとそれこそ天使にしか見えないので、――これも音楽が為せるトランスフォームだなと思うし、やっぱり先輩の本質は演奏中の姿なのだろうと思う。

 ラテを飲むと冷たいものが体の奥に流れていくのがわかる。お盆を過ぎて朝晩は過ごしやすい日もほんのすこしだけ増えたとはいえ、昼間はまだまだ暑い。清川もいつの間にか外を眺めていて、そのまま言った。

「よく考えたら夏休みって短いよね。来月になればすぐ履修登録で、翌週からもう学科は始まるでしょ。んでその翌週からはレッスンもで……菊川先輩のほうがよっぽど夏休み満喫してそう」

 清川の言う通りだった。夏休みの残りはもう一週間程度しかない。ほとんどショパンのコンチェルトに食われた形になっている。

「たしかに。今回ドラマの件はあるとはいえ、あっちの夏休みって長いよね。仕事もそうらしいし」

「仕事ねえ……」

 菊川がつぶやく。ふいに思い出したのでみそらは聞いてみることにした。

「配属先の楽器店って、まだわかってないんだっけ」

「うん。でもまあ……懇意にしているところになると思う。そのために顔見せとか地道にやってきたんだし。引越し先をどうしようかとも思うけど、もしタイミングが合わなかったらとりあえずは今のところでもいいかなと思ってる。でも山岡さんだと、ここじゃ遠いでしょ?」

「うん。だから引っ越しは考えてて……あ、その相談も兼ねて、三谷の家、泊まることにしたよ」

「あ、こないだの電話の」

「そう。実際あっちのほうがコンサート会場とも近いし、この暑い中、あんまり移動したくなくて、甘えることにした」

「それがいいよ。あ、暑いで思い出したんだけど、山岡さん、化粧品どこ使ってる? 最近のこの日差しの強さで、やっぱりホワイトニングに手を出そうと思ってて。ていうのも、楽器店の先生たちが今からしっかりやっといたほうがいいって揃って言うもんだから、もー気になっちゃって」

「先生たちから言われてるんだ? 仲いいね。ホワイトニングだとスポット的に使ってるやつなんだけど」

「いいよいいよ。普段づかいとおんなじブランド?」

「そうそう」

 本当に他愛のないというか、どうでもいい雑談だ。でもそれも、いまここにいる証明になるのならそれでよかった。ここに――この大学でいっしょに音楽を学んで、いっしょに譜めくりをやって、たまに化粧品とか就活の話題を話して、おなじ時間をすごしたという、そういう、ひとつひとつの証明。音楽といっしょに生きていたという証明になれば。

 たぶん、と思う。先達がそうやって足跡あしあとを残しているからだ。木村先生や葉子はもとより、小野先生も、飯田いいだ先生も、菊川先輩も江藤えとう先輩も藤村先輩も、みんなが歩いたあとを追うことで、音楽が連綿とつながっていく。――そうすれば海のむこう、西洋のキリスト教音楽までつながっていくと考えれば、自分たちがいるこの場所さえも壮大な旅の一部のような気がした。

 また外を見れば、四年前とおなじように白かった。学校へ続く坂道も、窓から見える景色も、照りつける太陽も、夏なのが嘘みたいに白くて、でもこの色は夏にしかない。その中に幾人もの足跡がひっそりと、――でも、たしかにあるのだ。



[天使の足跡あしあと 了]

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