3-2

(承前)


 手を下ろし、そのまま三谷みたには天井を仰いだ。

「もー、まじで走りすぎなんだけど!」

「だって夕季ゆうき、何してもちゃんとついてくるじゃん。楽しくなっちゃって」

 楽しんでいる、というのは聞いているみそらにもよくよく伝わってきていた。ついふふっと笑いこぼすと、森田が気づいて顔を向けた。

「山岡さんだと通じるかなと思うけど」

「うん、なんとなく」

 みそらがうなずくと、三谷が森田を軽く睨んだ。

「いっしょにすんな。りょうは振り回しすぎ。こんなので受けたら落ちるぞ」

「だから今やってるんだろ。練習でまで外面そとづら整えたやつでやる必要ないし」

 三谷はなにか言おうとして、でもすぐにやめたようだった。森田くんの言い分を否定する気はないってことかな、とみそらは思う。自分だって解釈が固まっていないあいだはいろいろと試しているのだ。

 そう考えると、三谷のコミュニケーション能力にあらためて舌を巻く。どんな練習にも付き合ってくれる――もちろん、筋が通っていれば、だけれど――のは、人好きじゃないと難しいんじゃないか、と思えてきた。たぶんこれは三谷の性格というか、性質なんだろう。と同時に、ちょっとだけ胸の奥がもやもやする。

「な、もう一回やっていい?」

 森田が言うと、三谷は肩の力をすこし抜いたようだった。

「さっきみたいにぶっ飛ばしたやつにするんだったらやらない。そもそもショパンとちょっとずれてるだろ。おまえの色が強すぎる。ちょっとドイツっぽいっていうか」

 三谷が楽譜を見ながら言うと、森田は軽く目を見開いた。

「へえ、そういうかんじなんだ」

「なにが」

「合わせ。いつもどうやってるんだろうと思ってて、わざと飛ばしてみたから」

「だろうと思ったから二度は嫌だっつってんの。やるならもうちょっと建設的な練習にしてくんない?」

 やり取りを聞いていると、「涼ってほんとわんこだよね。気を許した相手にはがぶがぶ噛み付くっていうか」というさっきの清川きよかわの声がよみがえる。がぶがぶ噛み付けるのは、相手に嫌われないことを承知しているからだ。こういうところもソリストの資質だ。だって――三谷は嫌だとは言っていない。条件さえクリアすれば付き合う、と言ったのだから。

 それは森田も理解しているようで、「わかってるよ」と言って笑った。あまりに屈託のない笑顔に、あれ、と思う。もしかして、そうか、と心の中で納得する。もしかして――森田くんって、性格はちょっと違うけど、やり方がもしかしたら江藤えとう先輩っぽいのかな。

 二人の練習、というか息抜きが終わったのはそれからさらに四十分ほどしてからだった。レッスン室を借りている残り時間はほとんどなく、そのまま片付けに移行する。専用のクロスで、譜面台や鍵盤の蓋など、触った部分をきれいに拭き上げながら、ピアノを眠りへといざなっていく。

「先輩と会う日はまだわかんないんだっけ?」

「まだ。さすがに帰国する日が決まってないとかじゃないと思うけど、練習をどこでするかとか調整中なんじゃないかな。狭いところじゃ無理そうだから、もしかしたらスタジオとかになる可能性もあるし」

 清川の質問に森田が流れるように答える。たしかにミニコンサートの日程が決まっているくらいなんだからそうだろうな、とみそらも心の中でうなずく。

「だからごめんだけど、あしたも頼むよ」

「いいよ」

 言われた三谷はこだわりのないようすで答えた。

「今日、ほとんど遊んだだけだし」

「まーね」

 森田も言って、つい苦笑したようだった。

 鍵を閉め、教務課で鍵を返したところで「またあした」と、清川と森田と別れた。何かを話しながら静かな四号棟を出ていく二人を見送りながら、みそらはついちいさく口にしていた。

「あの二人って、よりを戻したってわけじゃないのかな……」

「どうだろ。もともとあんな感じだし」

 みそらが視線をやると、三谷はちょっと笑みを見せた。

「涼が一番なついてるの、清川だから」

「そうなんだ」

「うん。うちの門下四人全員にはだいたい最初からあんな感じだったけど。清川って涼がああいう感じでもぜんぜんめげないっていうか、気にしてないから。性分なのかな」

 学年の一位、というのが、ただの肩書で済むわけではないのはみそらもよく知っている。江藤先輩もそうだったし、おなじ専攻で親友とも呼べる相田あいだ美咲みさきもそうだからだ。それを気にしなくていいのが、森田にとっては同門の四人だということなんだろう。

「あのさ」

 つい軽く考え込んでいると、すこしいつもとは違う音がした。どうしたんだろうと思ってみそらが隣の三谷を見上げると、かすかに夕暮れ色に染まった空がガラス扉の向こうに広がっていた。

「今日、ケーキ買いに行くって言ってたじゃん」

「うん」

 じつは今日はみそらの誕生日でもあった。練習後に、駅ビルに入っているちょっとだけお高めのケーキ屋さんに行こう、という話は、しばらく前からしていた。

「その前に、ちょっと寄り道しない?」

「寄り道?」

「誕生日プレゼント。――ごめん、迷ったんだけど、迷いすぎて、もう選んでもらおうと思って」

 左手を軽く、三谷の右手がとらえる。その熱っぽさにすこしびっくりしながらみそらは言った。

「え、いいのに。コーヒーのプリペイドカードでもいいって言ったじゃない?」

「そんな味気ないのは俺が嫌なんだよ」

 おや、めずらしく「自分が嫌」と言った、と思った。さっきの練習もそうだけれど、三谷は嫌なことは嫌だとはっきり言う。それがめずらしいのは、普段はそういうことを言うきっかけがあまりないからだ。

「山岡がちゃんとしたのくれたのに、ごめん、用意する時間もなかったし」

「試験もインターンも、この練習もあったから当然だよ、気にしてない」

「そうなんだけど」

 歯切れの悪さに、自分の返答が正論すぎたことに気づく。しまった、これにマジレスとか空気読めなさすぎだった、と心底反省する。と同時に、ここまで粘るくらいには考えていてくれたのか、と胸の中がふわふわとうれしさで膨らんでくる。反省しなくてはいけないとは思いつつも顔がにやけるのがわかって、おもわずみそらは右手で自分の頬にふれた。そんなみそらを見て、三谷は少し口調をやわらげて続けた。

「だから、駅ビルの店とかでもいいから、なにか好きなの選んで」

「――わたしが渡したのと同額くらいで?」

「うん」

 みそらの返しに、三谷がやっとちゃんとした笑みを見せた。いまの表情、それだけで十分なんだけどなあ、と思いながら、もうすでに何がいいかを考え始めた現金な自分にも気づく。

 三谷の誕生日は先月で、みそらからは手縫いの革のマルチケースを渡している。老舗カバン店が行っているワークショップで、イヤホンや名刺入れなど、サイズが合えば何に使ってもいい、というふれこみと、値段のお手頃さが気になって、美咲を巻き込んで参加したものだった。三谷はインターン先での名刺入れとして使ってくれているようだ。

「ほんとになんでもいいの?」

 みそらが握られた手を握り返すと、三谷は「うん」とうなずく。それと同時に軽く手を引かれ、玄関ドアのほうへと歩いていく。

 服は誕生日クーポンと合わせて月内のどこかのセールで買うつもりだったし、他には特別ほしいものが見当たらない。楽譜――もあるし、化粧品とかになるとそれこそプリペイドカードっぽい。

「なんかいるものあったっけ。言われるとすぐには出てこないよね」

「こないだ話してた圧力鍋とかはだめだから」

「高いから?」

「じゃなくて、情緒」

「……すみません」

 つい正直に謝ると、三谷は声を上げて笑った。こういう素直な顔がたまらなく好きなんだけどなあ、と心の中で悶絶していると、さきほどのもやもやがふと顔を出してきた。

「ね」

 歩きながら、つないだ手をちょっとだけ引く。いつもの指輪はすっかり二人の熱であたたかくなっているようだった。

「わたしってつまんない?」

 みそらの言葉に三谷は怪訝そうな顔をしてみそらを見た。表情にありありと「何言ってんだ」という言葉が書いてあって、みそらはこれまた失言だった、と、完全に血の気が引くのがわかった。――やばい、いまの発言、完全に「重たい女」か「ヤバい女」か「鬱陶しいかまってちゃん」だ。なんで今日に限ってこんななんだろう、わたし。

 動揺が顔に出たのがわかったのか、三谷は小さく笑って、つないだ手を軽く引いた。柔らかい強さがそこにはあって、瞬間的にぱっと血が巡りだすのがわかる。

「なんでそんな話になったの」

 柔らかい声に、みそらはつい顎を引いた。さっきまでの自分、本当に百面相すぎて恥ずかしすぎる。

「……さっきの練習を聞いてて思ったの。森田くん、けっこう無茶するけど、三谷は楽しそうだったなって」

「楽しそうだった?」

「だったよ? 江藤先輩ともやり方、近いんじゃないかなと思った」

「先輩はあそこまで唯我独尊じゃなかったよ。てか」

 と言って、もう一度、三谷はおかしそうに笑った。風が吹いて、二人の背中を軽く押して追い越していった。夕暮れに差し掛かった時間帯の涼しさが首筋を撫でる。

「山岡がつまんないことなんてないよ。二年のときの『ミミ』とかどうなるの」

「え、――『ミミ』?」

 なぜここでそんな古い話を、とみそらが聞き返すと、「そうだよ」と言って三谷はまた笑った。

「あの解釈、めちゃくちゃおもしろかったんだけど」

「あれは……正攻法でいっても先輩に勝てないと思ったからの、ある意味飛び道具的なやつだったし……」

「だから、そういうところ」

 と言って三谷は笑う。やっぱりうれしそうに。

「これなら伴奏弾きたい、って思わせるの、山岡はすんごくうまいんだけど、あんまり自覚ないよね」

 みそらはぎゅっと唇を吸い込んだ。さっきまでのもやもやや恥ずかしさが、風といっしょに胸からさらわれていく。なんていう値千金の声と表情と、そして体温なんだろう。それがうれしくて悔しくて、視線をつい左下に逃がす。下ろした髪が風に揺れるのをあいている右手で軽くおさえた。

「……ほんとに何買ってもいいんでしょーか」

「いいですよ」

 値段がおなじくらい、という点でひとつ思いついたものがある。でも三谷の顔を見ていると口に出す勇気がもてなくて、駅についてから言おう、とみそらは心に決めた。学校前の坂道に出ると、駅ビルが赤くなりはじめた光を吸い込んで、ほのかに肌を染めたような姿になっているのが遠目に見えた。

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