3-1

「あら、それだったらうちに泊まれば?」

 電話口から聞こえた軽やかな声に、みそらは一瞬ぽかんとした。

「――そちらにですか?」

「そう。コンサート会場ってうちのほうが近いじゃない? ご実家からそのまま行くんだったら、荷物もあるでしょう?」

 たしかに、とみそらは思った。三谷みたに森田もりたの練習があるので夏休みの帰省の時期をずらしたところ、以前から予定していた演奏会の当日朝に実家を出て、そのまま演奏会に行くというスケジュールになった。会場が三谷の実家のほうに近いのは把握していて、帰りに挨拶に行けるかとはもともと考えていたけれど――さすがに泊まるということまでは考えていなかった。

 みそらが返答に躊躇したのがわかったのか、「いま決めなくていいから」と負担にならない言い方で喜美子きみこさんがとりなす。相変わらず品のいい言い方で、勉強になるなと思いながらみそらは苦笑した。

「はい、検討します」

「ええ」

 にこりと微笑む喜美子さんの笑顔が見えるような声だった。きれいだよなあ、と発声の仕方につい惚れ惚れしながらいくつかの雑談をして通話を切った。

 三谷の実家には、発表会の着付けのお礼という名目で一度、その後また一度といまのところ二回うかがっている。三谷のご両親と祖母の喜美子さん、いまはその三人住まいらしい。自分や自分の家族が杏奈あんな――弟の彼女を家に招くのに抵抗がなくなったのはかなり前なので、呼ぶ側の気持ちもそれなりにわかるつもりだ。だからあちらが気を許してくれているというのもいままでのやり取りで十分伝わっている。ありがたいやら恐縮するやらだ。

「仲いいんだね」

 隣から声がする。ロビーにある背もたれのないベンチに腰掛けた清川きよかわ奈央なおは、今日もすっきりとした服装と髪型だった。彼女のうしろにある大きな窓からは、学校の前を走る坂道が見える。

「なんかね……ありがたいよね」

 みそらもうなずいて、彼女の隣にもう一度腰を下ろす。スマホには通話からうまれた熱がまだ残っていた。

「詩にも詳しいみたいで、たまにそういったアドバイスももらえるし」

「へえ、先生が増えたみたいな感じ?」

「そうそう、まさにそう」

 みそらも木村先生からダブルレッスンの話を持ちかけられたことはあったけれど、それが立ち消えたのはもしかしたら喜美子さんの存在ゆえかもしれない、とたまに思う。もちろん単発の公開レッスンなどには参加しているが、一方で「日本語の師匠」のような人がいることを、木村先生も喜んでくれているようだった。

「なるほどねえ、そういう感じだから三谷がああいう感じに育っちゃうのか」

 清川の言葉はかなり抽象的な言い方だったけれど、みそらには十分伝わったのでつい笑いがもれてしまう。

「だと思う。あの教養はおもにおばあさまのおかげかなって」

「わかるなー。あの気負わずにある程度のことが理解できてそれを実行するっていう感覚、小さい頃からの習い性なのかなと思うし」

「うん。おうちも居心地良くてさ、ついさっきも『行きます』って言いそうになった」

「いいじゃん」

 と清川が笑ったところで、足音が聞こえた。今日も静かな校内なので、この距離で考えるなら三谷か森田のどちらか――いや、歩き方で考えたら、

「あ、ここにいたんだ」

 予想通り森田だった。荷物を持ったようすはなく、練習の合間に抜け出してきたようだった。

「なに、休憩?」

 清川の言葉に軽く「うん」とうなずいた森田は、「ここいい?」と二人が座るL字型のベンチのもう一方の辺を指差した。みそらと清川が揃ってうなずくと、「ありがとう」と言って腰を下ろす。清川がすこしだけ身を乗り出した。

「三谷は?」

「セコンド練習中」

「え、なんでセコンド?」

「いや、思いつきでやってみたくなって、逆のパート。最初しぶられたんだけど、じゃんけんで先に俺が三連勝したから、じゃあ今から譜読みするって」

りょうさあ……」

 清川が呆れ返った声のお手本のような音で言う。

「三谷だからっていろいろ無茶言うよね……」

「練習ももう三回目だし、そろそろ味変えの時期かなと思って。それに」

 と森田がみそらに視線を送る。

「俺もちょっと気になってたし。夕季ゆうきの伴奏が実際どんなか」

 さすがに初見は困ると言われたので切りがよく十五時まで四十分の練習時間になった、と森田は続けた。

「涼ってほんとわんこだよね。気を許した相手にはがぶがぶ噛み付くっていうか」

「もうちょっと別のたとえなかった?」

 かすかに森田は眉をひそめたけれど、清川のたとえが的を得ていてみそらはつい吹き出した。森田が興味深そうにみそらを見る。

「山岡さんにもそう見える?」

「ごめん、見える。でも伴奏が気になる気持ちもわかる」

「あ、やっぱり?」

「うん。三谷だったらけっこう何してもいいもんなって思っちゃう」

「ほら、本家が言ってんだし」

 と森田が清川に向かって言うと、清川は呆れた色を隠さずに背をガラス窓にまであずけた。

「いいけど、二人らしくて」

 清川の返答でなるほどと納得する。やっぱりこういうコミュニケーションの仕方なのだ。音楽を前提にした遊びが、この二人の仲の良さの根底にある。森田が続けた。

「山岡さんっていつもどんな感じで合わせてんの? いきなり合わせるとか?」

「ああ……わたしの場合は先に楽譜渡しといて、ある程度伴奏の予習はしといてもらってる。その間にわたしが解釈をある程度固めてから合わせるかなあ。木村先生、一、二週間前くらいからつぎの曲の予告をするから、そういうやり方でもいけるのかも。初見でも三谷ならいけるとは思うけど、時間がないとき以外はあんまりそれはやらないな」

「歌のほう、解釈にけっこう時間かける?」

「うーん、ものによるかも。でもまあひと通りはネットで調べたりするよ」

「丁寧だよね、仕事が」

「そうしないと木村先生が納得しないし、実際、背景がわからないと解像度の高い歌は歌えないと思ってる。それでもやっぱり、一回目の合わせはおおまかになるよ。それに細かいところ決めても、やってるうちにどうしても修正点は出てくるから」

「あーなるほど」

 と森田はうなずいた。

「やり方が似てるんだ、夕季と。それに夕季の伴奏のくせがうまくハマってるっていうか」

「ああ、たしかに三谷ってアウトラインつかんでから細かく見ていくよね。新しい曲の譜読みとかそれっぽいなと思ってた」

「奈央は逆だもんな」

「そう。一音ずつ見ていかないと気がすまないっていうか。本をななめ読みできないタイプです」

「あ、わたしななめ読みタイプ」

 そんな他愛もない話題を止めどなく話していると、森田のスマホが振動した。三谷から練習が終わったという連絡が来たようだ。どうやら喋っているうちにあっという間に四十分ほどが過ぎてしまったらしい。

 三人揃って葉子ようこのレッスン室に戻ると、先ほどまでとは逆のピアノの前に三谷は座っていた。オクターブでの半音階の練習をしているようだけれど、もしかして――とみそらは思う。

「さっき葉子先生から連絡が来たんだけど」

「葉子先生?」

 森田が答えると、三谷は顔を上げずに「うん」といった。どうやら左手にはスマホを持っているようで、みそらはやっぱり、と心の中で思った。相変わらず器用なことするなあ。おそらく右手は練習したまま、左手だけで返信やチャットの確認などをしているのだ。

 みそらが家でそれをはじめて見たときにびっくりしていると、「本を読みながらハノンの練習したりするの、ピアニストでもよくあるっぽいよ。時間の無駄にならないし」と三谷からは平然と返された。まあたしかに、今度行く予定の女性ピアニストがSNSでスクワットをしながら練習している動画も見たけど。いや、それにしてもスマホって。読んだりするだけじゃないのに、と思うのだけれど、それができるのだからこの人やっぱりちょっとおかしい。褒め言葉だけど。

「ほんとだ。ミニコンサート?」

「あ、やっぱ来てた?」

 ということはロビーからこっちに移動しているあいだに送られていたということだろうか。三谷が譜面台の向こうから顔を出して、「菊川きくかわ先輩のお披露目会的なやつかも」と言った。さすがに右手の練習の音も止まる。

「ああ――じゃあ、作中で使う曲を演奏するとか?」

「じゃないかな。山岡も清川も、練習付き合ったお礼で無料で行けるようになってるらしいから、希望枚数あったら言ってって」

「日程は?」

「今月の十八日」

「急だね。先輩、こっちにはいつ帰ってくるのかな」

「涼は聞いてる?」

 と清川が言うと、森田は首を横に振った。

「そっちじゃなくて、ミニコンサートに出てほしいってやつなら書いてある」

「え、先輩と半々で出るってこと?」

「まさか。俺はコンチェルトだけ」

 森田はスマホを眺めながら移動し、プリモのほうのピアノ椅子に座った。

「たまに聞くマネジメント会社の名前もあるし、菊川先輩の顔見せだろ。こないだ向こうのコンクールでなんか賞とったらしいし、留学から戻ってきたら凱旋がいせんしやすいように今のうちから顔売っとくとかじゃないかな」

 森田の予想は的を得ているように思えた。三人のあいだに納得する空気が流れると、森田はスマホを葉子がいつも使っているテーブルに置いたようだった。

「じゃ、やっても大丈夫?」

「前奏削るよ。十六小節前から」

 すげない三谷の返事に、森田が軽くびっくりした色を浮かべた。

「え、全部やんないの」

「合わせがしたいんだろ。やらない」

 この曲の前奏は、演奏の仕方にもよるけれど、おおよそ四分ほどだ。三谷としてはそこまで森田のわがままに付き合ってはいられないということだろう。とはいえぜったい練習してると思うんだよな、とみそらはちらりと三谷を見た。そういうところ手を抜かないし、あとで家で言ってみよ。

 みそらと清川の譜めくりの担当は変わらなかった。慣れているほうがいいというのは全員の共通認識だった。

 パラパラとページをめくる音がして、三谷と森田が視線をちらと交わす。すぐに三谷は正面を向いて手を載せた。――今まで弾いていたかのように、指定通りの場所からの前奏がはじまる。こういうところはみそらがやるときともおなじなので、江藤えとう先輩や林先輩の頃から学んだことだろうか、と考えたりもする。

 数分をかけて紡がれる前奏は、一度その文脈を閉じる。ここまでは物語で言えば序章、吟遊詩人の前口上のようなものだ。オーケストラが消えゆくその先に、――決然としたホ短調e mollの主和音が鳴り響いた。その音の圧に、みそらの細胞がびりびりと震える。

 圧倒的なピアノソロ。そこにはなんというか、強烈な「主役感」があった。たとえば追い詰められた仲間のところにヒーローがやってくるお約束展開が様式美として愛されるように、圧倒的な存在感を持って鳴り響くプリモの――いや、ソリストの音。これが森田涼。ソロとはまた違う、の音の圧に体中が悲鳴を上げている。

 譜めくりだけはしっかりと体に染み付いた動作を行いながら、同時に頭の中では自然と、すばやく分析が行われていく。

 みそらが自分で弾いて勉強したショパンは比較的小規模なワルツくらいだ。それでも、自分の練習や演奏会などで曲を聞けば、ショパンがどれほど強烈な感情を曲にぶつけていたのかがわかる。それこそ、その出自がそうさせるのだとも。

 そして森田涼は、その暴れ馬のような曲のエネルギーをうまく御しているようだった。うまく、というのは、こぢんまりとしているということではない。まったく逆だ。たとえるなら、ヨーロッパの公爵などが鼻息荒い若駒わかごまの手綱をその気位の高さで操っているというか。そういう品格と傲慢さのようなものもある。

 文脈がしっかりしてるんだな、とみそらは思った。森田の演奏には説得力がある。似たフレーズがあれば、一回目はこう、二回目はあえてこうするとか、専攻ではない人間が聞いていても、何がしたいのか――何を意図して弾いているのかがすぐにわかるのだ。演奏の解像度が高いというのはこういうことか、と思う。もちろん三谷がそうじゃなかったということではなくて、あえて言うなら永本ながもとさん――二年生の小野門下の彼女のように、楽器の王者とも言われるピアノフォルテに対する矜持みたいなものが、その解像度を支えているようにも思えた。

 勉強になる、と譜めくりをしながら素直にみそらは思う。伴奏者――さっきの公爵でいうなら、侍従とかそのあたりだろうか、セコンドの性質としてもその位置に必然的になってしまう音を、有無を言わさず引っ張っていく推進力のようなものがある。これはちょっと――ううむ。

 そんなことを考えていると、第一楽章はあっという間だった。またもホ短調の決然とした主和音で曲が終わり、二人が音を切るタイミングをもばっちり同じだった。


(3-2に続く)

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