2-2

(承前)


「んー、ちょっと考えごと」

「そっか」

 と笑ってみそらはカーテンを閉めはじめた。日が落ちるのももうすぐだ。遮光カーテンを丁寧に動かすみそらを見ながら、それこそキャラクターや物語の解釈をやるのは声楽のお家芸だったということを思い出す。こないだの伴奏法でも「キャラクターについて考えていればそれなりの動きは自然とできる」というようなことを言っていたし。それに、そういうのこそ仕事でも生きてくるんじゃないかと、三谷みたにはこっそり思っている。広報であればなおのことだ。

「もったいないっていうのはわたしの勝手な言い分だけど」

 カーテンを整えたところで聞こえた脈絡のないみそらの言葉に、三谷はかすかに首をかしげた。それに気づいたのか、ピアノの横あたりまで来たみそらはほんのわずか、苦笑のような色をそのちいさな顔に浮かべる。

「三谷が主旋律側をやってるのを聞くのってなかなかないから、練習終わるの、もったいない、ってつい」

 三谷もつられて苦笑する。やっぱりそう思ってたのか。

「練習の人数合わせ、っていうより、もうほとんど俺の練習みたいになってるところはあるかも」

 軽く驚いたのか、みそらが数回またたいた。そうするとまたまつげが花のように揺れる。

「セコンドのほうがちょっと簡単なんだよ。りょうだったら譜読みにも時間かかんないし。付き合えば付き合うぶん、プリモ側の練習になってるところは正直ある」

「……この勢いでエントリーしたりしないの」

 みそらの控えめな言い方は、みそら自身も同時期に行われるソロでエントリーするからだろう。伴奏の件は気にしないでと何度も言ってきたけれど、それでもそこを無下にできないのがみそらだ。それに、エントリーに関しては何度か森田にも言われたことだった。三谷はあらためてすこし考える。

「――それこそ記念受験みたいになりそうな気はするけど」

「森田くんがいるから?」

 みそらの言葉にうなずく。例年、おおよそ四年から二人、三年から一人という結果になっているのだ。だとすると森田が受けるのなら、一人分の席はもう埋まっていると言ってもいい。不戦敗を選ぶのはよくないとはわかっているけれど、――森田涼はそういう相手ではない。それは同じ門下だからこそよくわかっているつもりだった。

 そういうことも、ここ数日のようすを見てもう通じているのだろう、みそらは深追いせずに軽くうなずき、そしてちいさく「あっ」と声を上げた。

「そういえばしらちゃんからチャット来てたんだけど、菊川きくかわ先輩がやるドラマ、原作わかったって」

「まじ。白尾しらお、なんて?」

「漫画で、絵はすごくきれいらしいよ。んで、『音楽も音大のことなんもわかってない、イメージだけで描いて、天才美麗キャラの対立人気だけでもってる駄作』、だそうです」

 白尾の容赦のない表現におもわず吹き出す。白尾は人当たりはかなりいいタイプなのだけれど、こと「作品」や「物語」となると目の色が変わるタイプだった。しかも「この作品はたぶん売れると思う」などと言っている作品はしばらくして本当にヒットする。それは学生の演奏なども同様で、それらを含めたエンタメに対するカンが異常に優れているのが、白尾あきらの特徴のひとつだった。

「白尾が言うなら間違いないよな」

「そうなんだよね、しらちゃんが言うの、はずれないし。ドラマ自体は深夜帯だし、中身で勝負っていうより、絵柄の再現っていうか……新人俳優さんたちの経験の場にする意図があるんじゃないかって」

「ああ、なるほど」

 三谷が納得すると、みそらは思い出したのか、ちょっと笑いながら言った。

「しらちゃんの辛口が火を吹いてたもん。とくに先生たちがだめだって」

「先生?」

「そー。『生徒にまともに指導しない先生とかいるわけないじゃん、って思って、二巻で読むのをやめました』、という補足つき」

「あー……」

 ついお腹の底から気の抜けた声が出た。

「なんでああいうのって、先生と生徒とか、さっき言ってた天才とか、そういうのを使った対立構造とかつくりたがるんだろうな。とくに先生と生徒とかありえないんだけど」

「フィクションとしておもしろいのかな……ピンとこないけど。実際に生徒やってると、対立してて仕事になるの? って思うし。対立してなくても、異様に生徒に厳しくてレッスンがはかどらないとか。明治時代か、ってツッコミたくなるよね」

 ピアノ、というよりも西洋音楽が日本に輸入されたのは、当然ながら鎖国が終わり、開国したのちのことだ。残っている記録やとある有名ピアニストのエッセイ、はたまた実際に先生たちの話などによれば、それこそ当時からしばらく前までは、体罰に近い指導や暴言などもある厳しいレッスンが繰り広げられていたという。

「小野先生でも、手を叩かれるとかペダル踏んでる足をその上から踏まれるとかあったらしいよ。あと、スカートを穿いてるのに両足を広げるのははしたないから、足をクロスさせて踏ん張ってたとか」

「それ、もうなんか、江戸時代の女性の自決の感覚じゃん……てかそもそも弾きにくそう……ほんと体育会系だよね、日本の音楽」

「体育会系なのはピアノがとくにそうかもだけど」

 みそらは軽くピアノの横っ腹のところに体を預けて立っている。腕をピアノの大きな蓋の上に軽く載せている姿は歌っている姿だけではなく、二人の担当講師でもある羽田はねだ葉子ようこのレッスン時のようすを連想させた。

「でも三谷からそういう感じはしないよね。ピアノと一緒にいてもきつくなさそうっていうか。追い詰められてないかんじ?」

 追い詰められていない、というのはなんとなく通じたし、自分がそうではないことも――受験期や伴奏で必死になっていた頃は除くけれど――、なんとなく自覚がある。

「子どもの頃はほとんど遊びだと思ってたからじゃないかな。グループレッスンとかも生徒みんなでアンサンブルして遊ぶ、って感じだったし、即興とかもきらいじゃないし――いい意味でてきとうにつくればいいから。手癖じゃないけど、それなりに型はあるけど、それ以上に二度と再現できないものを自由につくっていいっていうのはシンプルにおもしろいんだよね」

「それ、清川きよかわさんがうらやましがってたよ。三谷の慣れと即興のセンス、ちょっとわけてほしいって」

 清川奈央なおの就職先は、三谷も幼少期から小学生を終わるまで通っていた、大手の音楽教室だ。当然ながらその講師にはそれらの柔軟な対応力が求められていて、慣れていない人はかなり苦労すると聞いている。

「だからかな。三谷とこの楽器って、友だちっていうか、相棒みたいな感じに見えるときもあるよ」

 相棒。みそらの言葉を心の中で繰り返して、正面を見る。白黒の鍵盤、磨き上げられた黒い蓋の中に金色に輝くメーカーのロゴ。曲線がうつくしい譜面台。大学受験に合わせて買ってもらったのでまだ若い楽器だけれど、――たしかに、相棒というか、戦友とか、そういう言葉はしっくりくるかもしれない。

「わたしにとっては先輩だなと思うし」

 そっとささやくような声がして顔をあげると、みそらが自分の手を置いた楽器を見つめていた。長いまつげがゆるやかに下を向いて、視線の先には楽器がある。思慕とか憧れとか敬意とか、うまくいえないけれどそういうたぐいの思いが、みそらの表情からはにじみ出ているようだった。そのようすに目を離せないでいると、ぱっとみそらが顔を上げた。

「そうだ、もう夕飯の準備はじめても大丈夫?」

「あ、――うん、お願い」

 ちらりと壁の時計を確認してうなずくと、みそらは笑顔のままピアノの横を通り過ぎ、「そうめんは茹でる前に声かけるね」と付け加えてドアから出ていった。

 相棒か。もう一度心の中で反芻する。この楽器を買う前に家にあったのはアップライトピアノだった。グランドピアノとアップライトピアノではピアノとしての構造が大きく違うため、受験曲の練習にも限度がある、という当時の先生の指摘と、かなり楽器が古くなっていたことが重なったのが買い替えの決め手になった。それも、率先して動いてくれたのは祖母――みそらとも仲がいい、あの「喜美子きみこさん」だ。

 最近その祖母からとある提案をされたことは、まだみそらには伝えていない。自分がどうしようか決めあぐねている状態でみそらに話すのは気が引けたからだ。みそらのようすを見ても祖母からそのことを聞いているようでもないし、そもそも祖母は自分の意見をすっ飛ばしてそういうことをするようなタイプでもなかった。

 甘えていいんだろうか、そこで。いや、これってそもそも甘えなんだろうか。数日考えてみても判断がつかなくて、返事はまだ保留になっている。そんなときにきた案件がこれだ。悩ましい、と思いつつ、いまはもうこの練習の楽しさに集中したい、――というのが、本音中の本音だった。

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