1-2

(承前)



 森田はずっと右手に持っていたスマホを一瞥して、それから口を開いた。

「さっき、講義中に連絡があったんだよ、先生から」

葉子ようこちゃん?」

 みそらが予想外の名前につい声を出してしまうと、「うん」と森田はみそらにうなずいた。

「来週、弾いてほしい案件が出てきたから練習しといてって」

「――で、その案件って?」

 清川がさらに踏み込もうとすると、「それはまだ言えない」と森田は返した。

「本決まりじゃないから伏せといて、っていうのが、葉子先生からのお達し」

「――めんどくさい案件投げてくるよね、葉子先生」

 ちょっと呆れたような清川の声がする。彼女は息を大きく吸ってそれから吐くと、「つまり」と続けた。

「葉子先生から練習しておくように、って言われて、その曲がショパンの一番で、りょうがセコンドなところまでが指定されてて、それに付き合えそうなのがすでにプリモを練習してる三谷みたにで、なんで練習するかは、まだ伏せておく必要があると」

「そういうことです」

 指折りしながらの清川のまとめに森田が満足そうにうなずく。そういえばこの二人って一時期付き合ってたんだっけ。そんな噂を思い出すと、今のやり取りにはその噂をあと押しするような緩急があった。

「だからぼんやりした依頼で申し訳ないんだけど、葉子先生の案件だから――、ごめん」

 最後のひとことはあまりにも自然で、普段からこういうやり取りをしてるんだろうなあ、と、みそらはまた思った。わだかまりが残らないのだ。

 葉子、つまり、みそらも含めた担当講師からの依頼という最強のカードだ。清川と三谷からは仕方ない、とか、先生が言うなら、みたいな空気が流れてくる。三谷はひとつ息を吐くと言った。

「わかった、やるよ。――いい?」

 最後の確認は自分にだ。みそらはうなずいた。ちょうどインターン先の月末の締め日と集中講義が重なったので、みそらも三谷も来週頭くらいまでは時間も取れる。

「いいよ。おもしろそうだし」

「山本さん、ありがと。てか、ごめん、巻き込んで」

 森田の率直な言葉に、みそらは首を横に振って微笑んだ。

「ぜんぜん。今なら時間もあるし」

 それに聞いてみたいし――という言葉は飲み込んだ。いつもは自分の伴奏をしてくれるのが三谷だ。プリモならばその立場は逆転する。しかもその伴奏部分を支えるのが森田涼――特待生などを抜きにしたピアノ専攻四年生の主席の演奏だというのなら、素直に好奇心が芽生えてしまうというものだった。



*****



 そうやって急遽決まった合わせの当日が今日だった。二台のピアノがある練習室はないので、葉子のレッスン室を使わせてもらう。先に葉子から学校には話が通してあったようで、集合して教務課に行き、森田がレッスン室の件を伝えると、すんなりと鍵が渡され、――いまに至る。

「――涼」

 先に口を開いたのは清川だった。夏場だからか、ジーンズに涼しそうなトップス、長い黒髪を先日とおなじようにひとつにくくっているだけのシンプルな姿は、いい意味で大人びて見えた。その声は、諭すような言い方でもなんでもない自然な声だったのに、森田はその声で何か観念したようだった。一度目を閉じて、目を開けると森田は言った。

菊川きくかわ先輩が帰ってくるんだって」

 瞬間、総休止General pauseのような、時間が止まったような間が生まれた。時間にしてほんの一小節ぶん、あるか、ないか。

「――え、菊川先輩、帰ってくるって、帰国? 一時帰国?」

 最初に反応したのは三谷だった。めずらしく二回繰り返すほどには驚いているけれど、それはみそらも清川もおなじだった。

 菊川先輩という音が脳内で文字になると、一瞬にして季節が巻き戻り、四年前――恐ろしいことにもう四年も経ってしまった――のこの時期、夏の暑い盛りに見た冬の景色が思い出される。あの――ラフマニノフの、おそろしいまでに冷たい空気をまとった『鐘』。

 この大学を受験する、その決め手になった大きな要因のひとつが、菊川先輩――菊川一夏いちかだ。みそらたちのひとつ上の学年にいて、この大学を卒業することなく去り、ドイツの音大へ留学した天才、その人が――

「一時帰国。留学してからまだ一回も帰ってきてないっていうのと、――仕事だって」

「仕事?」

 森田の説明に清川が言うと、森田はうなずいた。

「なんか、秋から放送される深夜ドラマ――だったかな。とにかくそういうのの手タレをやるんだと」

 手タレ、ということは、演奏シーンの代理ということだ。俳優や女優の代わりに、演奏シーンの演奏音源や手元などの撮影を担当する。

「あ、――じゃあもしかして、藤村ふじむら先輩も噛んでる?」

「んじゃないの? ちゃんと聞いてないけど」

 森田の返事に、今度こそ三谷は腹落ちしたようすで息を吐いた。この中でもっとも藤村先輩と接点があるのが三谷なのだ。なにしろ藤村先輩といえば、三谷の前に江藤えとう先輩の伴奏を担当していたのだから。

 藤村先輩は、みそらも接点がある。それこそ江藤先輩の演奏会などで見かけてあいさつをする程度だけれど、――なんとなく三谷に雰囲気が似ている、と思うこともある。ピアノに対するフラットさとでも言おうか、そういう肩の力が入らない点は似通っていると思うし、だから三谷が藤村先輩の後任になったのでは、と思うこともある。

 その藤村先輩といえば、こちらも菊川先輩と同様にこの大学を二年生が終わった段階でやめ、そして他の大学で作曲を学んでいる。現在は師事している先生のつながりで、まれに劇伴の現場にも関わっていると聞く。――今回のことは、それではないか、と、三谷はそう考えたのだ。

「深夜ドラマっていっても、菊川先輩が関わるんだったら当然、演奏シーンがあるってことよね」

 清川が言うと、森田はやっと言えた安堵からか、やや肩の力を抜いたようだった。

「俺は読んだことないけど、なんか……小説か漫画が原作のやつだって」

 小説か漫画かもわからずタイトルも憶えてないということは相当興味ないんだろうな、とみそらは心の中でつぶやいた。そんなみそらだってそれらしい作品は思い当たらない。読書は好きだけれど最近は時間がない、もしくは勧められたビジネス書に時間を割くようになってしまったし、それに――

「微妙だねえ……」

 清川の小さなぼやきのような言葉に、ついつられてうなずいてしまう。どのジャンルもそうだろうけれど、自分たちの学んでいるフィールドを舞台にした作品では、どうしても誇張されたフィクションの部分などに拒否反応が出ることがある。しかも深夜ドラマとなると、そんなにメジャーな作品ではない可能性もある。ここにいる四人はおなじような認識らしく、誰もぴんときていないようすだった。

「ドラマ化情報とか、あきらとかに聞いたらわかるかな」

「ああ……雑食だもんね、しらちゃん」

 三人の同門の生徒であり、みそらも友人である白尾しらおあきらは、演劇からドラマ、漫画、小説など趣味も幅広い。ほかにも、メジャーな大会前などになるとそのスポーツなどにも詳しくなるほどだ。

「あきらと松本には、菊川先輩のこと言ってもいいの?」

 清川が言うと、森田は「うん」と軽くうなずいた。

「そこは葉子先生にも確認ずみ」

 そう、と清川がすこしほっとした表情を見せると、「ちょっと待って」と三谷が言った。三人の視線が集まる。

「どうしたの」

「一個飛ばしてる」

「何が?」

 と三谷に言ったのは清川だったけれど、みそらははっとした。たしかに――一個飛んでる。

「森田くんが練習する理由」

 みそらがつい口に出してしまうと、今度ははっとして清川が森田を見る。森田は苦笑した。

「気づいた?」

「気づかないように誘導してたのに気づいた、が正しい」

夕季ゆうきのそういうとこ、俺は嫌いじゃない」

 相手が笑って言うので三谷は瞬間的に口をつぐんだが、清川がピアノ越しにそっと「いまの、褒め言葉だから」とみそらに言う。だろうなと思っていたみそらは小さく笑って返した。三谷はもう一度正面から友人に向き合い、そして言った。

「で、何隠してんの。菊川先輩の帰国と、練習、どんな関係があるわけ」

 真っ向から切り込んだ、と思った。と同時に、そこまで言われるとかすかに予想はつく。みそらはそっと体の向きを変えて森田を見た。

 三谷とはまた違う音をもつ人。今の演奏を聞いてふと降りてきたイメージは、名前に引っ張られたわけではないけれど、風薫る森だった。ドイツの古城、石畳の街道に馬車が揺れる、深い緑の匂いのする風景――そんな奥深さが森田涼の演奏にはあったと思う。

 そんな森田が、この曲のセコンド――伴奏側をやらないといけない理由。

「まだ本決まりじゃないらしいけど、番組内で菊川先輩がプリモ、俺がセコンドをやる場面がある、らしい」

 やっぱり、という空気が三人の間に広がる。みそらは思わず身を乗り出した。

「菊川先輩から声がかかったの?」

「菊川先輩が藤村先輩に相談して、それが小野おの先生に行って、それなら進路が似ている俺に経験積ませたらどうか、って小野先生が言った、――って、葉子先生が」

 そこまで言って、森田はすこし天井を仰ぐようにして息を吐いた。

「だからさ、俺にしても青天の霹靂なわけ。――ごめん、いろいろ遠回りになって」

「……いや、いいけど」

 殊勝になられると弱いのか、三谷はそうとだけ言って続けた。

「先輩と会うのがいつなのかは決まってんの?」

「はっきりとは決まってないけど、たぶん来週くらいかな。俺が参加するかどうかはそこによるらしい」

 なるほど、と声には出さずに三谷はうなずいたようだった。それから一度自分の楽譜を見た。みそらがそれを見ていると、三谷は今度はみそらを見た。

「どう?」

「三谷の体力とかに問題なければ」

 みそらが率直な感想を即答すると、三谷は「うん、大丈夫」と笑った。だろうな、と思う。この二日、練習を見ていてもとても楽しそうだったし、いまもそれ以上に楽しそうだ。期間の短さや趣旨の謎めいた部分に文句を言いたくなることはあったとしても、根底にあるのは楽しさなのだ。やっぱり合奏が好きなんだな、とつられてみそらもうれしくなってしまう。

「それにしても、よく止まらずに最後まで行けたよね。初回でしょ?」

 感心したように清川が言うのを聞いて、そこでやっとみそらも気づいた。たしかにそうだ。二日前に話が通って、それで今日、ぶっつけの一回目。それで一回も止まらずに第一楽章の合わせが終わるだなんて。

 よっぽど気が合うのか、という言葉は飲み込んだ。気が合う程度で最後まで走り抜けられるものではないことくらい、さすがに専攻がちがうみそらでもわかる。

「葉子先生の教え方じゃん?」

 森田が言うと、三谷も「それはあるかも」と添えた。

「先生だったらどこでどうタメるかとか、だいたいわかるもんな」

 みそらもよくわかる。おなじ門下の生徒の演奏なら「そうなるよね」と、聞いていればわかるというやつだ。

 清川がちらりと自分の左手首にある腕時計を見た。

「二時間までは借りてていいんだっけ」

「うん」

 森田の答えにうなずいて、清川はみそらを見た。

「飲み物でも買いに行かない? これから部分練習とかするだろうし」

「そうだね」

 男子二人は「いってらっしゃい」という雰囲気だ。これからしばらくは二人がそれぞれに譜めくりできるだろうし、三十分ほどなら離席していても問題なさそうだった。清川と二人で財布やスマホなどの最小限の荷物を取って部屋から出る。二重の扉を閉めると、学校の静けさが妙にきわだった。

「――聞かなくてよかったの?」

「なにが?」

 廊下を歩き出しながら言われた言葉にみそらが聞き返すと、清川は「飲み物」と言った。

「ああ。いつものも、それがなかったときの二番手三番手とかもわかってるから」

「だよね、そりゃそうか」

「ほんとなら駅前の店のがいいんだけどね」

 みそらがついでのように言うと、清川は「行く?」と言った。みそらは首を横に振る。

「だいじょうぶ。日傘置いてきちゃったしね」

「たしかに」

 と清川は苦笑して、ちょうどロビーから見える外を見やった。――白い景色だった。夏特有の、陽の光が強くて、まるで雪を眺めているような気分にさえなる、夏の白い景色。

「菊川先輩かあ……」

 思わず言葉が漏れる。自分と、すくなくとも三谷をここに導くきっかけにもなった人。その人がまたおなじような夏に、日本に戻ってくるなんて。

「山岡さん、仲よかったよね、先輩と」

「え、――わたしが?」

「ちがった?」

「まさか。練習室で行きあったことは何度もあるけど、仲がいいって言うほどじゃないよ」

 清川は「そうだっけ」と軽く首をかしげた。

「仲いいのかと思ってたよ」

「うーん、あれは……名前をおもしろがられてたというか」

「名前?」

「Fがないよね、って言われてた」

「ファのこと?」

「そう。最初に会ったときがね」

 歩きながら話していると、そのときの光景があざやかによみがえってくる。これももう三年も前の記憶なのに。――ドアを開けて出てくる、長い黒髪の、線が細くて儚げな、それでいてはっとするような雰囲気をもった少女。

「ショパンのスケルツォの二番やってたらしいんだけど、ちょうどさっき一番上のファの弦を切っちゃった、ごめん、って言われたのが最初に話した内容だったかな。いまから受付に行って説明してくるからって言われて。その日はそれで終わったんだけど、べつのときに会って、名前を伝えたら――」

「あ、そうか、ファがないんだ」

「そういうこと」

 清川の察しのよさに、みそらはついくすりと笑い漏らした。F、つまりファの音の弦を切ってしまってファの音が鳴らなくなった。そのあとに来たのが「みそら」――ファがない人。

「先輩、おもしろいこと言うね」

「ね。名前で言われたてきたのは基本、歌手さんのほうだったから、そっちか! って思わず心の中で力いっぱい突っ込んだ」

 階段を地道に降りていくと一階についた。自販機でまずは自分たちの分だけを買って、ロビーのベンチに腰掛ける。すぐに戻る気がないのは清川もおなじだったようで、彼女がペットボトルの口を開けると、炭酸飲料だとわかる音がした。

「――うちって、ちょっと独特なんだよね」

 みそらが首をかしげてつぎをうながすと、ひと口喉を潤してから、清川は続けた。

「うちの門下――っていうか、葉子先生って、うちのピアノ科の中でもいまだに一番年下じゃない? だからだろうけど、ちょっと貧乏くじ引かされてるところもあると思ってて」

 みそらが買ったのは無糖の紅茶だった。新しいシリーズが入っていたのでつい手がでた商品だ。

「私はたんに夏の講習会で担当してもらったことがきっかけだろうけど、あきらと松本って、たぶん、葉子先生にお鉢が回ってきたんだと思うのよね」

 これは本人たちもおなじ認識だから、と清川は続けた。

「育てるのに時間のかかる子を押し付けられたんだと思う」

 みそらはまたたいた。意味がわからなかったわけではなく、理解したからだ。理解した上で、どう返していいかわからなくなった。白尾あきらと松本恒大こうだいを知っているだけに。

 学生の意思とは関係なく、先生の立場が上になればなるほど、コンクールなどを受ける機会は増える。それは生徒に経験を積ませることも当然だけれど、先生たち自身の実績のためでもある。上にいるという証明を、先生たちもしなければならないのだ。声楽でそれが顕著なのが、相田あいだ美咲みさきが所属する飯田いいだ門下だ。

 だから、先生たちはあまりうまくない生徒に構っている時間は、あまりない。これは暗黙の了解のようなものだった。

「でもさ、葉子先生のすごいところって、時間がかかってもいいから、当人のやりたいように、当人が向いてるようにさせて、結果を出しちゃうところだと思うんだよね。短大だと難しいかもしれないけど、実際にあきらも松本も、順位は一年のころとは比べものにならないんだし」

 それはみそらも理解していた。一年のころから羽田はねだ門下の関わる発表会にも足を運んでいたから二人がどれほど腕を上げたのかは自分の耳でも確認しているし、噂に聞く順位も本人経由などで知っている。

「本当に特殊なのはあの二人なんだよね。三谷は小野先生が取ろうとしてたけど上限いっぱいで取れなかったから直弟子の葉子先生に、って話だし、涼も講習会で葉子先生に当たったこともあって、受かってたべつのところをわざわざ蹴ってまでうちに来たんだし」

 どういう手を使って門下生になったかまでは知らないけど、と付け加え、清川はまたひと口、ペットボトルを傾けた。そのこだわりのない言いようは、すくなくともそれらが五人の中での共通認識だという証拠のように思えた。

 みそらは自分の膝あたりにあるペットボトルを見た。軽く揺らすと夏の光が紅茶を濃い琥珀に照らして去っていく。

「うち、二人しかいないから」

「そうか、田辺くんと」

「そう。ぜんぜん嫌とかじゃないんだけどね、声質も違うから、そういう点での相談相手ってなると美咲とかになるから。人数が多いと、にぎやかでいいなと思ってるよ」

「それは間違いない」

 ふふっと清川が笑いこぼす。門下生発表会のあとの打ち上げが毎度大変なことになるのは、三谷からも聞いている。

「木村先生は演奏会とかでお忙しいから人数増やせないもんね。その分、狭き門だと思うし」

 無言でうなずいて、みそらは紅茶を飲んだ。無糖でさっぱりしていて、口の中に変な味が残らない。三谷もこれ、好きじゃないかな、と思う。

「私、葉子先生みたいな先生になりたいんだよね。最初から先生――っていうか、講師になるのは決めてたけど、葉子先生を見てたら、ああ、こういう人がいいなって思えて」

「ああ――、うん、わかる」

「だよね」

 短い言葉だけど、清川には十分通じたようだった。みそらこそ、その葉子から副科ピアノの講師を打診されたのだ。それに――発表会で出会った、葉子の仲間でもある先生たち。専攻は違っても、あのような明るさと前向きさをもった先生たちには、素直に憧れる。

「ていうか、三谷って、ほんとにコンチェルトの選抜、受けないの?」

「ソロでは出る気あるみたいだけど……わたしの伴奏もあるし」

 みそらはまたほとんど無意識にペットボトルをゆらゆらと揺らした。琥珀の濃度が、変わっては戻ってを繰り返す。

「でも、さっきの聞いたらいける気がしてきた。小野先生は受けさせたがってるって言ってたし」

「ああ、やっぱりそうなんだ」

 話しながらも、会話とはべつの自分が言う。――これは、普通の会話だ。コンチェルトを受けるでもない、海外留学の話があるわけでもない、平均的な、ごくごく普通の、一般的な、町中でも学内でも埋もれてしまう生徒同士の会話。それを、自分たちは意識的にやっている。自分たちが特別だと、あの二人と並んでいると、錯覚しないように。

 学校は夏休みの時間の中にあって、静かだった。いつもなら生徒の声、楽器の音にあふれている場所が、いまはまどろみの中にあるようだ。冷房が効いているからか、窓の外から見える夏の空もいまだけは眩しく、ただひたすらに美しく見えた。

 白い。歩いてきた坂道も、窓から見える景色も、照りつける太陽も、嘘みたいに白い。――あのときと同じだ。四年前。菊川一夏いちかのラフマニノフを聴いたときと同じ――

 誰かとつくる音楽が、ここにはある。――あのとき願ったことは叶ったんじゃないか、と、ふとみそらは思った。もしかしたらはじめて、しっかりと意識したのかもしれなかった。

 そしてそれと同時に、ここから先は収斂の時間なのだと、――あ、鳥の影が横切った――心臓を強く掴まれたような心地になる。左手にある紅茶は徐々にぬるくなっていて、指輪と容器がぶつかると軽い音が鳴った。

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