第九章 天使の足跡
1-1
これはそもそも何の曲だったっけ。――そんなことをこの数分で思ったのはもう何度目か。わかっていてもそうとしか聞こえないことに、みそらは戸惑うべきか、ぞっとするべきか、心の中でそんなことを遠く思いながら、この二日で慣れた譜めくり作業をまた行った。
ただ、――自分がいま聞いているのは、ピアノ二台での演奏だ。ピアノは一台でオーケストラを模倣できる唯一の楽器であり、だからこそ各専攻の伴奏としての役割も担う。ピアノ協奏曲でもそれはおなじで、ソリストとしてのピアノ、そしてオーケストラを担当するのもまたピアノだった。
しかしそうなると、やっぱり大人数のオーケストラとピアノは、そもそも音色自体が違うのだとわかる。オーケストラはいくつもの楽器が集まりだし、人数も多い。だからオーケストラを担当するピアノは、和音があり、音域は広いとはいえあくまで一人で演奏するもの、ということを改めて突きつけてくるような、そんな音になるはずだったと思う。自分がオペラをもとにした曲の伴奏を聞いているときにさえ、そういったことをちらりと思うのに――どうして。
どうしてこれは、最初から「ピアノ曲」のように聞こえるんだろう。
ショパン作曲、ピアノ協奏曲第一番、ホ短調、第一楽章。ショパンコンクール本選の課題曲のひとつでもあり、数々のテレビ番組、ドラマなどでも取り上げられる曲は、どこかしらのフレーズを聞けば誰しも「なんとなく知ってる」くらいは言えそうな曲だ。それほどの曲なのに。
――元からピアノ二台で作ってあるみたいな音がする。
この三年と数ヵ月で通い慣れた
譜めくりは基本、奏者の左側に立つ。それから楽譜の右上を三角に折り曲げるようにしてつぎの音を軽く示してから、その部分を通過する一瞬前に一気にめくるのが流儀だ。協奏曲のひとつの楽章は十分を超える。しかも二台分を記譜されているのでめくる頻度も高い。そこで譜めくりを頼まれた、という経緯でここにいるのがみそらと清川奈央だったのだけれど、――それにしても。
すごい。やっぱりピアノって、男子の楽器なんだ。体全部がびりびりする。部屋壊れそう。音は振動っていうのは理解してるけど、なんていうか――ここ自体が音でできてるみたいだ。
これまた聞きながら何度目かに思ったことを繰り返す。レッスン室にあるピアノはいずれもそんなに大きくない、学習用といわれるラインのサイズだ。コンサートホールにあるものの半分ほど、と考えてもいいくらいだろう。それでも二台が同時に緻密な音を紡いでいくと、これほどまでに空気の圧が高まるなんて――男子と女子の生まれ持った差、つまり筋肉量の違いを思い知る。ピアニストに男性が圧倒的に多く、女性であっても大柄であったり腕の筋肉が素晴らしいのは、この何トンにもなる弦の引っ張る力を、同時に、そして俊敏に鳴らしていくためだ。
それにしても、とみそらは思う。三谷がプリモ――主旋律側を弾くと、こういう音になるんだ。この曲は例年、コンチェルトの学内選抜の課題曲として用意されていて、それこそ数年前から三谷がこの曲を譜読みするよう言われているのは知っていた。それに今日のこの練習にあわせて一昨日から自宅でも練習していたのを聞いていたのだけど――実際に合わせるとまた違うな、なんて、自分のことを棚に上げて思う。
三谷のショパンって、やっぱりいい。三谷特有の、水のようなきらきらしい音の粒がきわだっているし、とくに高音なんてそう。
そして、それを支えているのが、言わずもがなの森田涼のセコンドだ。いつも三谷の伴奏を聞いているのでついそのあたりにも耳をすませてしまうけれど、森田もやっぱりうまい。なんというか――指揮者っぽい。指揮者にもタイプはいろいろいるけれど、森田だとある程度はソリストとオケに任せ、締めるところにがっつり指示を出してくるタイプに見えた。これが一度目の合わせだなんて思えないくらいの完成度だった。だからこそ、オケの代替であるピアノ、というように聞こえないのかもしれない。
そんなことを考えていると、曲はあっという間に終わった。ホ短調の主和音がピアノ二台になっても違和感がない。やっぱり何度考えてもすごい、どういう仕掛けなんだろう、――とみそらが考えていると、鍵盤から手を離した三谷が「つっかれた」と大きく吐き出す息とともに言った。
「おまえもうちょっと手加減しろよ。おとといの今日でガンガン進めようとするなってまじで」
本当に疲れたのか、三谷はめずらしく譜面台のあたりに腕を置いて頭を預けている。まれにしか見えないつむじを見ながら、みそらはちょっと感心してしまった。ううむ、自分でも三谷をこんなにへばらせたことないのに。
「いや、でもさすがだよ。後半もへばんないし、それにもう曲がしみついてんじゃん。受けないの、選抜」
「スケジュールに余裕ないって言ったろ。それより」
森田の言葉に反論して、三谷は疲れを振り切るように顔を上げて隣に座る同門の友人を見た。
「いい加減、種明かししてくんない? 俺だけじゃなくて、清川も山岡も巻き込んでるんだし。――しかも、葉子先生のレッスン室を借りてまで」
それはみそらも同感だった。同じく譜めくりを担当していた清川をちらりと見ると、あちらも視線に気づいてみそらに小さく苦笑いを見せた。その奥にある窓には、夏の青々とした空に堂々とした入道雲が広がっている。
*****
四年生の前期が終わり、学科試験、実技試験も無事に乗り切って、夏休みに片足を突っ込みながら行われるのが集中講義だ。おとといは音楽産業論。マーケティングにも踏み込んでおり、インターンでやる内容に通じる部分もあった。参加しているメンバーを見ると専攻もバラバラで、おなじ声楽専攻で仲の良い
「
「してたけど――なんで」
ドア近くで森田が三谷を引き止める。生徒はその間にも外に流れていくので、邪魔にならないように一旦壁際に移動する。ちょうど三谷に合流したばかりのみそらも、つられて一緒に移動した。そこにきれいな長い髪をひとまとめにくくった清川奈央が通ると、森田は「奈央」と呼んで、「頼みがあるんだけど」と続けた。
結果、四人が壁際に集まる。企業から招かれた講師に質問している生徒もいて、まだ講義室はざわめきが耳につく。
「頼みって、私に?」
と清川が怪訝そうにするのに森田がうなずくのを見ながらみそらがそっと場所を離れようとすると、「あ、山岡さんもいて」と森田に止められる。
「できれば手伝ってほしいんだけど」
「――何を?」
みそらも首をかしげた。何を、というのがわからないとここまで話が進まないのか、と、ついインターンなどで教えられることを連想してしまっていると、森田は「ごめん」と苦笑してすこし周りに視線をやった。それから声を落として続けた。
「あのさ、練習、付き合ってくんない? コンチェルトの」
「それがショパンの一番?」
と三谷が聞くと、森田は「そう」とうなずいた。
「じゃあ俺、無理だよ。セコンドやってないし」
「いや、夕季はプリモのまんまで。セコンドは俺がやるから。俺が知ってるメンバーで頼めそうなの、夕季だけなんだよ」
みそらがつい清川を見ると、みそらよりもすこし下にある清川と視線が合う。清川はかすかに首をかしげてみそらに言った。
「うちの門下でやってるの、この二人くらい」
そうなのか、と思っていると、森田はその言葉を引き取るように続けた。
「だから夕季で」
「――それって、
「そう」
「あ、じゃあ、もしかして譜めくり?」
清川が思いついて言うと、森田は笑みを見せて「うん」とうなずいた。
「奈央が俺で、山岡さんが夕季の。練習期間短いし、家でやれる人がいいかなと思って」
「短いって、――いつ合わせようとしてんの」
三谷が聞くと、森田は当然のように「あさって」と言った。三谷が一瞬、口をつぐむ。それを見てみそらは、めずらしい、と思う。森田くんの前だとわりと表情に感情がだだ漏れっていうか、嫌なことは嫌って顔に出すんだな、――なんて、ついそんなことを思って楽しくなってしまう。みそらは顔には出さないけれども。
「……おまえさあ、まじでそういうこと」
「を言っても大丈夫だってわかってるから夕季に頼んでんじゃん」
かぶせるように続いた言葉に、今度こそ三谷は息を吸って黙り込んだ。清川が止めないところを見ると、やっぱりこのやり取りは日常茶飯事らしい。
「なんか理由があるんだろ。それを先に聞かないと」
「それが言えないからこんな回りくどいことを言ってんだよ」
「おっまえ……まじで一言多いよな。それドイツ語になったら黙っとけよまじで」
三谷の言葉を聞いて、そういえば森田が卒業後にドイツ留学する話が本決まりになったということをみそらも思い出した。この二人のやり取りってちょっと
「でも私だって理由がわかんないとやらないからね。とくに専攻が違う山岡さんまで、譜めくりとはいえ手間かけさせるんだし」
清川が言うと、「わかってる」と森田が言う。エアコンはまだ大人数がいる前提の強さになっていて、ひんやりとした風が機械音とともに四人を撫でていく。
(1-2に続く)
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