9
解散はそのしばらくあと、それぞれが飲み終わってからだった。みそらとはいつものようにスーパーに寄って食材などを買い足して帰宅する。もうすっかり日は暮れていて、マンションの上にはうすく星の光が見えていた。そういえば室内にいる時間が多かったから忘れていたけれど、今日もいい天気だった。昼には汗をうっすらかくほどで、でも日が暮れるとまだ涼しい。来月になれば――あとほんの一週間ほどもすれば、もしかしたら進路も決まるかもしれない。そのことをふいに強く思った。
荷物を片づけ、手洗いやうがいをいつもどおりすませて、カバーをかぶって眠っているようなピアノの蓋を開ける。鍵盤側ではなく、弦側だ。そうするとやっと譜面台が姿をあらわして、大きな獣がゆっくりと目をさましていくような、そんな空気が部屋に広がっていく。
「どうする? 今日はもう声出しやめとく?」
あしたは火曜、みそらのレッスン日だけれど、先週からかなり喉に負担がかかっている。練習はやめといたほうがいいんじゃないか、と思いながら譜面台を整えていると、ふいに背中に熱と重みを感じた。
「――どしたの」
みそらが後ろから腕を回して、背中に顔を押し付けている。その熱が背中から全身に回っていくようで、
「疲れた?」
返答の代わりに、みそらが左右に首をふるのがわかる。
「ごろごろしてる」
「ごろごろ?」
「お餅。ごろごろしてるの」
どこかそっけない言い方になんだろうと首をひねりかけ――すぐに気づいた。お餅をごろごろ。つまり、焼きもちを焼いている、ということか。と、納得しかけ――
「え、そんなのあった?」
「あった。自分でもばかみたいだと思うからぜったいこっち見ないで」
ぎゅうとみそらの腕に力がこもる。
「無理だってわかってるけど――でも、わたし以外の伴奏、しないで。ほかの楽器ならいいかもしれないけど、――ソプラノはいや」
思いがけない言葉にびっくりして三谷は顔を振り向けかけた。それを察したのかみそらはまた腕に力をこめて顔を背中に押し当ててくる。
「
こっち見ないでとか。いや、無理。と思って、――ふと、なんかこの立ち位置に既視感を覚える。すぐに思い当たった。ファントムとクリスティーヌだ。『The Point of No Return』を舞台上で歌う二人。
もう引き返すことはできない。これが最後の一線だったのだから。もう橋は渡ってしまった。わたしたちはもう、引き返すことはできない――
クリスティーヌやオペラ座の面々はファントムを捕まえるべく動き出す。そのために用意された舞台でクリスティーヌとファントムが歌った、激しい愛の歌だ。性別でいえば立ち位置は反対かな、と思いながらも、同時にそれで合っているような気もしている。あのとき間違いなく、クリスティーヌが恋をしていたのはファントムであったはずなのだから――
「山岡」
とんとんと軽く、やさしく腕を叩く。
「顔見せて」
「やだ」
「じゃあ、――もっかい言って」
「……何を?」
「さっきの」
いつかのやりとりもまた鏡のように反転する。そうか、自分たちは写し鏡でもあるのか、とも思う。
「お餅ごろごろしてる」
「の、あと」
みそらは黙った。数秒そうしていて、一度息を吸う。かすかに腕の力が緩むのがわかる。そっとそのままみそらの腕を解くと、三谷は振り返った。
みそらはまだうつむいたままだった。髪が顔の前にあって表情が見えない。そっとその髪を手の甲でよけているとみそらの長いまつげが見えた。みそらがちいさく、悔しそうにつぶやく。
「もうほんと、最低」
そのすねたような言い方に、つい笑いを誘われてしまう。
「今日もソプラノ全開ですね」
「……今日はメゾもでしたが」
「たしかに」
正確なツッコミについまた笑ってしまう。そうしているとみそらも気がゆるんだのか、ふっと息をついたようだった。頬が手にふれる。あたたかくてやわらかい。みそらがゆっくりと顔を上げた。かすかに頬が赤くなっている。
「美咲の歌に嫉妬してもなんにもならないのに、って何度も思ってたんだけど、――だだこねてごめん」
「だだこねるとかじゃないと思うけど」
みそらの言葉に思わず首をひねると、みそらは今度こそ大きく息をついた。肩の線から力が抜けているのが見て取れる
「いやー、さっきのはただの嫉妬というかもはや
「葉子先生?」
「田舎娘のふりして、誰ひとり手を握らせない高潔な女性を演じてみて、ってやつ」
しばらく前――まだ付き合う前くらいに言っていたやつだ。でも、と思う。
「今日の蝶々さん、それができてたと思うけど」
「ほんとに言ってる?」
「うん。誰にもさわらせたくないなって思った。弾きながら」
驚いたのか、ぱっと顔を上げたみそらの瞳がまんまるになる。と、それこそまつげの長さがきわだって、よりいっそう花が咲いたようだった。視線が交わると、――それだけでもう、何にもまさるのに、と思う。世界のすべてがとけて、でもすべてがうつくしく、あざやかに、彩度を上げていく。
「……そういうさあ、言い換えみたいなのずるいよ」
「とりあえず学校にいる限りは『善処します』しか言えないから」
三谷の返事にみそらはきょとんとし、今度こそ笑い出した。
「まっじめだなあ」
葉子の伴奏法や、木村先生や
だから想像しやすいほうを選ぶということは、きみの心の中にあるもっともうつくしい景色を描き出せるということのなのではないかと思ったんだよ。――こないだ聞いたばかりの木村先生の声が聞こえる。だったら、と思う。
そんなこと、あのときから決まっていたのだ。もうあの、一年前のあの晴れた日から、橋はもう渡っていた。いやもう、それよりも前から引き返せない場所に来ていた気がするとしか思えなかった。
「まあ、成功だよね。よかった」
今日のことを思い出したのか、みそらの柔らかい声が言う。その顔はほんとうにうれしそうで、みそらがどれだけ歌を好きなのかが改めて伝わる。――そういうところがソプラノなんだと思うんだけどな。そう思って、そっと右手で、みそらの左手にふれる。そうするとみそらも手を軽く握り返してくる。
「さっきのだだこねは置いておいて、いい日だったなと思ってます」
日記みたいな言い回しだな、と思ってついおもしろくなってしまいそうになる。でも、同感だ。いい日だったと思う。あまり考えないようにしている残りの時間を、すこしずつ照らすような一日だったと思う。
「じゃあ、ご飯、作ってくる」
気を取り直したのか、みそらは笑ってそう言った。それに「お願いします」と返して、そういえばカーテンを開けっ放しだったと気づく。
いったん窓をすこし開けるけれど、空気に含まれた湿度にふれると、ああ、だめだなと思う。へたに開けるとピアノが傷つく。――もう六月になるのだ、当然だった。今日のところは除湿にしておくか、と思いながらエアコンのスイッチを入れる。夏はもう近い。
ピアノのある部屋の向こうで、一日がゆっくりと終わっていく。カーテンをゆっくりと閉めていくと、まるでそれが今日という日の幕引きのようにも思えた。
[ある晴れた日に 了]
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