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 三人が再会したのは、五限が終わってからだ。それぞれ三限、四限の授業があるので、終わり次第、駅前のコーヒショップに集合ということになっていた。もちろんすべて美咲のおごりという約束で。

 美咲みさきとみそらの前にはカロリーも値段も高そうなフラペチーノが置いてある。あまり甘いものが得意ではない三谷みたに夕季ゆうきはいつもどおりドリップコーヒーにしていると、美咲が「おごりなんだからもっと高いの頼みなよ」と言ってくる。ずいぶん前にみそらにおなじようなことを言われたのを思い出し、つい隠れて笑ってしまう。そういうところもみそらと美咲は似ていると思う。

 駅前は学生よりも帰宅ラッシュから抜け出してきたサラリーマンが多く見られた。一年後はああいうふうになるんだろうか、とつい思うけれど、いま目の前にいるのはソプラノ二人だ。こうやって並んでいるのを見るのはあとどれくらいなんだろう――いや、まださすがに気が早いか。

「あ、あした私、黒岩くろいわ先生の診察だわ。なんか伝言ある?」

 美咲がスマホを見ながら言うと、フラペチーノを手にしていたみそらが「ないよ」と苦笑した。

「わたしも再来週行くんだし、大丈夫」

「だよね。でも黒岩先生、毎回聞いてくるんだよね、山岡さんは元気? って」

「それ、わたしもおんなじなんだよね。なんだろうねあれ」

 黒岩先生というのは学校の先生ではなく、婦人科の先生、つまり「お医者さん」という意味の「先生」だ。みそらも美咲もおなじクリニックでピルをもらって体調をコントロールしている、というのを聞いたのは、もうしばらく前になる。それを聞いたときにはなるほどと思った。二人が安定したパフォーマンスを維持しているのはそういう細かい工夫――というと語弊はあるだろうけれど、手間や情報収集などの努力を惜しまないからだろうと納得したものだった。

 と同時に、以前、江藤えとう先輩から聞いた言葉が耳をかすめていく。「そもそも体のつくりが違うから病気になるところも違う。最近はそういう部分にからんだ話もよく言われてて、それで就職だってキャリアアップだっていまだにめんどうって聞くし」――そのとおりだ。男子よりも女子のほうが圧倒的に不利な部分は、音楽に限らずあるのだ、たしかに。

 店内にはもう陽の光は届かなくて、夜の時間帯になったのだと感じる。美咲は長い黒髪を解きおろしていて、そのつややかさにも、自分の見た目に対する投資はいっさい手を抜かないというプライドのようなものが垣間見えた。

「ほかにもなんかおごるよ? あ、お父さんがよく使ってるお寿司屋さんとか紹介できるし」

「……いいよ、値段やばそうだし」

 三谷がおもわずちょっと後ろに下がると、美咲はきょとんとした。

「え、だいじょうぶだいじょうぶ、お父さんの名前でツケといてくれたらいいから。私からも連絡するし」

「こわいこわい、いいからいいから」

 みそらもさすがに止めるけれど、美咲は「大丈夫だよ本当に、顔なじみだし」とあっけらかんとしている。こう見えてすごいところのお嬢さまなのだということを、こういう妙な瞬間に突きつけてくるのが相田あいだ美咲だった。だから金持ちの道楽に見えるのだろうけれど、――おそらく逆なのではないか、と思うことがある。

 道楽ではなく、捨て身だからやれるのではないか。親の後ろ盾があることは事実だとしても、それは金銭的なことであって美咲の実力とは関係ないのは明白だ。だからこそプロに執着する美咲を見るたびに、これは捨て身なのではないか、と思うことがある。それこそ「芸者に戻るなら死を選ぶ」と言う蝶々さんの姿と重なるものがあるのではないか――。

 と、三谷がそんなことを考えているとはおそらくつゆほども思っていないだろう美咲とみそらは、楽しそうに互いのフラペチーノを交換しながら味の違いを楽しんでいる。伴奏法のあとの二人のコマは合唱とオペラ演習なので、消費カロリーも相当なはずだ。

「あ」と美咲が声を上げた。

羽田はねだ先生から連絡きた」

葉子ようこちゃん?」

 隣に座るみそらが身を乗り出す。向かいの美咲がスマホを見ながらうなずいた。

「一人、連絡があったって。伴奏候補」

「ほんと?」

 ぱっとみそらの表情が明るくなると、さらに花が咲いたように見える。以前祖母はみそらにダリアの髪飾りを贈っていたけれど、自分とおなじようなイメージだったのか、とすこし驚いたものだった。

「ええとね、城田しろたさんっていって――あ、三谷に伴奏の専門コースとかに行かないんですかって質問した子だって」

「ああ、あの人」

 講義後半の美咲の伴奏にも手を挙げていて、ソリストに振り回されない弾き方をする、と思った子だ。自分自身が表に出るのはあまり得意ではなくてもサポートなら率先してできるというタイプがいるけれど、彼女はまさにそういうタイプに見えた。みそらが横から言う。

「あの子、こないだのうちの門下の発表会も聞きに来てたって」

「そうなんだ? じゃあもとから興味あったってことかな」

「かもしれない。ソリストに遠慮して伴奏しない、って人もいるだろうし」

「そーだよ。三谷みたいにみそらをとっ捕まえにくる人なんてそうそういないんだから」

「……なんで相田って、一日に一回くらい残念なこと言うの? 自分ルール?」

 思わず言うと、美咲は一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑い出した。持ったままのフラペチーノがふるふると揺れている。

「うける、ほんと二人って似てるよね、似てないくせに」

 何の話だろう、と思ったのが顔に出たのか、みそらが神妙な顔をして言った。

「大丈夫、わたしは三谷の気持ち、めっちゃくちゃわかる」

 なぜかみそらにはすごく同情されてしまった。それを見た美咲はまたおかしそうに笑って、でもふいに笑いおさめると、そっと微笑んだ。それこそ――オペラに出てくるヒロインのように。

「ほんと二人のおかげだよ。ありがとう。無茶振りだったけど、ほんとに助かった。まだ正式決定じゃないけど、少しは前進したから」

 みそらよりも低く、すこしふくよかで、それこそ香り高いワインのような音だった。この声に魅了される人は、これからもきっとたくさんいるのだろうと確信できる音だった。

「今度やるときは、せめて一ヶ月前から練習できるようにしましょうね、お嬢さん」

 みそらが冗談めかして言うと、美咲も「そうね」と笑った。

「あと何度か――できるうちにやりたいね」

 その言い方を聞いていると、卒業や進路という言葉を意識しない日は、もう自分たちにはないのだろうと思えた。それをひっくるめて――でも、いい日だったと思う。

 テーブルの上を見ると、三つの飲み物が並んでいる。全部が違う色で、違う残り方をしていて、違う人の前にある。そのすべてが、それぞれが選んだものなのだと、三谷はそんなことをふと思った。

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