7-4
(承前)
「こんな感じです。どうでした? おもしろかった?」
「質問、いいですか」
「はい、どうぞ」
にっこりと笑って、美咲は手を挙げた彼女に自分の左手を差し伸べた。爪の先まで神経のとおった美しい動きだった。
「ピアノでは演技をするってことがないんです。先輩たちはそれに対する抵抗とかはなかったんですか?」
見ると、その子はあの日、みそらに「写真を」と言った女子に付き添っていた生徒だった。ほほう、と
「うーん、どう?」
と美咲がみそらを見る。みそらの表情からはさっきまでの儚くも芯の強い「蝶々さん」の色はすっかり抜け落ち、血色の良い、大学生らしい幼さと大人のあわいの中にいる女性そのものに戻っていた。
「たしかにちょっとあると思う。オペラ演習とかでも注意されるのはそういうところが多いし。歌いながら動くこともあるから、そういう点はほかの楽器との大きな違いだよね。でもなんだろうね……慣れかなあ」
「私は正直言うと、歌ってたらそこらへんの羞恥心とかは飛ぶよ」
腰に手をあてて言った美咲を見て、みそらは一瞬、ぎゅっと目をつぶった。そして美咲を指差して、「これ、どっちかっていうと少数派だからね」と釘を刺すように言って、さらに続けた。
「だからこそ大事なのは基本の歌で。そのときに『このキャラって何考えてんだろうな』ってのを考えてれば、自然とそれなりの動きとかができるようになる、とは思います」
「という感じです。はい、ほかにない?」
今度は数人の手がすぐに挙がる。美咲はざっとそれを見渡して、またべつの一人にきれいな指先を向けて「どうぞ」と言った。
「さっきみたいに、声域を変更することってよくあるんですか?」
「それはあんまりないなあ。一年生でまだソプラノかメゾか決まってないならともかくだけど、四年生ではあんまりしない……と思う。たぶん」
と美咲が先に言うと、続きをみそらが引き取った。
「なので、わたしがやった二重唱からの独唱は、
「あ、じゃあ」
と、今度は挙手の前に声が上がった。つい、といった様子で、声を発した女子生徒は口元を押さえていたが、みそらは気にせず「どうぞ」とやわらかくうながした。
「さっきみたいに移調するの、
「わたしはあんまりしないかなあ。理由としては、
「ちょっと、それ、まじで私がわがままみたいじゃん」
横から美咲がつつく。が、みそらは長いまつげが映える微笑みを見せた。
「こういうのが声楽です。よく
今度こそ笑いが起きる。空気がなじんだな、と
「これは
まだピアノ椅子に座ったままだった三谷は、急に言われたにもかかわず、さして驚きも見せずにかすかに首をかしげた。そうしていると彼があの伴奏を弾いたのだというのをすっかり忘れてしまいそうになるのから不思議だ。みっちゃんはそういうところがいつもなめらかに変化するんだよなあ。
「いろいろあるけど、ひと言でまとめると、ソリストをよく見るってことじゃないかな。よく『ソリストが伴奏見なくてどうして合わせられるの』とか『息合わせるのって難しくないか』とか言われるけど、個人的には『見てればわかる』って以外に言いようがない。ほんとに見てればわかるものだから。この中にも伴奏をしている人はいると思うから、そういう人には少なからずこれで通じると思う」
一度言葉を切って、もう一度三谷は続けた。ほんのわずか考え込んだようだった。
「――たぶん、ピアノだと
講堂の空気がすべて三谷
「人と人とのやりとりだから、伴奏はおもしろいってこと。おもしろいからやってて楽しいし、一人じゃ見えないものは絶対にあるって断言できる。それで時間が割かれると思うのなら自分の練習のやり方を見直すきっかけになるかもしれない。少なくとも、俺はそうやってきたから」
そこまで言い切って、三谷は笑った。そして舞台の上手に並んでいるソプラノ二人を軽く指差して「あの二人を見てもわかると思うけど」と言って続けた。
「おんなじソプラノでも声質も性格もあれだけ違う人がいるんだから、それを知るだけでも、学校生活、楽しくなると思うよ」
ぱっと生徒たちの視線が上手にいる二人に集まる。――手足の長さがきわだつスキニーパンツと薄めのニットで髪は背に流したしたままの、貫禄のあるドラマティコ。そしてゆるめの薄いニットと線の細さがきわだつロングスカートに、空気感を感じる髪を肩下でときおろしている軽やかなリリコ。人の数だけ、声も、その人がもつ物語もあるということを、この二人はよく表しているようだった。
「もうひとつ、質問いいですか、三谷先輩に」
「いいよ」
上がった声に気軽な調子で三谷は答えた。質問したのは二週間前にみそらに「写真を」と言ったその本人だった。発言するのもめずらしいおとなしめの子だと葉子は記憶してたが、それ以上に今は興味が勝っているようだった。目が違う。
「それだけ伴奏ができたら、ほかの大学も含めてですけど、伴奏専門のコースとかに行ったりしないんですか? 先輩ならコレペティトールとしても重宝されそうなのに」
しんと講堂が静まる。ピアノ専攻の将来に直接かかわる質問に、二年生の視線が束になって三谷に向かう。しかし葉子の愛弟子はそれをまた自然に受け止め、軽く「うーん」と言って、小さく苦笑した。
「ごめん、それはちょっと黙秘で。うかつなことは言いたくない」
やわらかい口調の中にも確固とした意思を感じる言い方だった。それはほとんどファーストコンタクトである二年生でもわかるのではないかと思えた。
「……っていうのは、離れたくない場所はあるから、そのためにはどうしたらいいかをいまは模索中ってこと。決まったらいつか話せるかもしれないと思う。こことか、それ以外でもいいかもしれないし――葉子先生がよければ」
生徒の視線がこちらに向く。葉子はにこりとした。みんながどう取るかはわからないにしろ、葉子としては「いいよ」の意思表示だ。
「って、参考になるかはわかんないけど。――こんなのでいい?」
質問した生徒はうなずいて「ありがとうございます」と丁寧に言った。
葉子は
「ほかに質問がある人は?」
はい、と手が挙がる。またみそらが言うピン・ポン・パンのうちの一人で、みそらが小さく笑ったのが葉子の位置から見えた。美咲がお姫さまのような笑顔で言う。
「はい、どうぞ」
「これからもこういう形式の講義はあり得ますか?」
「それは――」
美咲は言いかけて、ちょっとだけ黙ると首を軽くかしげて「それは、
――すばらしい、と葉子は思った。彼らを変えたのは自分ではない。しかもそうしてほしいと言ったわけでもない。自分はただ伴奏法の通常の講義をして、その中でたまたま提案された内容に乗っただけだ。主導権はすべてみそらたち四年生にあった。しかもたった二週間足らずでここまでのことをやってくれた。それは彼らの情熱――伴奏や声楽などの枠組みを超えた、自分たちの学びへに対する真摯さのあらわれでもあると思う。――しあわせだ。
なんて恵まれているんだろう。わたしだけじゃない。ここに座っている二年生全員がだ。そう思って葉子は顔を上げた。
「やるかどうかは先輩たちにおまかせします」
そう言うと、今度は期待と喜びで二年生がわっとざわめく。それを見て思わず笑ってから、「ただし」と葉子はアクセントをつけた声で言った。
「もしそういうことがあれば、その分わたしがあなたたちに要求するものが大きくなることも覚悟しておいて。何のために先輩たちがこの機会を設けたのか。それを無下にするようなことはぜったいにしないように」
自分の声が講堂に広がっていく。先輩というのは三谷やみそら、美咲のことだけではない。
「というわけで」
葉子は立ち上がった。並んだ列を避け、
「残り時間はまだ四十分くらいありますからね。――先週の続き、やるわよ」
さすがに「えー」という声がちらほら上がるが、葉子が一瞥するとその声はすぐに引っ込んだ。
「今わたしが言ったこと聞いてなかった? 先輩たちがやったことが理解できないのだったら、今すぐ出ていって構わないわよ。自分でよーく、この時間が何だったのかを考えていらっしゃい」
腰に手をあて、顎を上げて言う。
「いない? 選ぶのは個人の自由よ。大学なんだから」
ピアノのところからかすかに笑い漏らすような音が聞こえた。ちらと振り返ると三谷だった。そういえばずいぶん昔だけど、こういうようなことをみっちゃんに言ったことがあった気がする、と思い出す。
三谷が立ち上がった。伴奏譜をまとめて手に取ると、
「やるのは『
「そうね、先週の復習から入ろうかと思ってる」
「じゃあ、――せっかくなので山岡さんではなくて私がソリストを担当してもいいでしょうか? 今日もやると山岡さんは三週連続の出ずっぱりなので、さすがに疲れるかと」
建前だろうな、とは思ったが、顔には出さずに葉子は「もちろん」と請けあった。本来の彼女たちの思惑を考えれば、ここで「飯田門下」である美咲が前に出るのは当然のことだろう。
舞台を降りたみそらと三谷が葉子の挙動を、美咲の笑顔を、二年生の雰囲気を敏感に感じ取っていることが伝わる。でも、――と、葉子は心の中で呼びかけた。
葉子は「じゃあ」と言って、舞台上から二年生を見渡した。
「相田先輩の伴奏をやってみたい人、いたら挙手して」
――大丈夫、この勝負、あなたたちの勝ちだから。
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