7-3

(承前)


 それでほんとうにやっちゃうんだから、おもしろいなあ、やっぱりソプラノっていう人たちは。あのみっちゃんだって動かしちゃうんだもの。

 羽田はねだ葉子ようこは、手際よく準備をしていく四年生三人を見ながら内心、浮足立っている自分を抑えるのに必死だった。何しろ声楽専攻四年のツートップであり、ほとんどタイプの真逆なソプラノ二人が、自分の直弟子の上等な伴奏で歌うというのだ。浮かれないでいられるわけがなかった。

 手慣れたようすで三谷みたに夕季ゆうきが伴奏の用意をする間、相田あいだ美咲みさきはごく普通の雰囲気で、――なんの気負いもない様子で舞台上にいた。美咲が一度大きく伸びをすると手足の長さがきわだつ。幼い頃からバレエを習っていたという彼女の自然体の姿勢は、舞台においても非常に目を引く。生まれながらのソプラノというものがあればこういう形をしているのではないか、とさえ思う。

 あ、と美咲が声を上げた。そして後ろを――伴奏者を振り返る。

イ長調A durでやれる?」

「え、――いま?」

「いま以外にないでしょ。今日たぶん私、いっこ上のほうが出やすそうだから」

 言葉の意味を察したのか、二年生がかすかにざわつく。美咲が言っているのは、つまり、いますぐにここで移調をしろということだ。もともとの高さである変イ長調As durから、半音高いイ長調A durに。そしてそれはフラット系からシャープ系に変わるため、使う鍵盤が大きく変わることも意味していた。二年生が驚いていたのは歌い手の難しさではなく、伴奏の大変さにだった。――なんという無茶振りかと。

「あ。いま私、ひとつ上げたけど、よくあるのは下げるほうだから憶えておいたほうがいいよ。ト長調G dur、調子によっちゃ変ト長調Ges dur

 変ト長調Ges dur、という字面が脳内に浮かんだ二年生たちがそろって嫌そうな顔をするのが見える。そうよね、変ト長調Ges durとかフラットだらけだもんね。葉子はやや同情気味に思うが、何も言わずに舞台を見守る。

「やれる?」

「やれるよ。上げればいいだけだろ」

「ありがと」

 三谷ににっこりと笑って美咲はもう一度正面を向いた。「言っとくけど」という声は決して大きな音ではないが、講堂のすみずみまでよく通る。

「いまの、仕込みじゃないからね。声楽の伴奏において移調奏のセンスは必須だってことも、一緒のおぼえておくといいよ」

 容赦のないことを笑顔で言って、美咲はひとつ深呼吸をした。それだけで一気に美咲の顔つきが変わる。そしてそれをわからない二年生たちではなかった。

 イ長調A durに変わった前奏がはじまる。まるで最初からその調であったかのようになめらかで叙情的なピアノの歌だった。そして一分のズレもなく、そこに相田美咲の美しいイタリア語の音が乗る。

『私の大好きなお父さん』という邦題も十分に知られている『O mio babbino caro』は、日本人でももっともなじみのあるオペラ・アリアのひとつだと言えるだろう。作曲者はプッチーニ。「ジャンニ・スキッキ」というオペラの中にある曲で、彼の作品の中で唯一の喜劇でもある。スキッキの娘、ラウレッタが歌うアリアで、父に対して懇願するような歌詞が印象的な歌だ。

 ねえ、私の大好きなお父様。私の話を聞いて。彼が好きなの。彼ってほんとに素敵なの。だからポルタ・ロッサ通りまで指輪を買いに行かせてほしいの――

 飯田いいだ門下らしい、と思う。体全体に声を響かせるイタリアらしい歌い方と、日本人にはやや大げさとも思える表情やしぐさ。それをドラマティコという美咲のやや重めの声質が歌うと気の強い印象も受ける。けれどもそれをうまく活用しているのが、相田美咲の圧倒的な歌唱力と、解釈にもとづいた表現力だ。音楽の流れを美咲はうまくつかんでいて、それがまた講堂に充満していく。同時に葉子はついつい真面目に弟子の伴奏に聞き入った。アルペジオがまたきれいだ。一音一音がクリアで、でも真珠のように連なっている。お手本を超えたアルペジオの音はそれだけで光り輝く宝物のようだった。

 うまいなあ、みっちゃん、うまくなったなあ。ついそんな言葉が胸の中にあふれてくる。みそらとぜんぜん違うタイプの相田さんをうまくつかんでいる。そもそもカンがいいこともあるけれど、やっぱり颯太そうたとの練習経験が大きいだろう。みそらよりももっと苦しかったはずだ。技術的にも、精神的にも。でもそれから逃げなかったこと、ほんとうに誇らしいよ。

 相田美咲の歌は、大人が好む芳醇なワインのようだ、と思えた。舌触りも、鼻に抜ける感覚も、肌に下りてくる熱も。

 その余韻が消えたころ、そっと下手側の階段から、みそらが舞台に上がったのが見えた。足音を立てずに数段をのぼり、舞台に上がる。その間、誰も何も言わない。立ち上がりもしない。ただ、つぎの曲をまっている。

 かすかにうつむいていた美咲が、ふいにはっと顔を上げた。――聞こえたのだ、大砲の音が。

 ピンカートンが、帰国を待ち続けた愛する米国の軍人が、ただ一人の夫を乗せた船が、港に帰ってきたのだ。みそらが早足で駆け寄る。そんなみそらに――信頼を寄せる女中スズキに、蝶々さんはそっと、しかし喜びを隠しきれない様子で微笑んでみせた。それが合図だった。ピアノが属七の和音だけを鳴らすと、それまで音楽がずっと続いていたように蝶々さんが歌い出す。喜びに満ち溢れた表情と声で。

 旦那さまは戻っていらしたわ。どのくらいお待ちしたらいいのかしら? 二時間ほどかしら? 家の中をぜんぶお花でいっぱいにしてお迎えしましょうね、スズキも手伝ってちょうだい――

 美咲のドラマティコの音がふくよかに広がっていく。太く、ともすれば重いイメージになりがちな声を、思慮深く慎み深い日本女性のものにしているように葉子には聞こえた。うーん、やっぱり相田さんはうまい。新国立しんこくりつもあながち夢じゃなさそう。

 一方スズキであるみそらは、そんな蝶々さんをそっと支えるようにこまごまと動き回る。メゾソプラノの音域もあって美咲ほどは目立たないが、みそらの声がもつ独特の軽やかさでの合いの手の入れ方は見事だった。これまですごした友人関係がそのままキャラクターに反映されているかのようだ。

 二人が花を集めている間の三谷の伴奏も見事だった。練習時間が少ない中で音をちょっとずつ削りながらも、原曲のエッセンスはしっかりとつかんでいる。この臨機応変さがないと伴奏は務まらない。葉子は思わずにやついてしまいそうになる口元を、頬杖した手で隠した。情報処理、優先順位、こういうのは四大に通う学生だけの得意分野ではないのだというのをこういうときに実感する。

 あたりじゅうを春の香で満たしましょう。ええ、そうですね。四月の花をあちこちに。あちこちを春にしましょう。

 互いに声を掛け合いながら、蝶々さんとスズキが家中を駆け回って花を集めてくる。桜の花はもちろん、桃の花、スミレ、茉莉花ジャスミン、どんな花でも集めて、あの人がこの家に来たときによろこんでくれるように――

 このやり取りの前、蝶々さんは仲介人から再婚を勧められる。しかし蝶々さんはそれも「子どものために芸者に戻って恥をさらすよりは死を選ぶわ」と突っぱねる。当時の彼女は預かり知らぬことだったが、ピンカートンにとっての蝶々さんは在日時の一時の遊び相手でしかなかったし、帰国している間にピンカートンはアメリカで正式な妻をめとっている。さらに蝶々さんとの子どもが生まれたのは彼がアメリカに帰国したあとだった。

 そんなピンカートンの胸中を知らないとはいえ、蝶々さんは彼を待ち続けたのだ。――その喜びを、ともに待ち続けた女中、もしかしたら親友ほどの仲になっているスズキと分かち合う。そして二人の思いが重なる。――二重唱だ。

 手にいっぱいのすみれや桜の花を投げましょう。手にいっぱいの花びらを――!

 美咲の主旋律をみそらの低音が支えていく。互いに声をかけあいながら、花びらをそこらじゅうに振りまいていく。もちろんそんな小道具はないが、それでも動きやしぐさで二人の喜びは伝わってくる。愛する人を迎えるために、自分たちは今なにができるのか、少しでもこの場所を華やかにして、あの方をお迎えしたい――

 なんと純粋な――そして来たるべき悲しい物語の終わりを予感させる美しい場面だろう。プッチーニの手腕が遺憾なく発揮されている一幕だ。

 ぱらぱらとだが拍手も聞こえる。三曲あるからか、授業だからか、拍手をしていいのか判断がつかない生徒が多いのだろう。ピアノの伴奏もうまいこと切ったな、と葉子が思っていると、美咲が上手の階段から下に降りた。代わりに中央に進み出たのはみそらだった。

 歌で言えば場面は前後する。ピンカートンが日本での任務を終えてアメリカに帰ったあとのことだ。周囲はもうピンカートンは戻ってこないのではとささやく中、蝶々さんだけは彼を信じていると胸を張る。そこで歌われるのがこのアリアだった。

 美咲とみそらの身長は同じくらいで、同年代の生徒たちよりもほんの少しだけれど舞台映えする高さだ。それでも今のみそらは、いつもより小柄に見えた。最初から一時の遊びだと思っていたピンカートン。一方でこの少女は違う。最初からこの恋を一生のものだと決めていたのだ。細い肩に乗る、その決意が空気にとけていくようだった。

 ある晴れた日、遠い海の彼方にひとすじの煙が立ち上って船が現れるの。白い船は港に入って礼砲を鳴らすのよ――

 前奏はない。曲はすべてオペラという大きな流れの中にあり、アリアもその一部だからだ。みそらの一音目と同時に静かに始まった伴奏がいったいどうしてそうできたのか、今の二年生のほとんどにはまだわからないだろうな、と頭の片隅で思いつつ、葉子はみそらを――さっきとは違う「蝶々さん」を見つめた。

 見えるでしょう? 彼が来るわ。でも私は迎えにはいかないわ。あの丘のふもとで、あの人を待つの。どんなに長くかかってもつらくないのよ――

 これは蝶々さんの夢想だ。こうだったらいい、という、たったひとつの心の光だ。それをみそらが紡いでいく。美咲とはまたアプローチの違う蝶々さんだ。そう、なんというか――ちゃんと日本人だった。

 もちろん声はよく出ているしイタリア語の発音も問題ない。けれど、なんというか――プッチーニがおそらく求めたであろう日本的な慎ましやかさというものが、振る舞いにもしぐさにも、そして声――音にも現れていた。最近日本歌曲をやっていると聞いていたけれど、それがうまくハマっていると感心する。と同時に、これを相田さんは狙っていたのか、と腹落ちした。

 正統派なドラマティコが歌う、オペラとしての蝶々さんと、日本人の慎ましやかさとイタリア式の歌唱法どちらをも身に着けたリリコ――その名前のとおり「抒情的なリリコ」ソプラノが歌う蝶々さん。好対照で、どちらも正解だ。あとは聞く人の好みの問題ではあり、葉子にも甲乙つけがたかった。そしてこれほどの違いは、この席についている生徒ならばわかるはずだ、と思った。みんな望んで、自分で選んで、この席に座っているはずなのだから。

 まつげを震わせ指先を握り込み、自分の揺れる心と戦いながら、それでも前を向いて、みそらは――蝶々さんは言う。

 あれは誰かしら、ここへ来たら何て言うかしら。――彼はきっと遠くから「蝶々さん」って言うに違いないわ。

 一瞬、歌もピアノも消える。そこからそっとはじまる言葉は、彼女の不安をよくあらわしていた。疑問形の言葉が音楽にリズムをつくる。――プッチーニはこういうのがうまい。歌い手と聞き手の感情の共感を呼ぶのが――同化させるのがうまいのだ。それをみそらのかわいらしい声がつむぐからより胸にせまる。そしてふと思った。

 もしかして。もしかして――蝶々さんは気づいていたんじゃないだろうか。あの気まぐれな「アメリカのヤンキー」が自分のことを遊びの恋の相手だと、何も理解していない幼い少女だと見なしていたことを。帰ってこない可能性もわかっていて、それでいて信じていないと倒れそうで、愛の証である金髪の子どもの存在と「戻ってくる」という夫の言葉だけをよすがに生きて来たことを。自分の生きている場所が、待ち望んでいたはずのピンカートンの帰郷とともに崩れていく可能性がどうしても消せないことを――

 そこまで考えて、葉子ははっとした。そうか、――これだ、これだったんだ。

 こういった有名なオペラもピアノ曲も、ある程度、解釈の定石というのはある。それをいかに個人のものまで落とし込めるかが、学生の本分であり、かつそれ以上の何かを見つけていくのが、音楽をなりわいとする――音楽と生きていく者の命題でもある。みそらの歌にはそれがはっきりと感じられるのだ。

 さらに、山岡みそらの歌には多彩な背景がある。もしかしたら蝶々さんがこのとき本当は知っていたかもしれない、このときすでに覚悟を決めていたのかもしれない。いや、それよりも、もう、輿入れのときからすでに――そういった「もしかして」が垣間見える歌い方をするのだ。それはみそらの緻密な下調べと妥協のない解釈の連続によるものだろう。

 だからだ、と、ここでやっと葉子は腑に落ちた。そうか、――だからわたし、みそらだったんだ。

 自宅生の副科声楽のレッスンの講師候補は誰でもいいわけではなかった。それは当然だ。それでも山岡みそらをほとんど無意識に選んだ理由は、年齢でも容姿でも仲の良さでもなかった。音楽に対する取り組み方だったのだ。

 みそらの柔軟さ――「こういうキャラクターかもしれない」という、学ぶ人の分だけある考え方を、決して無下むげにしない柔軟さ。それは二年生のときにやった『私の名前はミミ』も同様だった。解釈の多様さは教える側である講師にとっては欠かせない要素だと、葉子個人が考えている姿に、みそらが合致したからなのだ――

 私は返事をせずに隠れるのよ。半分は冗談。でも、もう半分は……会えた嬉しさで死んでしまわないように……! そうしたら彼はきっと心配になって声をかけるのよ……。

 かすかなささやきから一気に膨れ上がる蝶々さんの苦悩が講堂内に広がっていく。

 ああ、絶唱だ。思った瞬間、自然と涙がこぼれたのがわかった。瞬間的に、一気に自分の心が彼女と同化したのがわかる。

 蝶々さんが最後に歌うのはこの曲ではない。ピンカートンとのあいだに生まれた子どものことを思って歌うのが、彼女の、日本人としての矜持に満ちた最後の歌だ。

 けれどこの愛する人を待ち、待ちわびて、どれほどにも空想を、月日を、眠れぬ夜を重ねて、「半分は会えた嬉しさで死んでしまわないように」と語るその歌は、まさに絶唱であり、蝶々さんの辞世の句にほかならないのではないか。母としてではなく、一人の女性としての。ひとりの恋をする若者としての。

 ここまで、と葉子は思った。ここまでできるようになったんだね、みそら。数ヵ月前に「誰一人手を握らせない高潔な女性を演じて」なんてことを言った気がするけど、そんなもの――そんなもの、軽々と超えてしまっている。たおやかな――決して手弱女たおやめなだけではない日本女性らしい姿を、イタリア語で、しかし日本語の風情まで織り交ぜて歌えるようになるなんて。

 そうして蝶々さんはスズキに向かって言うのだ。笑顔で。自分を鼓舞するように。これまでのすべてのことがらをその細い体に背負って。

 きっとそうなるって、あなたに約束するわ。だから――だから不安にならないで。私は彼を信じて待つわ。

 高い音のロングトーンもいっさいぶれることなく毅然と歌い終わり、それでも蝶々さんはまだそこを動かなかった。オーケストラの要素を内包した伴奏が流れていく。それが終わりに向かうにつれてそっと顔をそらし、――そのまま舞台の上手へと静かに歩いていく。その場所には美咲がいた。

 ピアノの残響が講堂から音が消えた。――拍手はない。

 これは、と葉子は思った。もしかして――あっけにとられたのか。タイトルを知っていても曲の中身まで理解しているなんてことは、ほかの専攻ではなかなかない。そこに予想以上のレベルのものが出てきて呆然としてるのだ。これはほんとうに言いカンフル剤になったな、と思い、さてどうしようか――と思案し始めたときだった。


(7-4に続く)

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