9
帰宅したのはもう夜になってからだった。
部屋の電気をつけ、開いていたカーテンを閉める。外に見えるのは光がまばらについたマンションがほとんど、そう遠くないところで高架を走る電車の音がする。空の広さは地元とは比べられなかった。それでもこの景色に慣れた自分も感じていて、それが嫌だとも、もう思うこともない。
その窓を背にゆっくりと部屋に座っているのが、葉子の相棒――小学校高学年のときから使っているグランドピアノだ。あくまで学習用としてラインナップされた比較的安価なシリーズだが、その明晰な色をまとう弦の様子はいつになっても見飽きない。無意識に表情がゆるんでいるのを自覚して、葉子はピアノにそっと触れた。
いまなら言えるのではないかと思った。電車に乗っているときから少しだけうずうずしていた心地がまだ消えないどころか、ますます膨らんでくる。
荷物を床に放り出したまま、スマホを取り出して名前を見つける。しばらく前にかけたばかりだったので履歴からすぐに見つかった。
ひとつ、ふたつ、みっつ深呼吸してタップし、耳にあてる。コール音は五回ほどだった。
「もしもし」
「もしもし、もう家帰ってる?」
「うん、帰ってるよ。どうかしたの?」
電話口の
「今日の、どうだった?」
「今日の? 全部は聞いてないけど」
「いいよいいよ。聞いてるところで」
「じゃあ……相変わらずみっちゃんよかったよね。なんていうか、もうだいぶ、あの化け物を手懐けてる感があって」
「化け物って……ピアノのこと?」
「そー。みっちゃんはどこでも弾ける子だなって思った。でもどこでも弾けるからいつでもやめれるんだよね。そうならないといいなって。先輩としてはおせっかい焼きたくなるわけ」
自分が考えていたことと似たようなことを言う生徒に、葉子は軽く呆然とした。わかっていたのか、この子は。
「ひとりにしておくのは惜しい才能だよね。せめて誰かがいてくれるといいって思うんだけど、まあそこは時間の問題かなって気もするし」
「……そう思う?」
「おもうよー。俺とやってあんだけ弾けるんだもん。もうすぐに捕まえに行っちゃえばいいのに、って思ってます」
誰を、とは言わないけれど、それが誰なのかは葉子にもすぐわかった。思わずくすりとすると、「で」と颯太が言葉を継いだ。
「用ってそれ?」
「あ、ごめん、ちがう。いまのは余談」
「え、余談なんだ。ほかの感想はいいの?」
「それは――」
聞きたい、と正直思った。でもいまの本題はそれではない。
「それは今度のレッスンで聞かせて。――あのね」
そう言って、言葉を継ごうとしてかすかに声帯がから回るのを感じた。ここにきて怖気づくなんて。溢れそうになる何かをこらえるように葉子は息を吸って、吐いて、そうしてもう一度吸って、言った。
「わたし、病気をもってるのがわかったの。婦人科系の病気で、命に直結するものじゃないんだけど」
電話口がしんとする。音声が途切れたかと思って葉子は一度スマホ画面を見て、通話時間の数字がカウントされているのを確認してからもう一度、「颯太?」と呼んだ。
「聞こえてる? 切れたかな」
「……あ、ごめん、聞こえてる」
めずらしくぼんやりとした声が返ってきて、それから大きなため息が聞こえた。
「もーなに、びっくりしたんだけど、どういうこと?」
あ、動揺してたのか。命に関わらないっていったのにな、と思いながら「ごめんごめん」と葉子はとりなす。
「卵巣に良性の腫瘍があるんだけど、のちのちめんどうなことにならないように手術することにした。けど、良性とはいえ実際に手術しないと絶対に良性とは言い切れない、らしい。場合によっては子宮の一部摘出もあるかもしれないし、それがなくても、しばらくは薬を飲んで再発を抑えると思う」
「――つまり?」
いつもなら察して「そういうこと」と言うところを、これもめずらしく颯太はそう返してきた。
「子どもは望めないかもしれないし、望めたとしても、すごく遅くなるから、そういう点を期待するなら、それには応えられないかもしれないことは、伝えないとと思った」
電話口はもう一度静かになる。わかりにくかっただろうか、とちょっと言い換えを考えていると、「先生ってさあ」と少し呆れたような声が聞こえた。
「なんでそんなポンコツなの?」
葉子は軽く絶句した。え、ポンコツって、え、――これ、十歳も年下の子に言われること? しかもいまの話の流れで? まじか。この子まじでか。すごいな特待生。
あっけにとられたまま、葉子はなんとなく自分の部屋にあるピアノの蓋を開けた。フェルトをゆっくりと取ると表れる、白と黒に並ぶ鍵盤を見ると自然と心が落ち着く。そこに颯太の軽やかな声が聞こえてくる。
「こないだ言ったじゃん」
「え、何が」
「先生が死にそうなとき、どっちを選ぶか。あれ、選ぶのが先生だったらまた変わるよね」
「え。変わるって――どう」
「先生は俺の大事な大事な演奏会があっても、もし同時に生徒に何かあればそっちを優先する」
言われてびっくりして目を瞠った。たしかに――そうかもしれない。
「だから、それでいいんだよ、先生は。先生なんだから、一番大事にするのが生徒で当然なんだよ。だから俺、先生のことが好きなんだから」
ストレートな言い方にいっそ感心してしまった。と同時に、先ほどの
「わたしは、みっちゃんとか颯太のことがうらやましいんだよ」
「うらやましい?」
「そう。みっちゃんは縛りなくいつでも弾けるようになっちゃってるし、颯太だって四年間全部特待生だったのにわたしみたいに折れなかったでしょう。正直たまにうらやましくてこのやろう、ってなる」
やや捨てばちな葉子の言い方に、颯太は「なにそれ」と明るく笑った。そしてそのままのテンションで続ける。
「それさあ、先生が俺たちのことちゃんと守ってるからちゃんとやれてるんだけど。先生ってそういうところ全部すっ飛ばすの、ほんとポンコツだよね」
「……生徒が楽しく勉強するほうがいいっていうの、普遍的なんじゃないの」
「そうだとは思うけど、先生はちょっと愛が重いんだよ」
愛が重い、という言い方にちょっとぐさりときた。やっぱり小野先生に怒られそうな気がする。
「でもさ、だから俺とかみっちゃんとかはやれてるんだと思うし、ほかの生徒さんもそうじゃない? 俺が見る限り、先生のところの三年生ってそういうの多そうな感じだし。でも先生って一緒に背負ってくれるから、だから弾けるんだよ、きっと」
一緒に背負う。そうなっているのだろうか。今日の発表会の景色を思い浮かべてみる。小ホールの薄暗い照明、舞台だけ煌々と照らされて、そこにいる生徒の中はきっと、自分のアイデンティティさえも断罪されるような心地を抱えることもあるはずの場所。
「ね、先生」
「うん?」
譜面台は立てて楽譜を出しっぱなしにしていた。広がっているのはショパンのスケルツォの三番、今日、清川
「結論、こないだの返事は『イエス』でいいの?」
うっわ、まじでストレートに来た。心臓が急に跳ね上がる。空いていた右手をそっと鍵盤に載せて、葉子は言葉を振りしぼった。頭に血がのぼって軽く頭痛がする。
「……たぶん」
「たぶんって」
一世一代とも言えるような硬い声の返事を聞いて、でも颯太は笑った。急かすでも返事の曖昧さに怒るでもなく。
「でも、たぶんでもいいよ」
「そう?」
「うん。だから先生、音楽と生きていくなら、俺と生きていくのも選んで」
――ほんとまあ。葉子はいっそ呆れた。この子はどうしてこう、肝が座ってるんだろう。そう思うと、ときめくとかそういうことを、感心とか、心強さがぐんと追い上げていく。告白されたらときめくのではないのかと自問し、――そうじゃないのか、と思い至った。
そうか、だからだ。だからわたしは颯太なんだ。
互いの一番大切なものを理解した上で、互いの人生の責任をそれぞれに担う。葉子にとっての大事なものが颯太にとってのイコールではなくとも、それを理解して許してくれることが大事なのだ。それこそ、母のように。
わたしが一緒にいることで先生が歌ってくれるならそれでいいの。いつか聞いた
葉子は小さく微笑んでいる自分に気づいた。無意識に胸にためこんでいた空気が、ふっと風船がしぼむように抜けていく。
「じゃあ、――願掛け」
「願掛け?」
脈絡のない言葉に聞こえたのか、颯太の語尾が上がる。それも微笑ましいなと思いながら、思いついた提案を口にしていく。きっとこれが今の正解だろう、と思いながら。
「手術が無事に終わって、一ヵ月の経過観察も問題なかったら、答えを言おうと思います」
「わ、具体的な内容でてきた」
「遅いかな?」
「全然。あ、でも、手術の時期は聞いときたい」
「あ、ごめん抜けてた。八月の上旬。こっちで受けるよ」
「地元じゃないんだ?」
「経過観察を地元にすると通いづらいんだもの。薬も含めると長期戦になるからね」
それからも、どう考えてもレッスンでのやり取りのテンションでしかない会話をして、通話を切った。雑に閉めたままだったカーテンを整え、荷物を引き上げ、そしてピアノの前に座り、楽譜にそっと手を当てて手術までの残りの時間を考える。
――どうあってもそこまでは生きる理由ができたな、と思いながら。
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