10
木村先生と昼食をご一緒したときと同じように、翌週も良い天気だった。朝と夕方に一錠ずつ薬を飲む生活にも慣れてしまったけれど、それでも毎回アプリにメモをとっていく。体調の変化も含めてだ。
朝ご飯を食べてくる余裕がなかったので学食に向かう。楽器の近くで食べ物を扱うのが好きではないので、荷物を先にレッスン室に置き、
八ヵ月、と、奈央と話したことを思い出す。手術中は麻酔でしっかり意識が飛んでいるので問題なかったけれど、麻酔が切れたあとのリカバリールームでの一夜は地獄だった。癒着がひどかったらしくてそれを焼き切ったのだったか、痛み止めを打ってもらっても痛くて眠れないし、だからスマホ持ち込みが許可されていたことに心底感謝した。いまの病院ってそうなんだ、と思いながら、音は出せないのでダウンロードしていた本などを読み漁る。同時に薄暗い部屋で小野先生や奈央にメッセージを送ったりしながらなんとか一夜を明かし、朝になったら今度は自分ひとりで歩いて病室に戻った。
そんな痛みすら、この八ヵ月という時間は薄れさせるには十分だった。薬を飲み続けていないと、自分にそういう病気があったことさえも忘れそうになる。いや、まだ服薬での治療は続いているけれど、その薬のおかげで生理が来ない楽な生活にも慣れて、もうこれは戻れないな、とも思う。仕事をするにもとても楽で、みそらたちがピルを選択している正当性を何度も再認識する。
それと同時に、これも伝えることに入るのではないかとも思った。ピルを活用するメリット自体を知らない生徒も、ピルそのものへの偏見もまだ多い。自分の音楽と不安なく向き合っていくための手段のひとつにそれがあるということを、様子を見ながら生徒に伝えていくことも、いまはこっそりやっている。
そうやって足元を照らす光が多くなれば多くなるほど、みんなが歩いていきやすくなる。講師とはそういう段取りを整えることもできる立場なのだと思う。そのために先に生まれたし、先に病気になったのだ。これもまたギフトなのだろう。
それにしてもコンビニのたまごサンドイッチってなんでこんなに質がいいんだろう、塩加減もちょうどいいし、パンはふわっふわだし。ほんと自分で作る労力を考えると買うほうが合理的すぎる。と感心していると、
「せんせー、今日たまごなの?」
という軽やかな、それでいてまろやかな声が聞こえた。顔を上げるとざざ、と風が流れていって木々を揺らす。影と光が交錯して視界が揺れる、その奥にいる姿をまぶしく見やると、左手の四の指にあるかすかな重みがまた体を震わせるような気がした。
「今日、レッスンだったっけ?」
「え、昨日言ったのに憶えてなかったの? 日程入れ替えって。山本先生、来週演奏会でいないから」
そうだった、と葉子は目を閉じて軽く天を仰いだ。まなうらに光るプリズムを感じながら、以前ポンコツだと評されたことを思い出し、あながち間違いではないと心の中で唸る。
揺れる梢を見上げていた颯太は、ふいに「あ、そっか」と声を上げた。
「
「ああ――」葉子は思い出して、たしかに、と思う。
「あれも
「わたしも読んでないからなあ……あきらあたりにでも聞いてみるかな」
「あれさ、六花も策士だよね」
小さく笑って颯太が言う。葉子が視線を送ると、颯太はそれに気づいて首をかしげて笑った。
「あれだと、菊川はノーって言えないもん。一旦とはいえ、呼び戻す手段としては最強のカードだと思ったけど」
葉子は少し呆れた。そういうことをたとえ相手を選んでいるとしても率直に、嫌味なく言えるところが、やっぱり颯太と
「久しぶりに菊川にも会えるかもしれないってことは、素直に嬉しいわね」
「うん」
屈託なく笑って、それから颯太は続けた。
「このあと誰だっけ、レッスン」
「みっちゃん。あ、見ていく?」
「いいの?」
「みっちゃんが嫌だって言わなかったらね」
「じゃあ練習室キャンセルしようかな。卒試の曲きまった?」
「どうだろうね、まだ小野先生とのはざまで悩んでる気がするけど、でも木村先生もいらっしゃるから、いろいろ考えてると思うよ」
「そか」
短いながらも嬉しさのにじむ声だった。江藤颯太と
ふと思いついて葉子は言った。唇についたたまごフィリングを右の一の指でぬぐう。
「颯太さあ、先生っていうの、ずっと使うの?」
「先生?」
「わたしのこと。もう卒業もしちゃってるし」
葉子の言葉に楽器を椅子の隣に置いた颯太は、「ああ」と軽く考えてからまた屈託なく笑った。
「だって先生は先生だもん。卒業しても変わんないよ」
そこが颯太の線引きなのだろうな、と思う。
と、そこで芋づる式に思い出す。
「あ、今日だけど、先週言ったように麻里子先輩と会ってくるから」
うん、と颯太は軽い調子でうなずいた。梢の影がうっすらと颯太にかぶっていて、名前のとおりだな、と思う。
「もしかしたら先輩の代理で、木村先生の伴奏、打診されるかもだけど」
「先生がきつくないならいいんじゃない? 体調、落ち着いてるでしょ」
あっけらかんとした返答に何て返そうかと思っていると、颯太はちょっとだけ笑った。いたずらっ子のような表情だった。
「そのくらい大丈夫だよ、仕事なんだし」
その余裕がいっそ小憎らしく、そして愛おしくもあった。こんなときにも、音楽で食べていく、その覚悟が垣間見える。
麻里子先輩からおめでたの報告があったのは、先週木村先生と昼食をご一緒した、その日のことだった。たまたま連絡しようとしたところで先にあちらからメッセージが届いて知った。――一年ほど前から不妊治療を行っていたことも。
何が降ってくるかは、本人にはわからない。この世の事象のほとんどは、予防策を立てることすら難しい。でも、そのあとに何を選び取るかは本人次第だし、そこに誰かがいてくれるだけで、その選択肢は広がる。
そうやって、カンテラの光をつないでいければいい。その少しの手助けをするのが講師の役目でもあるのだろうから。
「いまの四年生、かなりいい感じになったよね」
「うちの子たち?」
葉子が言うと、颯太はうん、とうなずいた。さわさわと木々が揺れて颯太の周りをいろどっていく。
「卒業しても同期で演奏会なんてやるとおもしろそうだなって思って。そうしたらみんな、続けていくきっかけにもなるだろうし」
「ああ――いいね、それ」
四年生に残された時間はあと一年もなく、実質半年と言っていいかもしれない。たった五人でここまで来た彼らの未来はもうすぐそれぞれに分岐するけれど、そういう形で行く先を守るのもありかもしれないなと思う。
「場合によってはほかの楽器も入れていいかもと思うし。でもそうなるとメインでそれやるのはみっちゃんか」
先生は俺のだしね、と続ける。ぐう、とサンドイッチが喉に詰まりそうになり、葉子はそれをペットボトルのお茶で流し込んだ。それを見て、「約束したじゃん」と颯太は言った。
「ずっと前から。あれずっと待ってるからね」
「……わかっておりますよ」
葉子は小さな声で認めた。まだあれは颯太が三年の頃だったなと思う。そしていまもそのときとおなじように、すぐそばには彼の楽器がある。
あ、と颯太が声を上げた。手にはスマホがある。
「みっちゃんから返事きた。聴講おっけーだって」
「……仕事が早いことで」
葉子が言うと、颯太は「でしょ」と笑ってスマホをしまう。久しぶりに前任の伴奏者と会えるのは素直に嬉しいのだろう。表情と雰囲気にだだ漏れだ。ほんとうに可愛い。
ここには音楽が、――いや、世界には音楽が満ちている。そこはときにとても残酷な場所ではあるけれど、それでも光をつないだカンテラがあれば、もう少し、生きていこうと思えるのだろう。
葉子は手を合わせ、ごちそうさまでした、と小さく言った。年度が変わったその変化も少しずつ肌になじんできた。空は高く、初夏の色に染まっている。風も爽やかで、この季節に生まれてよかったなと思うのはこういうときだ。
立ち上がり、二人でテラス席をあとにする。生徒を送り出すための時間がゆっくりと灯されていくのを感じながら、葉子はレッスン室へと歩いていった。
[カンテラをつないで 了]
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