8
大型連休明けの発表会が
いまでは人数も増えたけれど、別々にする気は
プログラムも小野先生と一緒に組む。自分の門下の冬の発表会のように曲被りを考慮していると大変なことになるので、こちらではそれはやらない。とはいえそうそうかぶることはなかった。自分と小野先生の選曲のくせが違うのだろう。
森田に関しては今後の進路も踏まえ、多少小野先生の意見も反映している。それ以外は、それぞれが春休み中に考えてきた選曲は、いずれも「らしい」と言えるような選曲になってきていて、それがなんだかうれしかった。
あれから奈央は、少なくとも表面的には持ちこたえているように見えた。MRIの予約を取ったなどという情報交換も続いていて、話すたびに葉子も自分のことがひとつひとつ昇華されていくような気がしていた。
合同発表会はいい天気だった。初夏の陽気を感じながらホール――人数が多くなったので、一昨年から場所は講堂よりもやや大きな小ホールになった――に入ると、やはり空気が違う、と思った。自分もここで何度も演奏したことはあったけれど、パイプオルガンを備えたこの場所は、日常と一線を画す、なにか、魔力のようなものがある。
会自体も一部と二部に分けられている。前半が午前中で一、二年生、午後が三、四年生だ。
奈央のいる三年は比較的仲がいい。学年や専攻に限らず、ギスギスするグループはどの門下にもありがちだけれど、てんでばらばらなのに仲がいい、という印象が三年生にはあった。今日も五人で同じような場所に座席を取って、プログラムを見ながら楽しそうに話している。奈央の様子は――大丈夫そうだ。薬を飲み始めたと言っていたし、そうすればいくらか気が紛れる――前に進んでいるという感覚があるではないかと、自分とも照らし合わせながらそう葉子は思った。
どちらかというと牽制しあってるのは二年生なんだよなあ、と葉子は自分の門下の二年生を見た。門下が違うとはいえ同じ学年の生徒がいるので、小野門下の生徒と一緒に座っている生徒もいる。難しい、と思う。三年を見習ってほしいような、でもその緊張感を保っていてほしいような。
小野先生と雑談をしながらもそんなことを考えていると、午後の部、三年生の演奏がはじまった。最初は小野門下の生徒から。相変わらず細かいパッセージが美しく、小野先生のやり方だ、と思う。これにどれほど、現役のときに苦しめられ、そして夏井先生の別のアプローチのおかげでどれほど助けられたことか。
そう思って、そうだ、ダブルレッスン、と思いつく。
葉子自身が
考えているうちに小野門下二人の演奏が終わり、その三谷夕季の出演順がやってきた。舞台に上がる弟子を見ていると、相変わらずここにいることが不思議なくらいに落ち着いている子だ、と思う。ぱっと見、都心部にある大学の法学部とか経済学部に通っています、とでも言われたら知らない人は納得しそうな雰囲気なのに。そう思いながら葉子は待った。彼が準備を整えるのを――変容するさまを見つめる。
不思議なことに、弾かせるとピアノのそばにいるのが正解にしか見えない。三谷夕季はそういう子だった。おそらくあまりにも楽器が身近にあったのだ。だからいつもふいにそこに――音楽の場所に行けるのだろう。
それは葉子にしてみればうらやましいこと以外の何でもなかった。わたしはいつも追い詰められるように弾いていた気がするのに、この子は息をするように弾く。だから颯太の伴奏もできるのだろう。けれど、それが一部の人間を――葉子だけではなく、同じ学年の同じ専攻の生徒を知らず追い詰めていることを、本人はまったく自覚していないだろう。ある意味三谷夕季も
だから葉子は率直にうらやましい。教えているあいだ、ずっと思っていた。
みっちゃん、わたしもそこで生きてみたかったよ。水のように流れて、ただ息をするように向き合うだけの場所に。だからこそ――だからこそ。
それが途切れないようにするのが葉子の、講師の、役目だ。その音を、黒く
そんなことを考えていると、演奏時間はあっという間にすぎた。そもそも超絶技巧練習曲一曲なのでそんなに時間がかかるわけでもない。三谷夕季は余韻までしっかりと聞き届けて、それから鍵盤から手をおろし、そして立ち上がった。
また変容したな、と思う。いつものみっちゃんだね。どっちもみっちゃんだけど。そんなことを思う。悔しさもうらやましさも、もう何度も胸を行き来してしまって、それが日常になってしまった。病気には
次に舞台に上がったのは清川奈央だった。黒のワンピースで整えた衣装はTPOをよく把握している。ほかの生徒ができていないということではなく、奈央もまた「見られる側」にいることをよくよく理解しているのだ。木村先生とは異なる場所だとしても、未来の自分の職責を。
ゆっくりと奈央は椅子の高さを調節した。焦る様子はなかった。奈央は必ずしも上位に食い込むような生徒として入学してきたわけではなかった。普通の、ごく普通の女の子だった。ピアノの先生に憧れて、それになろうとするひとりの女の子だった。
椅子に座ってひとつ息を吐く。それを見て葉子も同じように息をする。つられるというよりも、自分も弾く前に同じようなところで呼吸をするからだ。そういうところも似るのだろうか、と思いながら、時間を引き寄せていくようなわずかな間を、奏者に導かれるように待つ。
ユニゾンによる低い、不穏なイントロが響く。そして両手のオクターブがたたみかけてくる。それが数回繰り返されると、三連符にも聞こえる、どこか急かすようなそのリズムが一気に爆発し、
豊かな音形とめくるめくような旋律運びはショパンの真骨頂とも言えた。奈央が言っていた「ショパンエチュードを弾いてれば、この曲って実はかんたんなんだね」という言葉もあながち間違いではない。それくらいに基礎が詰まっていて、それでいて曲に備わっている情景というものがあざやかに――おそろしいほどの激情を伴って黒い
左手のオクターブが押し上げていく上で右手の和音が慟哭を奏でる。かと思いきやまたきれいな花びらが――いや、――風景が、変わった。
和声が変わる。深く沈むような低音と、ひらひらと舞い落ちる高音。それは――この目では見たことはないが、映像や写真で知るショパンの故郷であるポーランドを連想させた。踏みしめられた枯れた大地、そこに舞い落ちる、寒い、寒い冬の、雪――
その中から湧き上がってくるものは民族としての誇りか。幾度も他国からの侵略に遭い、その度に支配者の血が混ざり合ってきたという国。それでも自国ポーランドの矜持を忘れまいとした作曲家の、何か、生命の根底にあるようなものが音となってうねっている。波のようにそれは大きくなり、高くなり、自分さえも飲み込まんばかりの思いとなって会場へと押し流されていく――
最後にさらに畳み掛けてくるのは彼の激情か。何を思ってこのような音形にしたのか。何を訴えかけようとしているのか。それはまだ葉子にもわからない。わからないというよりも、それもまた変容するものなのだ。自分のそのときの心情で見えるものが変化していく。いま、清川奈央が見ているものは――ままならないものへの怒りなのかもしれないとも思った。体のこと、それによってずれこんだスケジュール、変わってしまわざるを得ないものに対する哀しみ、無力さ。でも、それでも――
かならずどこかに晴れ間があるのだ。この曲には。どれほど寂寞とした冬を迎えようとも、かならず雪解けは来ると。
音楽にはかならず印象――イメージがある。それを描き出すのはまた奏者の心でしかない。それが同じ曲であろうとも違う人が弾けば違う曲に聞こえる
けれど、その音楽の芯はここにあると、清川奈央の演奏はそれを訴え、かつ自分にいい聞かせるような演奏だった。
両手のユニゾンが走っていく。そして両手のオクターブが吠える。なんとシンプルで美しい、そして救いを諦めない曲だろうか。
生かされている。
そう思った。これほどに長きにわたって愛されるクラシック音楽。斜陽産業と言われて久しいものが、それでもこうやって新しい世代が受け継いでいくさまを目の当たりにして、ふいに理解した。
生かされているのだ。音楽に。だからわたしたちは、生きることを、諦めきれないのだ――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます