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 へんだな、と思うことは何度かあった。でもそれはじわじわとしたものだったと思う。よく「むしばむ」という表現をするけれど、葉子ようこの感覚としてはまさにその言葉のとおりだった。

 生理痛がひどい。なんだか以前よりひどくなっている気がするから、市販薬じゃなくてとりあえず一回婦人科に行ってみよう。じゃないとイライラしてしまって仕事に差し障りが出てくる。そうなると生徒に迷惑をかけてしまうからそうならないうちに――動機はそのくらいだった。

 そうして近くの婦人科に飛び込みで行ったのが、去年の年始のことだった。年度で言えば二年前になるが、実際にはまだ一年と数ヵ月しか経っていない。

 問診票に「生理痛がひどい」などを記入し待合で待つ。ほかに数名いたけれど、いずれも妊婦さんなのかな、となんとなく思いながら待っていると、しばらくして名前を呼ばれた。対応してくれたのは男性の医師だった。特に抵抗はないのでそのまま診察を続ける。問診票をもとに口頭で確認し、エコーを撮ったら、「あ、あるね、これ、結構大きいんじゃない?」という医師の声が聞こえる。あるのか、と、――瞬間的にほっとした。むしろ何もないほうが困るとさえ思った。ここで何もなかったらまた一から対処法を探さないといけない。そんな時間はもったいなかった。少くとも葉子にとっては。

 子宮内膜症の中でも比較的多く見られるチョコレート嚢腫のうしゅ、大きさは九センチ。医師が提示した選択肢は二つだった。「いま手術の手配をしてどの薬を飲むか選ぶか、いったん手術の時期は考えてまずはどの薬飲むか選ぶ」――どっちも薬は飲むし手術はするんじゃないか、とつい笑ってしまうくらいには冷静だった。

 先生の言い方が、あえてなのかこの病気が多いからなのか、深刻そうではなかったのもあまり落ち込まずに済んだ理由のひとつかもしれない。実際的な話をしてくれるので、それをどうするか、ということに集中できたのだ。

 エコーの形を見る限り「悪い顔」をしていないからきっと良性のはずだけど、手術を視野に入れるならかならずMRIは必要。そのためには紹介状を書くから場所はどこがいいか目星をつけてほしい。薬は基本的にこの三つで、血栓なんかの副作用がほとんどないといわれるこれが一番使われている。飲み方は次の生理が始まって二日から四日のうちに飲み始めること。手術をするならするで、MRIを撮るところと違う病院にするならまた紹介状がいるから云々うんぬんかんぬん……

 こういうとき、一気にしゃべられても落ち着いて聞いていられるタイプなことに我ながら感心してしまった。特に混乱することなく必要な情報を拾って頭の中で整理していく。レッスンと同じだな、なんて思いながら一つの薬を選び、今どきめずらしい院内処方で会計とともに受け取ってクリニックを出た。そこでやっとほっと息をついた。空を見上げるとまだ当然ながら昼前で、冷えた風が頬を撫でると、そうか、これから学校に行くのか、と思う。空の色とクリニックの建物のコントラストがやけに目にしみたのはたぶん、資料などを一気に見たせいだと思う。

 移動しながらスマホで病気について調べる。症状としては生理痛や性交痛など、ひどい場合は破裂して気を失うことも――のところで、そこまでなくてよかった、と心底思う。さらには四十歳を超えたり、ある程度の大きさを超えると悪性に転じる可能性が高まるので、その場合は早めに手術を、と書いてあり、先ほど医師に言われた内容と合致することに気づく。なるほど、良性の可能性が高いから手術はかさないけど、サイズ・年齢的にはさっさとやっといたほうがいいってことか。

 駅で電車に乗り、運良く座れたので膝の上にトートバッグを置きながら、葉子は自分が手術に前向きなことに気づいた。手術に前向きというか――解決策が見つかったことに対して前向き、と言ったほうが正しい。こういう妙なところで前向きになれるのが自分でもよくわからない自分の性格のくせで、小野先生にも「あんたはわかりにくいわねえ」なんてよく言われたものだった。

 とりあえずMRIは撮ろう。で、手術は……今がまだ一月だし、できれば夏休みくらいだといい。そういえばこういうときのための限度額なんとかっていう制度もあったはずだ。その準備もしなきゃ。

 そんなこんなで予定を繰り合わせながら予約をし、一ヵ月ほどして、MRIの当日が来た。「閉所恐怖症ではないですか?」という言葉に「いいえ」と答え、中に入る。轟音がすさまじいのに音やリズムが一定なのでついいろいろと聴音をし、果ては脳内の五線譜に書き起こしてしまう自分に苦笑してしまいながら、撮影を終える。データをもらって紹介元のクリニックに行くと、やはり良性だと告げられた。

 正直ほっとした。あまり考えてはいなかったけれど、万が一悪性の場合だったら、仕事はどうなるんだろうと、そちらばかりが気になっていたのだ。急かされないこと、MRI撮影時にも何も言われなかったことを考えても悪性の可能性は低いとわかっていても、やっぱり確定するまでは怖いものは怖かったのだ。

 ただ、同時にもう手術をする覚悟も決まっていた。解決法があるのだ。ならばやってみるしかない。ていうか薬を飲みはじめて、若干だけど体調良くなってきたし。副作用も特に感じない、と医師に告げると、「薬があってたんですね」とあちらも喜んでくれた。これで次からは生理が来なくなるのだから、もしかしてラッキーなのでは、という気さえしてくる。

 要するに、葉子としては仕事にさえ支障が出ないのであればそれで良かった。それに――と、また一ヵ月分の薬がトートバッグに入った、そのかすかな重みを感じながら思う。

 それに、親にも言いやすい。

 葉子の実家は福岡だ。大学進学からこちら、帰省はすることはあっても、ドイツに行くかこちらに戻るかで、福岡に住むということからはずいぶんと離れていた。海外にいた頃も大きな事故なんかにも巻き込まれるわけでもなく、言葉の壁に苦しみつつ、練習に苦しみつつ、というあくまで学生らしい悩みで済んだのは、母から言わせると「あんたほど強運なのはなかなかいない」だ。だから今回もそうであってほしいと思う。手術となればきっとこっちでやるし、母はそれに合わせて来てくれるだろう。そのときにせめて、良性――仕事にも命にも影響は少ないんだ、と、それだけは安心してほしかった。

 その日、学校から帰って、夕飯を作る前に母のスマホに電話をかけた。心臓がいままでにないくらい――それこそ十年以上も前に受けた特待生試験の結果を知るときくらいに大きく跳ねている。どうしたの、という母の問いに、率直に病気のこと、手術をしたいことを話すと、母は言った。

「あんたのことだから、きっと自分でどうにかできるでしょ」

 ほっとして涙が出た。こんなに信頼されている言葉はない、と思った。これが突き放された言葉なのではなく、最大限の愛情表現なのだということは、この母の娘を何十年とやってきたのでもうわかる。遠くに行ったっきり帰ってこない、しかも結婚の気配もない娘に、急かすことなく、「どうにかできるでしょ」と励ませるその胆力こそ、人間として見習いたいものだった。

 手術の時期などはもちろん小野先生を含め学校にも相談し、八月の上旬を第一希望とした。同時に手術を行う病院も探す。何かあったときのためにも地元じゃなくてこちらで受けるというのは当初から変わっていなくて、リサーチを重ねた中から目星をつけた病院に紹介状を携えて足を運んだのが、最初の診察から二ヵ月ほどが過ぎた三月のことだった。

 ありがたいことに八月上旬に空きがあるようで、すぐにそこを仮押さえになった。こちらの先生も男性で、前回同様、非常にさばさばとして端的にものを言うのでまったく診察が苦にならないな、と葉子はこっそり思う。ついでに「術後のことも考えて、今飲んでるお薬がどのくらい効くかも確認したいので、これくらいの期間があるといいですね」とこれまた時期的にもラッキーが重なる。

 ただ、葉子をちょっとだけ凹ませた言葉のが、そのあとに続いた、同意書に関わる保証人についてだった。

 保証人となるのは、患者の親、子、配偶者、兄弟姉妹、保護者、三親等以内の親族、又は、それら近親者に準ずると考えられるものうち、満二十歳以上の者――

「ご家族は?」という問いに、「福岡に」と応える。じゃあこれまでにこれをこうしておいてください、という先生の説明はまったくよどみがなかったけれど、そうか、と思った。

 そうか、結婚しとけば、こういうとき、配偶者でいいんだなあ。

 べつに絶対に結婚しない、というつもりはない。ただ積極的にやる気がないのだ。けれど、制度上、めんどうなことや、しておいたほうが楽な場合もあるのだとあらためて突きつけられたようだった。

 通院の翌々日が、年度末に行われる特待生選抜試験の本選だった。自分の教え子でもある江藤えとう颯太そうた三谷みたに夕季ゆうきのコンビの演奏は最高で、久しぶりに体の細胞全部――きっと腫瘍さえも――が震えるのがわかった。絶対に颯太は受かる、という確信を得られる演奏だった。一方で、一週間後の結果発表に颯太の名前があったときは、信じてはいたもののほっとした。

 あ、これ、なんかこないだのMRIの結果を聞くときに似てるな、なんて思っていたら――

「先生、卒業したら、俺と結婚しない?」

 いや、その前に手術するんだけど。――じゃなくて。

 ――なんて言ったんだ? この子。

 いつものレッスン室、いつもの立ち位置。そこから見える景色、ピアノの大きさ、エアコンの乾いた風、見慣れた生徒の姿。自分がもっとも心地よく、そして緊張感を保って居られる場所で聞こえた言葉に、まるで四分休符が並ぶように疑問符が連続して浮かぶ。病気のことを聞いたときとは、正直、段違いだった。

 この子は――江藤颯太は、何を言い出したんだ、いったい。

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