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「え、やだ、
春休みが終わり、新年度に入ってから久しぶりに会った木村
「えー、わたしが仕事してる間にそんなおいしいことになってたの? ずるい、もうちょっと早く言ってよ」
「ずるいって……麻里子先輩がそれ言います?」
対面に座った葉子は呆れた。日曜日のカフェは人が多く、ざわめきがさざなみのように押し寄せては消えていく。だからこそ声をひそめるような会話にはもってこいの場所でもあった。そんな中でも先輩はやっぱり楽器の前にいるような落ち着きがあって、葉子の視線を受けながら彼女はストローを唇にあて、カフェラテを一口飲んだ。
「だってわたしとは逆じゃない。全然ちがうわよ」
全然って、どこが。と葉子は心の中で突っ込んだ。先輩の旦那さまは、あの木村先生なのだ。我が校の客員教授で山岡みそらの師匠でもあり、現役バリトン歌手の、木村
木村麻里子、結婚前の名前を鈴木麻里子という彼女は、葉子の二つ上の先輩だった。同じ小野門下の生徒であり、葉子に一年間の休学を勧めた人物でもある。
その先輩が木村先生と結婚したのは大学卒業後、葉子がちょうど休学していたときだった。それまで木村先生にも先輩にもそういった噂が聞かれなかったため、校内の一部ではかなりセンセーショナルな話題として人の口にのぼったものの、先輩が卒業していたということもあってそこまで長引くことはなかったらしい――というのは、当時学内にいた友人たちから聞いた話だ。
その頃の葉子といえば、それこそ先輩から紹介してもらった伴奏などをしながら体調と心を整えている最中であって、そんな話は通常のやり取りでは一切出てこなかったものだから、まさに青天の霹靂だったのだ。
当時先輩は二十三歳、そして木村先生は十歳年上の三十三歳。きっかけはおそらく、先輩の伴奏だ。先輩は長い間、木村門下の生徒の伴奏をしていたため、そこで毎週顔を合わせていくうちに――という流れだったらしい。先輩とは仲がよかったのに気づいていなかったのは、自分の観察眼がまだまだだったのか、それとも二人がきちんとしていたのか――まあ、どちらもだろう、と葉子は思う。
「で、なんて返事したの?」
先輩はほんとうに世間話のような雰囲気で促してきた。葉子は一瞬悩む。え、わたしが言われたことってそんなにめずらしいことじゃないんだっけ? いやいや、そんなまさか。
「……返事はしてないです。というよりもする余裕がなかったというか、びっくりして」
結婚しない? の次の言葉は、「返事はいまじゃなくていいから」というものだった。どこまでも漫画のようなことをする子だ、と思っていると、それを聞いた先輩も「漫画みたいねー!」と感心した声を上げた。いや、だから、先輩にそんなこと言われても説得力がないんですが。
「でも口を挟むすきがなかったって言っても、葉子だったら嫌なものにはすぐにノーって言っちゃうでしょ。それを言わなかったってことは嫌じゃないってことなんでしょう?」
「そういうものなんですかね……」
それは自分でもちょっと考えた。言えなかったのか、言わなかったのか、言えないように持っていかれたのか。――たぶん最後だと思うけれど。
黙り込んだ葉子を見て、先輩はむふふ、と笑った。漫画に出てくるような笑い方は大学時代から変わっていない。
「でもそうか、そういうことだったのかあ、納得した」
「何がですか?」
「葉子、ここ数年で化粧の手を抜かなくなったなと思ってたんだけど、そういうことかと思って。前は疲れたらもうあとは落とすだけだからって化粧直しもテキトーだったのに」
「それって今回の件となんか関係あります……?」
的を得ない葉子とは対照的に、先輩は生き生きと言葉をついだ。周りの空気に含まれた日常の音がうれしさで跳ねている様子が見えるようだ。
「大アリよ。化粧は武器だっていうの、葉子だってわかってるでしょう。それをしっかりするようになったってことは、その子との距離を取るためだったのね」
答えを見つけて言葉を弾ませる先輩とはまた対照的に、葉子は首をひねった。
「化粧で……?」
「そう。ちゃんと『先生』になろうとしたのよね、葉子は」
今度こそ意味がわかった。と同時に、先輩の観察眼の鋭さを久しぶりに感じて一気に落ち着かなくなる。この椅子、こんなに硬かったっけ。
「――だとしても、無意識ですよ」
「無意識にでもうすうすわかってたってことでしょう」
さらりと返ってくる先輩の言葉に葉子が何も返せないでいると、「ところで」と先輩は少し口調を変えた。
「どう? 調子は」
「ああ、――いいですよ。薬が合ってるみたいで」
「そう、それは良かった」
「なんなら生理来ないってこんなに楽だったのかと思って。もっと早く行けばよかったなって反省してるところです」
「まあいいんじゃないの、反省できてれば」
「そうなんですけど」
と葉子は一度言葉を切って、喉を自分のジンジャエールで潤した。ちょっとぴりっとくるこの甘味がいい。
「うちの生徒に――あ、副科のほうの生徒に、一年の頃からピルを飲んでる子がいて」
「あら、利口な子」
「そうなんです、――ほんとうにそうで」
生徒――山岡みそらはほんとうに
つまり、それくらいに真剣なのだ。四年間という学校生活に対して。そしてソプラノという役割に対して。
「ちなみに、木村先生の生徒です」
「そうなの? あとで先生に聞いてみよ」
先輩は外で話すときはいまだにずっと木村先生のことを「先生」と呼ぶ。もうくせになっちゃって、といつだったか聞いたときに苦笑しながら言われたけれど、そういうものなのだろうか。
「今だと服薬にも理解がある人も増えてきてるっていうからね。だから今回の件は葉子が悪いとかじゃないのよ」
柔らかい言い方に、葉子は肩をすくめた。何度も思っては自分でも否定しながら、それでも否定しきれないところにあることを率直に言う先輩のことを、やはり好ましく思う。
「――まさかと思うけど」
ふいに先輩の声に真剣な色がまざる。そういうときの先輩の音はいつもぴりっと肌が震えるようで、昔聞いていたピアノの音を思い出させた。
「病気のことが免罪符になるとか思ってないよね?」
一瞬、何のことかわからなかった。顔に出たのか、先輩は続ける。
「結婚のことよ。病気があるからって、それを免罪符に逃げようとか思ってないわよね」
「そんな――まさか」
言い返したけれど思っていたほど力のある声ではなかった。先輩の目は十年前と同じだった。「いいところのお嬢様の鈴木さん」では絶対にない、あの――小野門下を四年間、自分の力で生き延びた生徒の目。
「葉子は葉子の音楽から逃げちゃだめよ。その子がなんでそんなこと言ったのか、なんで葉子だったのかを、もう一回ちゃんと考えないと」
――ここでやめたら、葉子は葉子の音楽を手放すことになるんだよ。それでもいいの。
二年生のときに聞いた声のままだった。あのときのような肌にひりつくような音だと思いながら葉子が小さく「わかってます」と答えると、舌に残った味がまた葉子をつついていった。
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