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 その日の三限のレッスンは、四年生の清川きよかわ奈央なおだった。春らしい空色のワンピースでまとめていて、その姿を見ると、ああ、「先生」だな、と思う。奈央の進路希望は入学当初から変わらず「音楽教室のピアノの先生」で、いまは講師として必要なグレードの取得や、六月末に行われる講師採用試験、そして楽器店のチェックにと忙しい時期だ。下準備を怠らない子なのでそちらは大丈夫だろうと思えるが、気になることといえば、体調のことだった。

「調子どう?」

 開口一番の葉子ようこの言葉に、奈央は苦笑した。

「もう、葉子先生、心配しすぎだよ、毎週毎週」

「でもまだ……一ヵ月くらいでしょう」

「そうだけど、想像してたよりは大丈夫だと思うよ。そもそも開腹じゃないんだし、すごくありがたいよね、一週間程度で退院できるなんて」

 とはいえ、春休み前に比べたらやはり少しほっそりした、と葉子は思った。ワンピースの身ごろにやや隙間ができている。開腹手術ではなく腹腔鏡ふっくうきょう手術だったとはいえ、手術は手術なのだ。体に負担がかからないわけがない。これから先に控えているのは就活、そして卒業に向けた最後の追い込みだ。――いや、だからこそ春休みだったのだ、というのを思い返し、葉子は心の中で息をついた。ついこのことになると自分も前のめりになってしまう。静かにゆっくりと呼吸をし、もう一度奈央を見る。

「グレードと試験対策のほうは?」

「順調順調。エレと指導の四級と、ピアノ三級を三年のうちに取れてたから、いまはもう試験のほうに集中できるし――って言ってもほとんどグレードとも内容かぶってるしね」

 某大手音楽教室の試験はなかなか難しく、聴音ちょうおん、弾き歌い、初見、伴奏づけ、即興演奏、そして課題曲など、幅広い対応力が求められる。音大でピアノを専攻していたというだけでは受からない。現に音楽とはまったく関係のない学部・学科出身の先生というのも多いのだ。

「ラッキーなのは三谷みたにが教室出身だったことだよね。っていうか、それを聞いたとき納得した。あんだけ伴奏の対応力があるのはあそこ出身だったからか、って」

「たしかにね、移調いちょうも得意だし」

「素質があるってことなんだろうけど、でもまあ――私も、夏休み中に指導グレードの三級取得をめざすよ。エレクトーンはちょっと時間的に難しいかもしれないけど、せめて指導くらいは」

 清川奈央が見せた笑顔は溌剌はつらつとしていた。生まれてはじめての入院、そして手術という山場を越えて、さらに集中力が増したように見えた。若さか、それとも講師という職に対する期待か。

「それより葉子先生は? 私のことばっかりで」

「ああ、だってわたしは、もう――」

 思わず葉子は指折り数えてしまった。すぐに出てこない。歳だろうか。ちょっと落ち込む。

「八ヵ月だ。っていうかもうすぐ九ヵ月だもん、もうなんともないよ。傷もわかんないしね」

 奈央は「よかった」と微笑んだ。やっぱりちょっと角も取れたような、という気もする。尖っていたというわけではないが、――やはり考えることはあったのだろう。

 レッスンはいつもどおりだった。奈央の真面目な性格を反映している内容に、葉子の指導もつい熱が入る。三限の後半をあけているのはこういったときのためだ。もちろん希望の生徒がいなかったということもあるが、特に四年生にもなると積もる話もあるし、曲の指導がまず終わらないこともある。さらにいまは門下発表会の前でもあったし、卒業試験の曲を決める頃合いでもあった。

 いくつか曲について話し、来週までに意見をまとめてほしいという点を含め宿題を出す。奈央はグレード取得のために音楽教室のベテランの先生のもとにも月に一回から二回、レッスンに行っているので、そんなに宿題は多くないほうがいいだろう。何より心配なのは体調だった。本人はけろりとしてレッスン室から出ていったけれど。

 それが若さ――体力があるということなら問題はない。ただ、と思って、葉子は一人になったレッスン室で小さく息をついた。

 窓の外には青い空が遠くに広がっている。その手前にピアノと生徒のぬくもりがあるこの空間は、なんて小さな場所なんだろうか。そう思いながら鍵盤の固くてやわらかな質感に触れるたびに、まさかという言葉が胸に去来する。いつの頃からか切り揃えられた状態が常になった自分の爪と、そこからつながる指にあるひとつのアクセサリーが小さく光を反射した。

 まさか――なんの因果だろう。自分が去年の夏に受けたばかりの手術、それと同じものを、まだ二十歳を少し過ぎただけの弟子が、この春休みに、受けることになっただなんて。

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