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その日の三限のレッスンは、四年生の
「調子どう?」
開口一番の
「もう、葉子先生、心配しすぎだよ、毎週毎週」
「でもまだ……一ヵ月くらいでしょう」
「そうだけど、想像してたよりは大丈夫だと思うよ。そもそも開腹じゃないんだし、すごくありがたいよね、一週間程度で退院できるなんて」
とはいえ、春休み前に比べたらやはり少しほっそりした、と葉子は思った。ワンピースの身ごろにやや隙間ができている。開腹手術ではなく
「グレードと試験対策のほうは?」
「順調順調。エレと指導の四級と、ピアノ三級を三年のうちに取れてたから、いまはもう試験のほうに集中できるし――って言ってもほとんどグレードとも内容かぶってるしね」
某大手音楽教室の試験はなかなか難しく、
「ラッキーなのは
「たしかにね、
「素質があるってことなんだろうけど、でもまあ――私も、夏休み中に指導グレードの三級取得をめざすよ。エレクトーンはちょっと時間的に難しいかもしれないけど、せめて指導くらいは」
清川奈央が見せた笑顔は
「それより葉子先生は? 私のことばっかりで」
「ああ、だってわたしは、もう――」
思わず葉子は指折り数えてしまった。すぐに出てこない。歳だろうか。ちょっと落ち込む。
「八ヵ月だ。っていうかもうすぐ九ヵ月だもん、もうなんともないよ。傷もわかんないしね」
奈央は「よかった」と微笑んだ。やっぱりちょっと角も取れたような、という気もする。尖っていたというわけではないが、――やはり考えることはあったのだろう。
レッスンはいつもどおりだった。奈央の真面目な性格を反映している内容に、葉子の指導もつい熱が入る。三限の後半をあけているのはこういったときのためだ。もちろん希望の生徒がいなかったということもあるが、特に四年生にもなると積もる話もあるし、曲の指導がまず終わらないこともある。さらにいまは門下発表会の前でもあったし、卒業試験の曲を決める頃合いでもあった。
いくつか曲について話し、来週までに意見をまとめてほしいという点を含め宿題を出す。奈央はグレード取得のために音楽教室のベテランの先生のもとにも月に一回から二回、レッスンに行っているので、そんなに宿題は多くないほうがいいだろう。何より心配なのは体調だった。本人はけろりとしてレッスン室から出ていったけれど。
それが若さ――体力があるということなら問題はない。ただ、と思って、葉子は一人になったレッスン室で小さく息をついた。
窓の外には青い空が遠くに広がっている。その手前にピアノと生徒のぬくもりがあるこの空間は、なんて小さな場所なんだろうか。そう思いながら鍵盤の固くてやわらかな質感に触れるたびに、まさかという言葉が胸に去来する。いつの頃からか切り揃えられた状態が常になった自分の爪と、そこからつながる指にあるひとつのアクセサリーが小さく光を反射した。
まさか――なんの因果だろう。自分が去年の夏に受けたばかりの手術、それと同じものを、まだ二十歳を少し過ぎただけの弟子が、この春休みに、受けることになっただなんて。
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