番外編 カンテラをつないで

1

 レッスンが終わって生徒をまた一人、レッスン室から見送る。次は――と考えて、すぐにそうか、あの子はもういないんだった、と思い直す。ということはこれで、昼休みに入っていいわけだ。葉子ようこは知らず、ほっと息をついた。

 新年度になった、というのを痛感するのは、新しい生徒が入ってきたときよりも、こういう、ふと、「抜けた生徒」のことを思い出すときかもしれない。

 つい先日までは当たり前のようにいた姿が見つけられなくなる季節。窓の外を見るとすっかり春から夏にかけての青い空が広がっていて、あらためて年度が変わったのだと実感する。彼らを送り出す頃はまだ寒々しい色も混じっていた空がこうも明るく、すがすがしい色になるなんて。ヨーロッパなどが九月を新年度にしている気持ちがよくわかるというものだった。

 次のレッスンは三限の前半からだ。朝ごはんも抜いてしまったし、二限が終わっていない学生がほとんどだろうから、学食に行くなら今のうちだろう。毎週のことながらそんなことを思って、葉子は財布、スマホ、ハンカチ、部屋の鍵という最低限の荷物だけを持って自分のレッスン室を出た。

 鍵を閉め、まだ人気ひとけの少ない廊下を歩いていく。ヒールの音が響く中、考え始めたのは大型連休明けにある、小野門下との合同発表会のことだ。今週のレッスンでおおかたの生徒の曲目は決まる。一年生にとっては入学してすぐにこういった洗礼を受けることになるわけだけれど、これもまた毎年のことだ。ここを抜け出せたら一気に大学生になったという自覚がわいてくる生徒も多い。発表会後の学年別の飲み会――もちろん一、二年生はアルコールなしだ――で打ち解けることも多いと聞いている。やっぱり人をつなぐのもまた音楽なんだよな、なんてことを思いながら、階段を降り、中庭を抜け、あっという間に学食までやってきた。

 券売機もまだ混んでいない。葉子はいくつか頭の中でピックアップしていたメニューの中から、今日のラインナップに合致するものを選び、すぐにボタンを押した。今日はベタだけれどもはずれのない鮭定食だ。

 カウンターで受け取って座席側を振り返ると、ふいにめまいのような――妙な錯覚を起こすことが、まだ、まれにだけれどもある。

 振り返った景色は、学生のころ、毎日のように見た景色と大きくは変わっていない。でも体は間違いなく十年以上経過した分変わっていて、食事だってがっつりしたものは残念ながらあまり受け付けなくなっていて。変わったのは自分だけだろうか、と、そんなことを考えながら席を探していると、

羽田はねだ先生」

 背中がぞっと震えるくらいのうつくしい低音が名前を呼んだ。――この音を、葉子は一人しか知らない。

「木村先生、いらしてたんですか」

 テラス席が見える窓際の席にゆったりと腰掛けているのは、声楽の客員教授でもある木村利光としみつだった。プロとして音楽活動に携わるかたわら、こうやって音楽大学で後進の育成にも力を入れている。生徒のうち何人かは木村先生が地方に演奏会に行ったことがきっかけでこの学校をめざしたというのだから、なんとも罪な人だ、と葉子は思う。この声に、姿に、曲に、歌に惚れ込んだ人は、男女問わず多い。

「最近は時間があってね、その分早めに来てこうやって学校の様子を眺めているんだよ」

 先生は椅子を少し後ろに引いていて、そこで脚を組んでいた。日本人にしては脚が長いので、テーブルの下におさまらないらしい。眺めていた、という言葉のとおり、テーブルに食事をした様子はなく、代わりに駅前にあるコーヒーショップのカップが置いてあった。

 瞬間的に葉子が躊躇したのがわかったのか、木村先生は「どうぞ、向かいに」と勧めてくる。この声に言われたら従うほかないなあ、と心の中でぼやきながら、葉子は「ありがとうございます」と応えてテーブルに定食を置いた。それから財布、スマホもその横に並べる。

 年度始めの疲れもあってか、生徒と話すよりは木村先生と話していたほうが気が楽なのは本当だった。特にまだ一年生はこの時期は落ち着きがない。それにこうやって先生と差し向かいで話すのも久しぶりだ。いくら先輩の旦那様とはいえ、一介の講師と客員教授、しかも専攻が違っていては、普段の仕事での接点はあまりないのだ。

麻里子まりこ先輩、お元気ですか?」

「うん、元気にしているよ。年度末も終わって、彼女も少し余裕が出てきたようでね。そろそろ伴奏の打診をしてみようかと思っている」

 木村先生は指を組んで、嬉しそうにそう言った。

「仕事ができるから重宝されているようだし、なかなか休みが取りづらいとは言っていたけれど」

「仕事の愚痴なら、わたしも聞きましたよ」

「最近は会っていないんだっけ」

 木村先生に言われ、葉子は定食に手を付けながら、失礼にならないようにと返事をする。

「……考えてみれば半年――数ヵ月ほど、直接はお会いしてないかもです。先生とお話ししたり、先輩とはチャットもしているので、そんなに空いてる気がしないだけかもしれませんね」

「そうか、そうだったか。――羽田先生も最近はお忙しそうだ」

「いいえ、そんなまだ、ほかの先生方ほどでは」

「年度はじめの発表会の準備は順調かな?」

 こういうときにずばっと切り込んでくるのが木村先生だ。同時期に木村門下も新一年生を入れた発表会を行う。その情報交換も兼ねているのだ、と――今度は先ほどとは違った意味で背中が震える。

 こういうことをしてくるから、この世界の魔物っていうのは。そう思いながら、葉子は表情筋を総動員してにこりと微笑んだ。

「今週くらいには全員分、曲も出揃うかと」

「それはよかった。うちも同じだな」

「みそらは――そろそろ『からたちの花』、とかでしょうか?」

「さすがは羽田先生だ」

 木村先生が嬉しそうに身を乗り出す。

「先生の提案のおかげか、最近はさらにみそらも解釈に深みが出てきたように思う。特に日本歌曲は日本語を取り扱うだけに、その難しさも一段と深まるからね。でもまあ、みそらならいけると僕は思っているよ」

 葉子がみそらに――自分と木村先生の共通の生徒である山岡みそらに声楽講師の打診をしたのは、昨年末のことだ。数えてみればもうすぐその話をして半年になる。まだはっきりとした返事はもらっていないけれど、早く決めてほしいというのはこの時期の大学四年生には酷なことだ。ただ、本人が前向きにアプローチしているのは、木村先生の反応からも伝わってくる。

三谷みたにの様子はどうかな? 僕が見る限りはきちんと安定している――違うな、安定させることができている、かな。そう見えるけど」

 葉子は思わず苦笑した。みそらの伴奏者こそ、葉子の生徒である三谷夕季ゆうきだ。彼もみそらも、三年生の後半からはじめたインターンと学校生活、つまり練習との掛け持ちを頑張っている。頑張っている、というとなんだか簡単に聞こえるが、ともかく頑張っているとしか言いようがない。学生でありがながら社会人の末席に身を置く、その不安定さとの戦いは、おそらく二人が二人でいれるから耐えれているところもあるのではないかと思っているし、それはこの、目の前で微笑む美しいファントムもおなじだろう。この先達の前では、青二才の虚勢など何の意味もなさない。

「お察しのとおりです。小野先生のやり方にはまだ苦戦はしているようですけれど」

「そうか、ダブルレッスンか」

 木村先生は思い至ってひとつうなずく。そういう仕草ひとつひとつがさまになる。声楽家として、常に見られる意識があるのだ。

「しかし実際、伴奏にもいい影響はあるように思うよ。また音や解釈が鮮やかになったなと思うことがあってね。みそらの背景がいっそう華やかで奥行きがあってとても素敵なんだ」

「そうですか」

 葉子は率直にほっとした。まだ数回のレッスンのはずだが、木村先生がそう言うのならば間違いないだろう。

「小野先生は若干神経質なきらいはあるが、音の細やかさに関しての指導は一級品だ。――ああ、これは羽田先生が悪いのではないよ」

「もちろんです、承知しています」

 葉子の即答に木村先生もにこりとする。葉子の学生時代のことを木村先生は少なからず知っている。それがたまに気恥ずかしかったりもするけれど、こういうときには心強くもあるんだな、なんて思う。

「しかし早いね、四年生とは」

「……そうですね」

 木村先生が窓の外を見て言った言葉に、葉子もついしみじみとした口調で返してしまった。木村先生だってそう思うこともあるのか、という発見もありながら。

「いつかは手を離してあげないといけないのが師というものだ。そのために絶えず種をまいて水を与える。決められたタイムリミットの前でどれほどのことがやれるのか、いつも悩みは尽きないね」

 葉子はうなずいた。――先生だってそう思うのか、という共感ではない。これはきっと、自分が「もらいたい」言葉だと思った。木村先生はそれをわかって言ってくれている。

 葉子があらかた食べ終わったころ、木村先生は「じゃあ僕はそろそろ戻るけど」とカップを取った。白いカップの中は見えなくて、いまどれくらいのコーヒーが残っているのかもわからない。

「近いうちにまた麻里子に連絡してくれないかな。伴奏の件もだけど、いろいろ話がたまっているようだし」

「はい」

 じゃあ、と生徒たちの間をすり抜けていく木村先生の後ろ姿を数秒追い、そうして葉子はふと息を吐いた。ここは学校だ。疲れた顔なんかしていると生徒が不安になる。葉子はしっかりと手を合わせ、「ごちそうさまでした」と言って立ち上がった。

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