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 ファミレスの件を伝えると、みそらはあっという間にコンビニの光でもわかるくらいに真っ青になった。久しぶりに白尾しらおと話して、すっかり弟の受験のことが頭から飛んでいたらしい。そのままお開きになり、マンションまで残り五十メートルというところだった白尾ともそこで別れ、三方向にそれぞれが帰宅した。

 部屋で荷物を放り出し、うがいや手洗いを終えると、なんだか今日のことが目まぐるしく思い出されて、三谷みたには結局そのままピアノに向かった。時間はまだあと三十分以上ある。何か――と思い、まずは自分が弾いた『水の戯れ』をさらう。

 今日の出来は、まあ、八十九点だよな、と思う。全体的なミスはなかったけれど、細かい音のコントロールがへたくそだった。就活のスケジュールがあったという言い訳は今後はきかない、ということを再認識する。だからといって百点を妥協するつもりもない。何か対策を考えるべきだった。

 弾き終わり、そのまま譜面台にあるショパンエチュードを広げる。一年生が弾いた三曲は、もちろん三谷もやっていた。久しぶりにやるか、と気合いを入れる。あの三曲をぶっ続け、というのは相当な胆力がいるものだ。でも――今、どこまでやれるか知りたい。

 十番はユニゾンでの半音階クロマティックの連続だ。限られた動きの中でいかにメロディをしなやかに美しく紡いでいけるのか。十一番は右手の繊細さと、メインメロディである左手のバランスといった技術、そして変わらずそこにあるショパンの美しさ。十二番は技術的にはこの三曲の中でもっともかんたんなものだ。和声を分解したアルペジオでの左右移動、その中に潜む音のエッセンスを、いかに美しく表現し、激情をコントロールできるか――

 弾き終わると息が上がる。腕は痛いし、肩にも手にも指にも乳酸が溜まっているのがわかる。でも――これがショパンだよな、と思う。ショパンだし、ピアノだ。怠けていたつもりは毛頭なかったけれど、いい機会になったと心底思った。ひとりで弾くのでは得られないもの。二十人ほどのメンバーがそれぞれの思いを吐露したからこそ得られる、今日という日の熱量。

 四曲の気になるところをさらにさらっていると、ふいに演奏会の緊張も一気に噴出して、どっと疲れを感じた。時計を見れば二十三時をまた十五分過ぎていて、あ、やらかした、と思った。最近はみそらがいたのでこういうことも減っていて、時間管理の甘さを指摘されたような気がしてひとりで気まずい。

 鍵盤にフェルトの柔らかいカバーをかけ、蓋をゆっくりと下ろす。――今日もありがとう。

 アルコールを入れていたせいか、喉も乾いた。お茶をいれようと思ってそのままケトルに水を入れてスイッチをセットする。いったんリビングに戻るってスマホを確認する。するといくつかの通知の中に「亮介りょうすけ」という名前のものがあって、そのまま開く。

『今日はありがとうございました。めちゃくちゃ楽しかったです。家についたら姉ちゃんソッコーお風呂入れてて、そのままぶちこまれました。いまぽかぽかです』

『明日なんですけど、トモが「最後に日本一高い電波塔に行きたい」って言い出したので行くことになりました。三谷さんもいっしょに行きませんか?』

『あ、もちろん姉ちゃんの了承済みです』

 最後の追記がほか二つの吹き出しより二分遅い。それもなんだかやたら好ましく見えて、電波塔か、と思ってソファに背中を預けた。そういえばいつでも行けるからと、三谷も数回しか行ったことがない。明日は発表会のあとなので予定もないし、それに彼らにもう一度会いたい、と素直に思えた。

 すぐに行けると連絡をすると、これまたすぐに返信が帰ってきた。集合時間などを確認し、『おやすみ』のスタンプで締める。それからお茶を淹れて、マグを片手にほかの通知を確認する。三年生のグループチャットには白尾の帰宅連絡や森田が撮った松本の寝相の写真、それに反応する女子二人の痛烈なコメントなどがあり、ついひとりで爆笑するはめになった。見ているあいだにもぽんぽんと吹き出しは増え、既読の数で気づいたのか、白尾が『三谷見てるだけじゃなくて発言しなよ』と送信してくるので、『言うことはありません』というちょうどいいスタンプを送る。『山岡さんがいなくて暇だろうからつきあえ』という森田の文面にはわざわざ引用して『おまえらがいると暇とかありえない』と送る。事実だし。

 それからもいくつかやり取りをしていると、二十三時半も過ぎた。『じゃあ俺あした予定あるからそろそろ風呂はいる』『おやすみー』『おやすみ』『おつかれ』という文字を見て、おやすみのスタンプを送った。

 と、入れ替わるように通知が来る。みそらだった。

『おつかれさま。さっきはありがとう。おかげでお母さんからのビンタ回避だよ。まじやばかった』

『それはなにより。笑 亮介くん寝た?』

『たぶん杏奈あんなちゃんかトモくんかのどっちかとチャットしてる』

『あしたのこと聞いた。俺もいっしょでいいの?』

『いいもなにも言い出したの、亮だもん。わたしも会えるとうれしいですし』

『それはよかったです。ってかベタだよね行く場所』

『だね。笑 でもよく考えたら金曜来てすぐ大学いくつか見て、今日は発表会で、んであした帰る前にやっと観光ってかんじだよ』

『うちの比重多すぎ』

『いやでもほんと楽しかったみたい。姉もびっくりですよ』

 先ほどの亮介の反応を思い出す。たしかにびっくりしたけれど、うれしかった。

『来てもらってよかったよ、ほんと。亮介くん、水の戯れ、気に入ってたみたいだし』

『あれからサブスクでさがしてたよ』

『感想とおなじくらいうれしいよな、さがしてもらえるの』

『ねー。プログラムもちゃんと持って帰るみたいなので、姉としてもかなり満足です』

 身内の理解は心底うれしいだろう、と思っていると、続きが送られてきた。

『で、あしただけど、十時に駅、ちゃんとひとりで起きて来てね。姉は今回、弟にかかりきりなので』

『なんとかします。亮介くんの手前もあるし』

『がんばって。チャットはするからね』

 おもしろがっているのか心配しているのかよくわからない――たぶんどっちもだ――みそらのコメントに、先ほど聞きそびれた帰りの新幹線の時間の確認を最後にして、おやすみで締める。

 ここからだと目的地の駅まで乗り換えを含めて一時間ちょいだ。現地の集合時間が十一時半になっているのは、智則とものりくんの荷物の関係もあるかもしれない。隣の有名なお寺に行けるかどうかは混み具合にもよるだろう。そこも二人で話し合って優先順位を決めたのだろうか、と思うと、なんだか微笑ましかった。

 二人は同じ方向に舵を切ることが今はできないのかもしれない。でも、それを含めて楽しさを見出そうとする姿勢は、自分たちだって忘れてはいけないんだろう、と、暗くなった画面を見つめながらそんなことを思った。

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