10

 夜の空は田舎なだけあって星がよく見えて、とくに大きなオリオン座には冬だとひしひしと実感させる力があった。空気が違うのか、冬の星座はどうしてかいつも以上に壮大に見える。

 そのはるか下を三人で歩きながら、方向の関係で、まずは清川きよかわを送っていく。数分でマンションに着き、清川と別れてつぎは同じ方向の白尾しらおと歩いていく。

奈央なお、明日は楽器店の発表会、見に行くんだって。楽器店っていうか、財団のコンクールの予選らしいけど」

「ああ、あれか」

 小学生の間は系列の音楽教室に所属していたので、イメージはつく。

「森田のことはまあ、ほっといていいと思うよ」

 しれっと白尾も釘をさしてくる。女子ってさといな、とまた思う羽目になってしまった。

「それよりもあたしが聞きたいのはみそ――」

 言いかけた白尾が言葉を途切らせた。なんだろうと思って彼女の視線の先を見ると、あかあかとした照明が夜目にまぶしいコンビニの前に、見慣れたシルエットが見えた。

「みそらー!」

 白尾が夜間だというのに大声で呼ぶと、二人のうち片方が振り返り、手を振る。その動きとシルエット、そして「しらちゃーん」という声すべてが、知らずに体にたまっていた疲れをほぐしていくのがわかった。

「みそら、今日は来てくれてありがとうね」

「ううん、しらちゃんのファリャ、すんごい良かった。前から聞きたかったやつだし」

「でっしょ、良かったでしょ」

 うんうんと満足そうにうなずいて、そして白尾は隣にいる少年に顔を向けた。

「あなたがみそらの弟くん?」

「はい」

 突然話しかけられたにしては落ち着いたようすで、山岡亮介りょうすけは軽く頭を下げた。

「白尾あきらといいます。お姉さんとは専攻はちがうけど仲良くさせてもらってます」

 それに「ありがとうございます」とまた折り目正しく応える。白尾が何か言いたそうにしているのが横目で確認できて、三谷みたには何が言いたいかもだいたいわかった。たぶん、最初に俺が見たときとおんなじこと思ってそう。

「三谷さん」

 呼ばれて視線を戻すと、高三の彼はまた頭を下げた。

「さっきは挨拶できずにすみません。姉がお世話になってます」

「いや、俺もさっきは何も言わずにごめん。こちらこそお世話になってます」

 テンプレなやり取りをして、ついこらえきれずに聞いてしまう。

「てか――どうだった? うちの演奏会。けっこうな長丁場だったと思うけど」

「あ、めっちゃおもしろかったです。さっきまでトモもいっしょにいたんですけど、あいつも一回も寝なかったし。めずらしいんですよね、ああいうトモ。それだけおもしろかったんだと思います」

「そうなんだ、――良かった」

 本音が漏れる。高校までの同級生であっても理解を得られないことは多かったので、この言葉はほんとうにうれしい。

「最初とかすごかったですよね。えーと、ショパンですっけ。あのインパクトがまじやばくて」

「それ、うちの先生が組んでるんだけど、わざとそうしたんだと思う」

「ああ……ライブのセトリを考えるみたいな?」

「そうそう」

 意外にそのまま話が続いてしまい、女子は女子で感想を言い合っている。それを横目で見ながらこちらも話を続けていく。亮介くんは最初の印象よりもよく喋るな、と思ったけど、そういえばそもそも初対面の年上に馴れ馴れしくできる高校生のほうがめずらしいのだ。なんとなく警戒心の強い動物に心を開かれた感覚ってこれだろうか、などと思ってしまった。

「三谷さんの『水の戯れ』が個人的には一番おもしろかったです。まじでお世辞抜きで。ほかに比べて短めだったからわかりやすかった、ってのもありますけど……中学の音楽の教科書には載ってたけど、テスト問題としか記憶してなくて、はじめてこんな曲だったのかと思って。なんていうか……公園とか? 自然と人工物の融合みたいな、そんな感覚があって」

 すごい。この子すごい。さすが山本の弟だ、感性が立体的だ。相手の言葉をきっかけに体中の細胞が動きだすのがわかる。

「わかる。ラヴェルってそういうところあるよ」

「ほかの曲もそうなんですか? 俺、志望学科が建築環境とかなんですけど、それに通じるものがあるんじゃないかと思って」

「建築……ラヴェルってけっこうクセある曲も多いから、手当り次第聞くと疲れるかもだけど、『クープランのはか』とかいいかも」

 クープランの墓、と繰り返して、亮介はスマホを取り出した。メモをするようだ。

「今はサブスクにもけっこうクラシック多いから、カタカナでもいいし、あ、でも原題のほうが検索には引っかかりやすいな。いい演奏はやっぱり外国のピアニストのだし……アルゲリッチとか直弟子のペルルミュテールとか」

 音だけじゃわからないだろうとスマホを取り出すと、「あの」と声が聞こえた。やっぱり若い声だと思う。自分と三歳しか変わらないのに、声はまだすこし高い。そういえば身長もみそらよりすこし大きいくらいで、三谷にはまだ届かない。

「連絡先、聞いていいですか」

 びっくりした。見上げてくる目はやっぱりまつげが長くて、みそらとよく似ている。まっすぐな視線もおなじで、でもやっぱりみそらとはぜんぜん違うと思った。なんというか、男子の目だ。

「いいよ。QRコード読み込むのとどっちがいい?」

「あ、じゃあ出してもらえば」

 スムーズに登録が終わる。新規に追加されたアカウントの名前はシンプルに「亮介」で、小さくてよく見えないが森の中に埋まったような建物がアイコンになっていた。うろ覚えだったけれど、たしかこれは――バワだったような。音はせず、通知がくる。

「念のためスタンプ送っときました」

 確認すると、「よろしくおねがいします」というスタンプで、みそらも同じものを使っていた。こういうところが姉弟なんだろうな、と思う。三谷もおなじ種類のスタンプで「こちらこそ」と返す。

 その画面を見ている亮介の頬はコンビニの光に照らされて、素直にうれしそうだった。そうするとやっぱりみそらと似ていて、何度目かの「姉弟きょうだいってすごい」という言葉が脳内を通り過ぎていく。

「あの」

 と言って、亮介はみそらと白尾を見た。二人はいつの間にか数メートル離れたところにいて、まだ演奏会の話で盛り上がっているようだった。

「姉ちゃんと付き合ってますよね?」

「うん」

 率先して言わなくてもいいけど、聞かれたら言おう、とみそらと決めていた。亮介はうなずいて、それからすこしだけ黙って、続けた。

「いっしょに住んでますよね?」

 あれ、と思った。そういう雰囲気、出したっけ。三谷がおどろいてつい無言になると、どうして、と思ったのが通じたのか、亮介はさらに続けた。

「荷物に違和感があって。服とかもだけど、すみません、社会学の本、気になって見ちゃったら、姉ちゃんの字じゃない書き込みがあったんで」

 それだけでわかったのか、と感心してしまう。みそらの荷物が三谷の部屋に入った分、三谷も使わなくなった教材や季節ものの服などをあちらに移動させていた。それでもわかりやすいとは思えなかったし、まさか教材からの推理が決定打になるとは。

「……頭いいね」

 おもわずこぼれた言葉に「そうですか?」と本気で亮介は首をひねったようだった。それからちょっと表情をあらため、「じつは、参考に聞きたくて」と続けた。

「参考?」

 思いがけない単語に、今度は三谷が首をひねった。亮介はうなずいて、一歩分、距離を縮めた。

「彼女とふたりで暮らすのってどんなかんじなのかなと思って」

 言われた言葉がそのまま脳内で文字化する。あれ、これはもしかして彼女いるんだ? というのが顔に出たのか、「いますよ」と亮介は言った。こらえきれないのか小さく笑って。

「中学のときから付き合ってて、志望校もおんなじで」

 よくよく聞いてみれば、彼女――名前は杏奈あんなというらしい――は、母親を中学のときに病気で亡くしたシングルファーザー家庭とのことだった。父親はみそらの父とおなじ企業に勤めていて、娘の進学などのためにも仕事はできる限り減らさない、と父娘二人で話し合って決めたそうだ。その後高校で亮介と出会い、付き合っているうちに山岡家、とりわけ母に「ひとりじゃなんだからうちでご飯でも」と声をかけられ、あれよあれよと双方の家の公認になり――ということらしい。

「……それで言うと、そっちのほうがしっかり段階踏んで付き合ってると思うけど」

「そうなんですか?」

「うん、ちゃんと付き合いだしたの、じつは今月に入ってから」

「え、まじ」

 ほんとうにびっくりしたようで敬語が取れていた。けれどそれが妙に好ましくて、つい続ける。

「まじ。それまでにもまあ……夕飯いっしょに食べたりしてたからあんまり違和感はないんだけど」

 喋っていると、なんだか自分がだめな大人――三つしか違わないにしろ、いちおう成人なので――に思えてきた。けれど亮介はあまり気にしていないようで、「へー、姉ちゃんが」と感心したようにつぶやいた。

「あの人、あれでめっちゃガード固くないです?」

「……それはわかる」

「でもなんか安心しました。いつかやめるとか、こっちに帰ってくるとか言い出すんじゃないかと思うこともあったんで。俺の考えすぎかもしれないけど」

 理由は、と言おうとしてやめた。祖母がふたりとも亡くなっていること、地元が遠いこと、就職の難しさなどいくらでも思いつくことはある。ただ、それに軽々しく踏み込んでいくのはまだできないと思った――家族ではないのだから。

 と思っていると、くしゅん、という隣から音が聞こえた。そこで気づく――受験生だ。受験生と寒空、長時間。ありえない。ぞっとして慌てて口を開く。

「ごめん、そろそろ帰ろう――」

 みそらと白尾を見ると、まだ話が盛り上がっているようだった。ここに水を差すのはけっこうな労力だ、とつい思ってしまうと、「ファミレスとかありますか?」という声が横から聞こえた。

「近くにあれば。まだ二十二時前だし、姉ちゃんたち、話止まんなそうだし」

「亮介くんは大丈夫?」

 つい気が抜けて名前を呼んだ。でもなんとなくしっくりきて、亮介も笑って「大丈夫です」と言った。

「俺、弱いのは朝のほうなんで」

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