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 門下発表会のあとは、いつも学年別の打ち上げになるのが伝統だ。一年生の五月、それか六月だったか、最初の発表会のあと、先輩たちからそう言われて、とまどいながらも全員で森田の部屋に集まった。そしてそれが、全員が打ち解けるきっかけにもなった。今年の一年生も初夏の発表会のあとくらいから仲良くしているようすをよく見かけるようになり、やっぱりそうなんだ、と何人かで苦笑しあったことがある。自分たちはやっぱり、けっきょくのところで音楽を通じて、音楽をきっかけに、お互いのテリトリーに踏み込んでいけるようになるのだ。

 三年生はそれから毎回、森田の部屋に集まるようになった。理由は部屋が一番広いからだ。一度別の大学を受けたあとに今の大学を受けなおしたため、部屋の残りが少なかったと聞いている。家賃もほかのみんなよりも数千円高く、キッチンスペースがやたらと広い。三谷みたにも同時期に受験したためこのマンションも候補にあったのだが、僅差で今の部屋の空きを押さえられた。今こうやって全員で飲んでいると、ラッキーだったと思う。いやじゃない、いやじゃないんだけど――みんな自由すぎる。

「先輩のバッハもだったけど、蓋開けてみればうちらの学年が一番尖ってなかった?」

「わかる、森田のシュトラウス、異次元になってたじゃん。終わったあと四年生のエリア、ちょっとどんよりしてたよ」

「しらないよ、やりたい曲やれって言ったの、葉子ようこ先生なんだし」

「あーやだやだ、これだからエリートさまは」

「誰がエリートだ。それより二年の個性のなさのほうが俺は心配だよ」

「あーわかる。個性のなさというか……なんかみんなちょっと牽制しあってたかな? そういう時期だっけ」

「松本が練習しなくて葉子ちゃんが愚痴ったのもこの時期だったよね。そういう時期かな」

「俺はいつまで引き合いに出されんの」

 アルコールが入ったせいか、松本は素直に落ち込んでいた。とはいえ彼のベートーヴェンもとてもよくて、ベートーヴェンにある潔癖さとロマン的要素をよくとらえていた。

 そこでふと思い出す。森田はそこまでなかったけれど、うちの学年はみんなスロースターターだったかもしれない。ほかの大学に比べて在籍人数が少なく、ピアノ専攻はひと学年に三十人ほどだが、それぞれが十位以内に当然のように入ってくるようになったのは二年、とくに後期に入ってからだ。白尾しらおは十人抜きをやった、というのも聞いている。

 たぶん、と三谷は思う。葉子先生の教え方のせいじゃないだろうか。先生はあまり「これが正解」とは言わないし、あまり急かすようなことをしない。よく喋るし、いつのまにか先生のペースになっている。けれど、もしかしたらペースになっているのは、生徒側なんじゃないだろうか。

 三谷はお湯で割った梅酒をすこし口に含んで、メンバーを見た。白尾は最初、ここまで自分の主張をはっきり言うタイプには見えなかったし、松本はもうちょっと古典派が苦手だった。森田はすこし距離があったような感じもしたし、清川きよかわは……清川はあんまり変わってないかも。でもみんなが変わってくるにつれて、一歩下がるようになったかもしれない。後輩と一番交流があるのも彼女だと思う。

 こないだの葉子の言葉が頭をかすめていく。自分が教えていると思う時間だった――三谷夕季ゆうきの音楽は、誰かを変える音楽だ――

 もしそうだとしても。それは先生のおかげだ。先生がみんなを、自分を変えてくれたから、それがたまたま誰かに届いていることもあるのかもしれない。それだけのことだ。

「あ」

 誰かの声と、カシャンという音が聞こえる。顔を上げるとテーブルに缶チューハイが倒れて中がこぼれだしている。

「あー松本、もう」

「眠くなってきた時間じゃん」

 この五人の中で一番アルコールに弱いのが松本だった。眠気に来るらしくて、二時間をすぎるとだいたいこうやってうつらうつらしだす。もうみんな慣れたもので、布巾で拭いたりほかの食器を避けたりとしている。本人はその奥で横になりかけている。

「洗ってくる」

 三谷が言うと、女子二人が「ごめーん」とハモった。それがなんかやっぱりおかしい。ここのキッチンにももう慣れて、三谷はさっさと食器を洗って横の水切りラックに置いた。

「なーなー」

「うっわびっくりした」

 いきなり後ろから声をかけられ、三谷は声を上げた。真後ろ、というか自分の顔の横に森田の顔がある。心臓が早鐘を打っているのがわかって本気で腹立たしい。

「おま……そういう気配消すのまじやめてくれる?」

「山岡さんと付き合ってるってまじだよね?」

 無視か、と思ったけどもう言うのはやめた。

「そうだけど」

「わー言質げんち取った。なんかさ、月初くらいにすげーチャットに通知が来て、『三谷と山岡さんが付き合ってるってまじ?』ってすげー聞かれたの。なんか校内でいちゃついてるの見た人がいたとかなんとか? で、なんで俺に聞くんだとおもったし、なんなら俺が院に行くって噂が出たときより通知多かったし。あ、安心して、知らないって答えといたから。気が向いた分には」

 ということは気が向かなかった分は放置ということだ。

「俺ら的にはやっと、って感じなんだけど、どうなの?」

「どうって……ふつう」

「ふつうね、まあ前から付き合ってたようなもんだったしな。でもまーひどかったぞ。山岡さん狙いの男子、学年問わず多かったし。おまえだってさー、何人の女子から泣きごと言われたか……」

 と言って森田は持っていたグラスから一口飲んだ。入っているのはたしか芋焼酎のはずだけれど、森田は顔色が変わらないし、ほとんど酔ったところは見たことがない。

「で、今、いっしょに住んでんの?」

「そうだけど」

 この言い回しは二回目だったけれど森田は気にせず、「わーまじか、おっそ」と言った。遅いってなんだよ、知らんがな。

「こっちにだって事情があるんだから」

「まー、それもわかる」

 と言って森田はもう一口飲んだ。視線の先には話し込む女子二人と、本格的にラグの上で寝始めた松本の姿があった。

「ケンカとかしないんだ?」

「しない……かな。いや、細かいのはあるけど、いつもちゃんと着地してあと引かないっていうか。合わせもそもそもそうだったし……あんまり齟齬がない。今後大げんかしないとは限らないけど」

「そうだよな。してないのってセックスだけって感じだったし」

「おまえさあ……」

「ちゃんと着地するってことは、ちゃんと考えて言い合ってるってことだし、それが伴奏とかその前からの流れで確立されてるんだろうな。でも誰でもやれるわけじゃない。合うんだよ、ほんと。理解の解像度もおなじくらいだろうし、めざす先もそんなにズレてない。ちゃんと付き合えば、長くやってけるんだろうなって思ってた」

 一時期、森田と清川が付き合っていたことは、ほかの三人との共通認識としてあって、それが継続しなかったことがわかったのも、そのきっかけが院――正確には留学の話が出た頃だったことも、三人の共通認識だ。

「――べつに、あっちに行くまで付き合ってもよかったんじゃないの」

「無理だよ、行く前提で付き合うとか。俺は無理だったし、奈央なおも無理だったよ」

 名字ではなく名前で呼んだところでも、森田が何の話かわかった上で答えを教えてくれているとわかる。

「自覚はあるよ、我が強すぎるって。でも奈央だってそうだし、あいつは絶対、海外は選ばない。だってこのご時世、音楽教室の講師だよ、やりたいの。どんだけこっちの音楽が好きなんだろうな」

 言い方から、森田が清川のことをよくよく理解しているのは通じた。だから追及はできなかった。――舵を切るタイミングは、かならずしも一致するわけではない。

「もし帰ってきたときにまだ奈央が――だったら、それはちょっと考えるけど」

 小さな声だったので、途中が聞き取れなかった。でも言いたいことはわかる気がした。

「でも、俺、あっち行って世界的ピアニストになる可能性だってあるじゃん?」

 三谷は無言で森田の肩を殴った。同学年の特待生の生徒が「クズじゃなくてよかった」と言った気持ちがわかるのはこういうときだ。

「いって、おまえ何すんだよ商売道具に」

「うるさい。それくらいでどうにかなるんだったら世界的とか言うな」

 同門にいても、進路はそれぞれだ。自分はインターンに躍起になっているし、それに感化されたのか、松本も白尾も挑戦してみようかと言い出している。清川は講師に向けて楽器店のチェックやグレード試験を受験しているし、森田は見てのとおりだ。でも、――森田ならそうなれるんだろうな、と思う。あの高三の夏に見た、菊川きくかわ一夏いちかとおなじような道をたどる人物が、同門の、同学年にいるだなんて。

「……葉子先生以外に習うのって、怖くない?」

 無意識に言葉がこぼれていた。はっとしたけれど、森田は気にせず「うーん」と考え込んだ。森田が大学を受け直した理由が、講習会で出会った葉子がきっかけだったということは、うっすら本人から聞いている。

「いや、あんまないかも。行く予定のとこ、葉子先生も行ったところだし、だったら大丈夫かなって」

「……信頼されてるよな、先生」

「そりゃそうだよ。だってこんなごっちゃごちゃな俺らのこと、ちゃんと見てくれてんだぞ?」

 言い回しがおかしくて、三谷は笑った。この学年はめずらしいことに仲が悪いわけではない。必要以上にべたべたすることもないが、おんなじ水槽の中にいろんな種類の魚を入れて、食い合いもせず、自由に泳ぎ回っている、そんなイメージの同級生たちだ。そしてきっとこれから先もずっとこのままなのだと思う。

「布団、出しとこうかな」

 飲み終わったグラスをシンクに置いて、森田がリビングに戻る。松本のことだろうというのはすぐにわかった。時計はまだ二十一時くらいだけれど、終わるのが早かったので、その分早く飲み始めた。日はしばらく前に落ちたけれど、夜はまだ長いな、と思う。

「どうする? まだいる?」

 三谷が戻って言うと、松本の上には毛布がかけてあって、本人はすっかり寝入っていた。

「あ、私、明日予定があるんだ」

「奈央、帰るの? あたしも出ようかな」

 清川の言葉に白尾が腰を浮かせ、「三谷は?」とさらに言う。もう一度松本を確認し、三谷が「俺もそうしようかな」と言うと、森田が続けた。

「じゃあ俺、片しとくから」

「いいの?」

「気が利くメンバーが二人いるから、片付けが楽すぎて。これくらいやらせて」

 三谷と白尾のことだ。三人は視線を合わせてちらりと笑うと、「じゃあ、お願いします」と言った。それに森田が尊大に「まかせとけ」と言ったので、今回はこれにてお開きになった。部屋を出るときも、ピアノの横あたりで松本は平和に寝ていた。

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