8-2
(承前)
みそらより十センチほど背の低い、小柄な部類に入る
考えているうちに白尾は舞台に上がり、一礼して椅子を合わせ、さっとそこに座った。また講堂がしんとなる。そして。
出だしの音はまるでギターだ。ピアノが弦楽器でもあることを思い出させる。白尾は小柄な体つきながらダイナミックにファリャの音を紡いでいった。スペインらしいリズム感もさることながらピアノ演奏の技術もかなり必要で、音域の広さもある。うまいなあ、とみそらは純粋に思った。叙情的なフレーズでもギターのような、ピアノなのにピアノとはまた違う、はじく音がする。スペインの叙情だ、と思う。音に引き込まれ、つぎつぎにやってくるリズムと情景を追っていると、あっという間に演奏が終わった。白尾はかすかに肩で息をしているようだったけれど、それでも微笑んで舞台を下りていった。
公開形式のため、生徒は舞台袖からの入場ではない。体育館にあるような数段のはしごが舞台とこちら側をつないでいて、そこから出入りする。白尾が下り切ると、つぎは
三年生だな、と思う。二年生までの生徒はまだわずかにしか感じられない、それぞれの個性が全面に出てくるおもしろさ三年生にはある。それはみそらが三年生全員のキャラクターを知っているから、というのももちろんあるだろう。ちらりと視線を落としてプログラムを見ると、その思いはさらに深まった。
ここからはラヴェル『水の
清川の演奏は終始真摯で丁寧だった。彼女の就職希望先は某有名音楽教室だと聞いている。似合うな、と思う。丁寧に楽譜を読める人は、講師に向いているとみそらは思う。音大生で楽譜を読まないなんて生徒は当然いない。けれどその読み込み具合にも個性は出るのだ。
つぎは
舞台と客席の間には、見えない垣根がある。みそらにはそれがたまに生死の境のようにも見える――トスカの『歌に生き、愛に生き』を歌った時のように。
ライトは影を拡散して、自分の中心がぶれるような錯覚を起こす。舞台の魔物が、そこにいる。それを知ってなお、自分たちは――三谷
いつになく鼓動が大きくなり、息が詰まるのがわかる。三谷がこの曲を練習しているのを何度も聞いたことがある。なのに体じゅうが音を待って、舞台に手をのばしたくて酔ったようなめまいが襲ってくる。音がほしい、音が。
前の演奏者の音は消えている。今はきっと無色。空気も、音も、無色――
水が、跳ねた。
ラヴェル、『水の戯れ』。
ピアノから聞こえてくる音に、これは水だけではなく、自然のようすだ、と思う。細胞が
ラヴェルの音の透明度はとても高い。機械的なようで、しかし生きている――それだけで自立している細胞の集まりのようだ。
内省する世界は人の内面に介在するはずなのに、どうしても人の手に余る。そんなミクロの自然現象そのものが、ラヴェルの音の中には見える。
旋律が繰り返される。しかしそれは、わずかずつながら角度を変え、容積率を変え、温度を変え、隣り合うものと触れ合うことでさらにあたらしい細胞へと生まれ変わる。
止まることのない、生と死。
ああ――好きだなあ。みそらは何度でも思う。
好きだなあ。この音が好きだ。細胞の奥底を見つめられるようなこの音がわたしはほんとうに好きだ。
講堂の正面にある舞台。黒い筐体からは、
――ああ、そうか。
まわりがすべて、水――H2Oという物質になったような不思議な心地。胸に広がるつんとした痛みを覚えながら、みそらはやっと理解した。
そうか、この音はわたしの時間を肯定する音なんだ。まだ終わってはいない三年目、そして四年間で終わるはずの時間、それをきっと肯定するだろうと思える音なんだ。
低音が形態を変える。低く響く音はまるで大きな柱時計が刻む時間のようだ。
この変化こそ、ラヴェルらしいサウンド、と言えるだろう。印象派から近現代、ジャズ、ポピュラー音楽へと音楽史が移りゆく中に生きたラヴェル。彼にはかのガーシュウィンが弟子入りを願い出たこともあるという。
移ろいゆく時間の中でひととき、まるで花火のようにはじけた水――酸素と水素が出会うことで生まれるあたらしい物質――の音は、ショパンに代表されるロマン派ほどドラマティックな物語はあえて紡がない。しかし確実に、生まれてくるあたらしい音――生命を見ることができる。ひとときも止まることない水の戯れによって。
まるで自分がその水の構成元素――いや水という液状の物質になったかのような没入感。そして無色透明の水であるのにわずかに濁る、ラヴェル特有の和声。
あれ、いつのまにかわたしの中の水が流れている、とみそらは思った。身体の中から水が――涙があふれている。あ、でもこれはしょっぱいから塩分があるんだっけ。三谷に聞いたらわかるかな。
ひらひらと生まれては消える音の下にメロディが流れると、いつしかそこもまたほどけてひとつになって――ひとつという数さえなく、ただ水になって――流れていく。
――理解はされなくてもいい、とふいに思った。自分たちが学んでいる分野を理解をしてほしいというのは、端的にいえば多様性を認めないということではないか。理解しない、接しない、そういう選択の自由さが、本来音楽が不可侵であり祝福される要因なのかもしれなかった。そしてここにいるのは、それを認めた人たちなのだと思う。
わたしたちの間には音楽がある。音楽という普遍のものを挟んで、わたしたちはずっと生きてきた。その時間をぜったいに否定はできないし、肯定したい、と強く思う。
誰だってそうじゃないだろうか。
音が広がる。言葉だ、と思った。ありふれた言葉を、笑顔で言われたようなそんな気がして、――みそらは天を仰いだ。
ほんの、ほんの五、六分の中に、ミクロの世界を閉じ込めて。
曲は、終わった。
演奏者が立ち上がって、お辞儀をする。拍手の中でみそらの体はみそらのままだった。生死を越えて、――いや、音を聞いてきっと一度生まれ変わって――あたらしい
世界はいつも飾らない。ただあるがままでありながら、それでいてこんなにも美しい――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます