8-1
弟とその友人を講堂につれてくると、大学の大きな教室にまだ慣れないからか、二人は天井を見上げてものめずらしそうにしていた。昨日のうちから繰り返していた「眠くなりそうだったら外に出て」という言葉をもう一度言い含め、後列のほうに席を取る。
プログラムをめずらしそうに眺める二人になんとなくハラハラしていると、開始五分前くらいから他の生徒も増えてきた。同学年のピアノ専攻の
これはトップバッターはきついぞ、と思っていると、一年生の男子が舞台に上がった。学年は下から順番通り、その中ではわりとランダムなのかな、という印象だ。ひとりめの彼は、ショパンのエチュード、作品二十五の十、十一、十二番の三曲。
誰かが舞台に上がるときの静けさは独特だ。舞台の木を踏む音、椅子の高さをあわせる音、座るときの衣擦れの音――そして客席からは息を殺すようにそっと動作をする、そのかすかな音。そうやってつくられた、第一音目。
四つの音――四オクターブ一音ずつの圧巻のユニゾン。ショパンエチュード作品二十五、十番の世界が一気に講堂に広がる。隣の
この曲は中間部で一転、長調のいっそかわいらしいといってもいい曲調に変わる。そこも繊細に再現していて、この子はなんだかけっこう伸びるぞ、とみそらは思った。なんというか――そいう、何か予感めいたものが音にひそんでいる気がしてならなかった。
轟音、なのに美しい、男性の強みを生かした再現部を経て、一度手が鍵盤から離れる。静寂。そしてさびしげに、しかし芯になにか秘めたようなイントロが流れ――音がはじけた。
ショパンエチュード、作品二十五の十一、通称『
ショパンエチュード、作品二十五の十二、通称『
拍手をしながら、これはいいなと思い、そしてちらりと隣を見て――ほっとする。ふたりともきちんと目が開いてるし、なんなら驚きで釘付けだ。学年がプログラムに記載されているので、自分たちとひとつしか年齢が違わない、ということも理解しているだろう。羽田門下は現役の生徒しかいないはずだった。
姉の心配をよそに、スムーズに演奏会は進み、弟たちはそのたびに舞台にのめりこんでいくようだった。数年前の自分を見ているようだ、とも思う。まさか今さら進路を変えるなんてことはないだろうけれど、すくなくともこの瞬間だけでも興味をもってここにいるのは間違いない。
羽田門下生の体の使い方は、ダイナミックというよりも人間工学的に美しいと言ったほうが的確だ。関節の使い方、体重移動を葉子は大事にしているが、それはおそらく自身も経験している
一年生がすべて終わった。つぎは二年生だ。講堂内には張り詰めたような空気があり、弾き手、聞き手双方の集中力が持続しているのが肌でわかる。
二年生の学年トップバッターはモーツァルトのソナタ。モーツァルトは一見簡単なようだが、真珠のような音の美しさ、表現力が問われる作曲家として有名で、とりわけ試験曲には不向きとされると聞く。だが後輩の演奏は非常に上品で端正な構成になっており、じつに羽田門下生らしいと言えそうだった。
なんとなく引っ張られるような感覚がして右側を見ると、上手の端のほうに
特待生試験などに使われる大ホールに比べれば狭い講堂だが、ここはまぎれもなく日常から切り離された場所だ。そこで演奏される曲に、ひとつとしておなじものはない。作曲者も、曲も、そして演奏も。奏者が違えば曲がおなじでもそれは違う曲だ。今回は曲のかぶりはないけれど、そういうものだ。おなじものは二度とない。
二年生の演奏が終わると、例年通りに休憩のアナウンスがある。五分程度なので、トイレに行くくらいの余裕しかない。
「大丈夫?」
ざわめき始めた講堂の中、みそらが二人に聞く。
「まじで情報量多い。みい姉ちゃんって毎日こんなん聞いてんの?」
「毎日はさすがにないよ。羽田門下だと年二回だし」
「でもこういうのはしょっちゅうあるってこと?」
「そりゃ、他の門下とか学内のイベントとかを合わせた年間のトータルで言えばね」
「やっば。俺、音大ってもうちょっとおとなしいのかと思ってた。ぜんぜんちがうじゃん」
「わたしとしてはともくんがちゃんと座ってるほうが驚きなんですが」
みそらが言うと、「何いってんの」と智則はわかりやすいドヤ顔をした。
「俺、もう高三なんだけど」
「その受験生が
すかさず弟のツッコミが飛ぶ。なつかしいやり取りについみそらはふふっと声を出して笑ってしまった。
「亮介は?」
「おもしろいよ。合唱とはぜんぜん違う。俺、こっちが好きかも」
「ちょっと……あんたさあ……」
「いやだって、あれ、一台なんだろ? 一台で、ひとりで弾いて、それでこれだけいろいろバリエーションあるのかと思うと、ちょっとまじでこわい」
「こわい?」
「トモがさっき言ったやつ。情報量。情報量の多さと、それの
「ああ、そういうこと?」
みそらが気が抜けたような声で言うと、二人はそろってこちらを見た。だんだんと座席がまた埋まり始める講堂の中で見る、並んでゲームをしていた頃と変わらないしぐさに、おもわず笑いを誘われた。
「大丈夫、なんならここからが本番だから」
弟たちが驚いた顔をしたのとほとんど同時に、「じゃあ後半、はじめます」という葉子の声がした。みそらはプログラムをもう一度見た。三年生のひとりめはしらちゃん――
(8-2に続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます