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 月末になってさらに寒さが増したような気がする。年越しまであと一週間なのだ、と思うとふしぎな心地だ。今日のイベントが終わらないとどうにもそういう実感がわかないな、と思い、いつもの坂道をのぼりながら空を見上げる。自分の白い息の向こうに広がる冬の空は、白みがかった青をしていた。天気はいい。その分寒くて楽器を弾くには厳しいけれど、それでもすがすがしい冬のにおいは胸にやさしかった。

 校門横の守衛さんの建物に、三人の人物がいるのに気づく。おそらく学外の人物なので、念のため記名をしているのだろう。その光景はめずらしかったけれど、そのうちひとりが見覚えがありすぎる人物なので三谷みたにはすぐに察した。あ、あの二人がお殿様と仲のよすぎる小姓か――といううっかり自分の中のイメージで思ってしまう。どうにもみそらの話を聞いているとそんな印象になってしまって、絶対に口には出すまいとあらためて決意をしながら歩いていく。先に気づいて顔を上げたのは、背格好の似た二人のうち、すこしだけ髪の色が明るいほうだった。

 ――うわ、似てる。おもわず足を止めてしまう。似てる、顔が山岡やまおかだ。すごい。

 一見してみそらの血縁だとわかる顔をしている少年は、三谷に気づいて軽く会釈をした。体つきは細いものの、背格好も顔のつくりも完全に男性のもの。なのにひとつひとつのパーツのつくりがみそらとそっくりで、これはと思う。これは、学校、大変だろうな、もてそう。県立高校と言っていたのでおそらく共学だろうと考え、もしかするとこれは校内ではアイドル的な扱いかもしれない、と、一瞬のうちにそこまで思う。それくらいにみそらの弟――名前は聞いていた「亮介りょうすけ」くんにはインパクトがあった。

 隣の少年も、友人の行動に気づいたのか、顔を上げてこちらを見ると、軽く頭を下げた。こちらは黒髪をすこし短めにしていて、なおかつきりりとした眉が印象的で、お目付け役がいる、ということを聞いていなければそう思いつきもしないくらい礼儀正しそうで品のよい少年に見える。こちらがともくん――「智則とものりくん」だ。これはユニットとかで売れそう、とまた思う。それくらいに好対照なのに、仲がいいのがうかがえる雰囲気をもつ二人だった。

 二人のようすに気づいたみそらが笑顔でこちらに手を振る。昨日家を出る前に持っていったミトンをしていて、それだけでなんだか心がほぐれた。口の動きだけで「またあとで」と伝えると、数メートル先のみそらがうなずく。それを見届けてからさらに校舎に向かう。

 年末の土曜の構内はさすがにがらんとしていた。ちらほら見かけるのは同門の生徒や練習などで学校に用のある生徒くらいで、いつもの雑然とした空気を冬の中にしまって、どこかひっそりとした雰囲気がある。おそらく緊張もあるだろうな、と分析する自分が思考回路の上のほうから言ってくる。

 いつになっても人前で弾くのは慣れない。イベントがある、その準備をする、緊張する、という事象には慣れても、息をするように人前で弾く境地にまではまだ達せていなかった。それがプロとアマを分ける大きな要因のひとつだともわかっていて、だからそこに焦りはない。

 校舎内に入るといくらか暖房は効いていたけれど、平日ほどではない。カイロを持ってきてよかった、と思いながら講堂に向かう。他の大学にもあるような傾斜型の部屋、その壇上にピアノが置いてある比較的ちいさな講堂は、さまざまな発表会や試験、そして伴奏法の講義などにも使われている。重いドアを押し開けて中に入るといくらか暖房が効いていて、すでに数人が集まっていた。ほとんどが下級生で、その中には自分より緊張した顔をした生徒もいて、なんだかちょっと肩の力が抜ける。

「おはようございまーす」

 背後で明るい声がすると、自分と同学年の生徒や四年生がつぎつぎに入ってくるところだった。「夕季ゆうき、入り口で立ち止まんないで」という友人の声に押されながら奥に移動していると、「はい、おはよう」とピアノのセッティングをしている葉子ようこが応えるのが見える。

 あまりかしこまった会ではないので、ほとんど普段着のまま来ている生徒も多く、とくに四年生はその傾向が強い。四年生はもう卒業を間近に控えているからだろうか。三谷の学年は「三年だから」という意識からか、外部の言葉で言えばオフィスカジュアル的な印象でまとめていて、なんだかそれもおもしろかった。

 いつものことだけれど、自然と学年別にみんなが席を取りはじめる。同時に葉子からA4を二つ折りにしたプログラムが配布され、それぞれ受け取った生徒からほかの生徒に回されていく。ちらほら「これか」というような声が聞こえて、みんなの緊張と、いくらかのほっとした温度がまた講堂に広がっていく。

「夕季、『水のたわむれ』なんだ。みじか。やっぱ忙しい?」

 と言ったのは同学年の男子の森田だ。非公開ながら学年順位の一、二位にいるのが彼で、特待生でもある他の門下の生徒が「森田が特待生のネームバリューにこだわるようなクズじゃなくてよかった」とぼやいているのを聞いたことがある。こちらも非公開の情報ながら卒業後は院に進むだろうという話がまことしやかにささやかれている森田だが、三谷をはじめとした同門の同級生だけは、彼が進路をドイツ留学にほぼ決めているということを公式情報として知っていた。

「それもちょっとあるけど、シンプルに弾いてみたくなった。『クープランのはか』とも迷ったけど、あれやるなら最低二曲は入れたかったし」

 森田がへえとうなずくと、隣から「だからって、名前売れてるほうに手をだす勇気のほうがえぐくない? 短いからリカバリ効きにくいし」とこちらも同学年の女子、清川きよかわが言う。プログラムを見れば彼女の曲はシューベルトのソナタ十六番で、こっちのほうがしぶすぎるだろ、と思ったら、「いやここでシューベルト持ってくるのしぶすぎない?」と森田がそのまんま翻訳してくれるのでおもわず笑ってしまう。

「ばか言わないでよ、こういうところじゃないと、試験とかでも映えないって言われるのに」

「まーそれはわかる。俺もマイナーっちゃマイナーだし」

 清川の反論に森田は動じず、プログラムを眺めながら言う。そんな彼の選曲はリヒャルト・シュトラウスのソナタ、ロ短調の第一楽章で、森田の言いたいことはなんとなくわかる。一、二年生の選曲はショパンやリストが多めで、つい、若いなあ、と思ってしまう。いや、そんなに年齢変わらないんだけど。

「私、三宅みやけ先輩みたいなのもいつかやりたいんだよね」

 と清川がさらに言うので四年生のところを見ると、たしかに目を引く文字列があった。バッハの『イギリス組曲』第二番、全曲。他の三年生の生徒二人――男子の松本と女子の白尾しらおもやってきて、五人全員がプログラムを覗き込み、一様に息をもらす。組曲全曲となると、二十分ほどになるのだ。

「うちの門下の自我の強さ出たなー! って感じ出てていいよね」

 清川の言葉は的を得ていた。ほか、三年生だと松本はベートーヴェンの『創作主題による三十二の変奏曲』、白尾はファリャの『アンダルシア幻想曲』。こちらも「弾きたいのはなんでもやってみましょう」というコンセプトがしっかり体現されている。

「うちの学年、古典、ロマン、ほかは印象派か。全体で見てもラヴェルって夕季だけなんだな」

「いないね、他の学年。印象派だと……他はドビュッシーがいるのか」

「あたし、ドビュッシーで三谷とかぶったらまじへこむからってファリャにしたんだけどな。いや、好きで選んだんだけど」

「いいんじゃない? ラヴェルとぜんぜん違うんだし」

「一年生のショパンのバラード第一番バライチって、まじで『やりたい』を感じる。いいよね、わかる」

「俺、あれを最初に先生にもっていったとき、『試験前にこんなものやる余裕があるのね?』って言外に却下されたことあるわ」

「松本、あの頃練習してなくて、先生ずっとうちらにそれを愚痴ってたもんね。今考えてもダサいよね」

「そう、松本がね」

「そろそろ忘れてくれない? それ……」

「リスト、『婚礼こんれい』で持ってきたの、ちょっとクセあるわ。好みが漏れてる。一年生かあ」

「いやシベリウスもじゃない? より寒いわ、今の季節」

「つかショパンエチュードの二十五、終わり三曲ぶっ続けってえぐいな」

「こっちも一年生か……もしかして全曲やったからとか?」

 みんな好き勝手言うし、自分ももちろんそうだ。――これだよな、と思う。こうやってああだこうだと他人のプログラムに口を出して、それが若干の牽制だと自覚しながらも口は止まらない。同学年、おなじ専攻、そして同門だからこそできる会話に心が弾む。三年間、誰一人欠けることのなかったメンバーの進路は、森田の留学をはじめとしてそれぞれに決まりつつある。

「おーい、三年、うるさいぞ。外部の人もいるんだからそろそろ外面くらい発揮しなさい」

 葉子がやってきて身も蓋もない言い方の注意をすると、それぞれが肩をすくめて席につく。――正面の舞台にはピアノがいる。それを見て自然と全員が背筋を正したようだった。

 自分たちがいるのは、舞台の前なのだ。

 葉子は真ん中あたりの座席、三年生の一角の近くに腰を下ろすと脚を組んだ。

「みんな揃ったわね?」

 返答はない。ただ空気が、葉子のほうへとすべて向く。

「よし、じゃあはじめましょうか」

 にっこりと葉子はほほえむ。まるで女王のような気品がそこにはあった。

「今日は講評はありませんからね。――みんな、存分に楽しんでおいで」

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