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 レッスンが終わって、でもそのままそこを離れる気にならなくて、三谷みたにはスマホの通知欄に何もないことを確認すると、いったんロビーのベンチに腰を下ろした。

 葉子ようこ先生はたまに突拍子もないことを言うけれど、今日は飛び抜けてそうだった。ダブルレッスンのこともそうだけど、――誰かを変えるだなんて。

 ふと思い出したのは、まだ入学して間もない頃のことだ。一度だけレッスン時間がまるごと自主練になったことがあった。「先週と何も変わっていないから、教えることがない」と言われ、さらに「時間がもったいないから今ここで練習して」と言い残して葉子はレッスン室から出ていってしまった。呆然としたけれど、しばらくするとそうだ、という気がした。

 とくに大きなことがあったわけではない。ただ、ちょっと気が抜けていたのだと思う。怒涛の受験期間を経て、幸いなことに第一志望だった学校、専攻に受かって。そのせいか、軽く燃え尽き症候群みたいになって練習に身が入らない時期があった。そのときの出来事だ。

 今のあなたに教えることはないよ、だから今、練習しなさい。この時間はお金を払っているあなたのものだから、思いっきり自由に使いなさい。

 そうして四十五分間、すべてを練習時間に充てた。ひとりで黙々と練習するその時間ではじめて、「教わる」ということが何なのかを、自分は知った気がする。

 みずから何かを――たとえば解釈の疑問点やテクニック的に難しい点、極端に言えば雑談でも――たったひとつでもいいから持っていかないと、教えてもらうことはできない。それが大学であり、さらにレッスンというものなのだ。おそらく講義形式の授業だけでは知り得なかった経験だった。

 思えば、その直後くらいだったかもしれない。葉子が伴奏をやってみてはどうかと勧めてきたのは。いくつか人づてに林先輩の伴奏の依頼が来たのも同時期で、ほとんど即決で伴奏を決めたのは、きっと葉子のそういう積み重ねのおかげだと思う。

 そういえば、と、記憶が記憶を呼ぶ。

 基本的にレッスンは、講義一コマの前半・後半それぞれの四十五分を使う。三谷のレッスン時間は木曜四限の前半にあたるが、後半は誰もいない。そのため時間がオーバーしてもおまけの時間がもらえる――たとえば雑談もそうだし、伴奏でのちょっとした質問もそうだった。そうしてくれているのだと気づいたのは、一年の後期に入ってからだったと思う。

 最初は素直にうれしかった。わざと後半をあけておくことで、雑談や、どうしても時間内におさまらなかったことも柔軟に対応できる。でもだんだんと気づいた。これは「練習をしてくる生徒」に対する最大のご褒美なのではないか、と。

 優しさでもなく、道徳的なものでもなく、もっとなにか根本的に――いっしょに音楽を楽しむ価値がそのレッスンにあるのだと言ってくれているような気がして、この四年間で得た何ものにも替えがたい贈り物のように思えた。

 先週、一度だけ入った小野先生のレッスン室を思い出す。まさかあのときは次の可能性があるとは思ってもみなかった。

 葉子の部屋とは違う歴史のあるピアノと、部屋の温度、そして、おなじ、音の血脈――。

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