第七章 クイーンの言い分、ナイトの気まぐれ

1-1

 雨の音がする。家についたあとくらいからはすこし強くなっていて、楽器の音がしないだけで外の音が体にじかにふれてくる。自分からこぼれた雨があっちの肌に落ちて、透けるような白い肌の上ですぐに混ざりあって流れる。林檎のような赤い色をしていた唇は互いの名前を呼ぶうちに色がはがれていって、本来の淡くて艷やかな色を取り戻していた。手のひらだけじゃなくて体ぜんぶの体温を交換しながら、外の雨も内の雨もどちらも流れていく。波斯ペルシャ絨毯じゅうたんなんてここにはないけど、雨が口づけをつれてくる。白い肌を離さないように離さないようにきつく抱きしめていると、雨の音に混じってあまい声が肌をさいなむ。雨、声、肌、温度、ぜんぶがあまくてあつくてくるしくて、でも信じられないくらいに心地いいまま、雨に溺れるように意識がなくなった。しばらくするとまた呼ぶ声が聞こえた。「みたに」。――雨の音はもうしないような気がする。

三谷みたに、ね、わたしいっかい帰るから」いっかい帰るってなんだっけ――「今日、三限あったよね。わたし二限あるから、またあとで、がっこうでね」

 がっこう、と繰り返そうとして、声がでなかった。「鍵、かけてね」というきれいな音がする。さっきと微妙に音が違う、のどがかわいた――と思いながらやっと目を開けると、いつもの天井が見えた。遠くで玄関のドアが閉まる音がかすかに聞こえた。――そうか。

 やっと理解が追いついてきて、でもまだぼんやりとした頭のまま、テーブルに放っておいたスマホを手にする。八時二十五分。まだ三限までは余裕がある。でも充電が残り十四パーセントしかない。大学生になってもあいかわらず寝起きはあまりよくなくて、みそらには悪いことをしたな、と思う。

 カーテンを開けると昨晩の雨は上がっていた。秋らしい空が見えて、寝起きの目にはまぶしい。ふとひとりとピアノだけになった狭い部屋を見渡すと、そのピアノの上にダリアの花があるのが見えた。



 みそらの副科ピアノのレッスンは毎週水曜の三限だ。でも今日はまだ月曜、あと中一日ある。家に戻ってシャワーを浴び、着替え終わったころに届いた通知に首をひねりながら、了承の返事を送った。

 なんだっけ、何か昨日、忘れ物でもしたっけ。記憶をさぐってみるけれど――昨日、で思い出すのは別の光景だった。まだ感覚もまあたらしく体に残っていて、みそらはノートPCのキーの上に手を置いたまま小さく変な声を上げてしまった。なんだこの反応、はじめてじゃないくせに、と自分で自分につっこんで、そこで思いついた。あれ、もしかして――これか? これのせい? まさか葉子ようこちゃんもエスパーだった? いや、そういえば先生たちはみんなそうだった。

 そんなことを考えながら二限の講義をなんとか乗り切り、指定のあった昼休みの時間に羽田はねだ葉子のレッスン室にいく。すぐに入る気が起きなくて、みそらが扉の前で二回、目をつぶって深呼吸をしていると、

「なにしてんの」

 内側から開いた扉から、葉子が顔をのぞかせていた。体全体が驚きで硬直する。

「――し、しんぞうとまるかとおもった……」

「外で止まってるのが見えたから、ドアが故障でもしたのかと思ったのよ。なんて顔してるの」

 葉子は笑いながらみそらを中に招き入れる。前の生徒はもういなかったのか、と思い、すぐに思い直す。今日は月曜なので、葉子は午後からのはずだった。ということはやっぱり早めに来たんだ。

 みそらが入り口で神妙な顔をしていると、葉子が苦笑する。

「ほんとになにその顔、取って食われそうだとか思ってるの?」

「いや、そうじゃないけど……」

 呼ばれた理由がひとつしか思い当たらないからだ、とはさすがに言えなかった。

「わたし、昨日、忘れ物とかしてた?」

「ううん、そうじゃないの」

 おいで、と言われて、いつものようにピアノの前に座る。

「みそらは一般企業への就職希望よね。こないだ副業OKの企業を狙ってるって言ってたけど、変わってない?」

「うん」

 なんで就活の話なんだろう、と内心首をひねりながらみそらはうなずいた。そうだ、そういえばあとで三谷にはインターン用のESエントリーシートの話もしないと、と胸にメモをする。

 葉子もいつもの椅子に腰掛ける。楽器の幅ぶんの間をあけて、二人は正面から向かい合った。

「じゃあ、それがもしうまくいけばの話なんだけど、――講師、やってみない?」

「――講師? わたしが?」

 思わず上ずった声が出て、かすかにピアノの弦と共鳴する。ごめん、と思わず心の中で謝る。こんな音を出すつもりじゃなかった。ごめんね。

「そう。副業OKだったら、週に一回くらいはできないかなと思って」

「土曜とかならできるかもしれないけど……え、葉子ちゃん、まじでどういうこと?」

 ESの書き方などで「具体性をもたせて」なんてことをよく見かけるけれど、抽象的だと困るっていうのはこういうことか、とみそらは思った。「ごめんごめん」と葉子は謝って続けた。

「最近、わたしの自宅レッスンでも音大や音高を受ける子たちが増えて、ソルフェとかコールユーブンゲンもやってるんだけど、わたしだとどうしても力及ばずなのよ。友だちの声楽専攻の子にも相談したんだけど、卒業する生徒にあてはいないのって言われて」

「――それで、わたし?」

「うん。みそらだとわたしとテンションが似てるし、生徒さんも若い子ばかりだからあまり年が離れてると萎縮するかも、とも思うのよね」

「それで、わたし……?」

 同じ言葉を繰り返してしまったが、葉子は慌てなかった。

「そう。じつは昨日、その友だちも聞きに来てて、あのあと打ち上げなかったでしょう、だから二人でご飯に行って、意見も聞いてきた。あの子だったら教えるのに向いてるだろうって言ってたから、それなら間違いないなって思ったの」

 みそらはしばらく黙った。呼吸だけ数回繰り返し、念のため言ってみた。

「冗談……?」

「で、わざわざ呼び出すわけないでしょう。さっきも言ったように、みそらの就活次第なところもあるけど、わたしは本気よ」

 かすかに背中に電流が走る。本気、と言った葉子の声は、たしかに本気だった。レッスンのときと同じ色をまとっている。

「じゃあ、講師って、声楽の……中高生の副科声楽の、講師ってことなの……」

 なかば呆然と確認すると、「そう」と葉子がほほえんだ。


(1-2に続く)

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