11

「つーかーれーたー!」

 駅のホームに着くと、みそらはばんざいのポーズでそう叫んだ。ホームの端っこで人が少ないのをいいことに、と、つい笑ってしまう。ただでさえよく通る声なのに。

 みそらの荷物はいつものバックパックと紙袋の二つだけだった。袋の中には先生たちからもらった小さめの花束と、祖母から渡されたダリアの花飾りが入っている。みそらはそれをホームに設置してあるベンチに置くと、その隣に腰を降ろした。

「洋服っていうかファストファッションって楽だよね。気を抜くと腹筋がゆるんじゃうな」

 その言い方がなんとなくおかしくて、三谷みたにはみそらの荷物の横に自分の衣装が入った軽いカバンを置いた。バックパックはみそらと同じで背負ったままだ。

「どうだった? 着てやってみて」

「うーん、汚しちゃだめだって緊張はするけど、姿勢は整うんだよね。今回みたいに曲と合ったりすれば着る選択肢はかなりありだと思った」

「うん。ばあちゃんもよろこぶよ」

「うん……」

 うなずいて、みそらは紙袋に手をのばす。そっと透明な箱を取り出すと、中には先ほどまでつけていたダリアの花があった。祖母からのプレゼントだった。「次回また」と言って、みそらに渡してある。

 反対側、のぼりのホームに電車が入ってくる。対岸のホームは人が多くて、アナウンスやざわめきで空間がうまっていく気がした。と同時に、そこにまたふわりと雨の気配を感じる。

「なんかさ」

 のぼりの車両がすべてホームから去ると、花を見つめたままぽつりとみそらが言う。

「ちゃんと覚悟してたつもりだったけど、それでももらうものが多くてちょっとびっくりしてる。こんなきちんとした謝礼もだし、喜美子きみこさんのこれも――」

 それからみそらは花を見つめ、しばらく黙った。今度はこちらのホームに電車が入ってくるが、つぎの特快に乗る予定なので二人は動かない。

 ホームに電車が入り、人が降り、乗り、降りた人たちがホームを去るまで、ほんの数分しかなかった。その間にだろうか、雨が小さく降りはじめたようだった。夜なのではっきりとは見えないが、さあさあというかすかな音と、空気にあまく雨のにおいがまじる。

 何をどうする、というのを深く考えたわけではなかった。日常の動作とおなじように、三谷はみそらの前に行き、しゃがみこんだ。

「どうしたの?」

 みそらが聞いてくる。その声はいつもどおりで、膝の上には祖母が贈った花がある。解き下ろした髪がかすかな風に揺れ、またそれが雨のにおいを呼ぶ。

「山岡」

 言って、右手でみそらの左手にふれた。指輪がひんやりとした熱を伝えてくる。でも、先月よりももっと、体温が交換できるくらいに。驚いたのか、かすかに揺れたみそらの手は、それでも自分の中におさまっている。

「俺と付き合って。なんとなくいっしょにいるんじゃなくて、伴奏もご飯も、いっしょにいたいからいるんだって、周りにも言いたい」

 こう言おうと決めていたわけじゃなかった。それでも流れるように出てきた言葉だった。――これが言いたかった。ずっと。

 ずっと言いたくて、でもいろいろ考えすぎて言えなかった言葉。でも今日を過ごして思う。こうやって生きていきたいと。すくなくとも、あと一年、ここを卒業するまでは、みそらの隣を誰にも渡したくない。そのあと押しをしてくれたのは、祖母であり、先生たちであり、観客であり、はじめてもらった正当な謝礼――自分たちの音楽が得た報酬であり、それらすべてを内包した今日という日そのものだった。

 みそらは数秒黙っていた。さあさあという音と、駅のざわめき。それでも不安に思うことはふしぎとなかった。前と同じで、きっと同じだろうと思う。

「――先に言われた」

「え?」

「あっちの駅に着いたら言おうって思ってたのに」

 すねたような、子どものような言葉が聞こえる。意味としては――だから、やっぱりおなじだってことだ。気づくと思わず笑いがもれた。小さく、でも止まらなくなって、手を重ねたまま三谷は笑いだしてしまった。

「ねえ、そんなに笑う?」

「ごめん、ちょっとおもしろくって」

「もう――トスカのときもそうやって笑ってたし……」

 そういえばそうだった気もする。変わらなかったのだ、あの頃も。ただ、でも今日までの時間は必要だったのだと、言い訳かもしれないけど、そう思う。そうじゃないと――この花を抱えたみそらに向かっては言えなかったはずなのだから。

「ね、わたしからも言っていい?」

「うん?」

 みそらが右手を握り返してくる。ゆっくりと指をからませると、みそらがいつも左手につけている指輪が熱を伝えてくる。

「わたしと付き合ってください。歌と伴奏も大事だけど、それ以外の時間も大事なの。誰に何を言われても負けたくないから、だからその証拠がほしい。いっしょにいる証拠がほしいから、――だから」

「うん」

 軽く、でもはっきりとうなずいて、左手をみそらの頬に添える。ちいさな顔の頬は、化粧のせいか、それとも彼女のもともとの肌質なのか、やわらかくてさらさらとしていて、それでいて湿度があって、自分の指に吸い付くようだった。唇は舞台後ということもあっていつもより鮮やかだ。ダリアの赤か――それとももっと別の何かか。

 反対側のホームにまた電車が入ってくる。ざわめきが背中に届く。左手をベンチにつけるとみそらと違って冷たい。――雨のにおいがする、と思いながら、そっと唇で唇にふれる。ほんの一瞬、あまい、と思う。

 元の位置に戻ると、みそらと目が合った。長いまつげにふちどられた瞳は、雨が降ったあとのようにうるんでいた。きれいだと思う。この全部が自分のものになればいいと思う。

 またこちらのホームにアナウンスが流れる。つぎは特快だ。日曜でも端っこにいるからか、それとも雨だからか、二人の周りに並ぶ人はほとんどいなかった。

「――乗る?」

「うん。帰る」

 みそらはうなずいて、右手で花をそっと紙袋にしまう。三谷も立ち上がる。みそらはちょっとだけ首をかしげると立ち上がって右手で紙袋の持ち手を掴み、三谷とみそらの間をそっと通して体の右側に置いた。そしてちいさく満足そうに微笑む。――あ、なるほど、手を離すつもりはないんだ。そう思って軽く指を握り込むと、今度は指輪も体温とおなじくらいの熱をもっていた。

「荷物持とうか」

「そっちも荷物あるでしょ。軽いから大丈夫だよ」

 みそらの声にアナウンスが重なり、電車が走り込んでくる。雨のしぶきが軽く舞う。ドアが開いて人が降り、今度は自分たちが乗り込む。座れそうになかったので、荷物は空いていた上の棚に手早く置く。もう一度指を絡ませると同時に独特の音がして、車体がゆるやかに加速しはじめる。

 乗るときにすこし濡れてしまったのか、みそらは自分の頬に――さっき自分がふれた場所に手を当てた。

「雨は林檎りんごのごとく」

「――あ、『銀座の雨』か」

 すぐに思い当たるのは祖母のおかげだ。みそらは「学校の周り、銀座とは程遠いけどね」と笑って、「でも」と続けた。

「これ、好きだな。七五調のリズムも、内容も。これからくる季節の歌だよね」


 ――息ふきかけてひえびえと、

   雨は接吻きっすのしのびあし、

   さても緑の、宝石の、時計、磁石のわびごころ、

   わかいロティのものおもひ。


 九州出身の詩人が見た百年以上前の銀座の景色を、それでも今の時代に感じることはできる。詩を思い返しているうちに、夜が横に動いていく。その手前にみそらがいて彼女の体温がある。

「まだ本、借りてる?」

「うん。まだ持ってていいって言われてる」

「じゃあそれ、戻ったら読んで」

「うん」

 夜の景色が横に流れていく。窓にかすかに打ちつける雨は、白秋はくしゅうが見たようにあまいだろうか。


 ――雨は林檎の香のごとく

   冬の銀座に、わがむねに、

   しみじみとふる、さくさくと。



[雨は林檎の香のごとく 了]

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