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撤収はあざやかだった。写真撮影が終わり、生徒さんたちを見送りながら、昼の出演が多かった先生たちが中心に楽屋やその他の場所をすばやく片付けていく。みそらの着替えが終わり、祖母が荷物をまとめた頃には楽屋の荷物はほぼ、裏の搬入口付近に集まっていた。今回の担当講師は
「
小さめのスーツケースを隣に置いた和装の祖母を見て、こちらもジーンズにニットのトップスというすっかりいつものスタイルになったみそらがささやいた。
「ああ、大丈夫、母さんいるから」
「え、――え、ほんと?」
「うん。ずっと客席にいたんじゃないかな。荷物持ちもあるけど、どういうものか見てみたかったんだって」
驚いたのか、みそらは何度もまたたいている。そのたびにまつげが花のように揺れる。そこに、「じゃあ」という祖母の声が重なった。
「私は先に失礼させていただきますね。今回は若い方に混じって、とても楽しかったです」
「こちらこそ、ありがとうございました」
代表して葉子が礼を述べる。他の人からも「つぎはわたしもお願いしていいですか」と声がかかるのに「もちろん」と笑顔で請け合い、祖母は先に楽屋裏から出ていった。――雨のにおい、とふと思った。ドアの開け閉めの隙間から、夜のにおいと水のにおいがしたような気がした。
「さて、今年もみなさんお疲れ様でした! アクシデントは起きて当然なので、反省は次回の公演に生かしつつ、今年のイベントがまたひとつ終わったことを、まずは喜びましょう」
ショートカットの本田先生が言う。今回の代表で、葉子の同級生、つまり自分にとっては直接の先輩になるらしい。
「今回は若い力も入って、かなり若返ったなーって感じ。ほんと現役っていいなあ」
「ちょっと
「いいじゃんちょっとくらい。まじで若いエキス吸ったって感じする。ので!」
本田先生はどこからか封筒を取り出し、その一枚を両手でみそらに差し出した。表面には「山岡みそら様」ときれいな字で書いてある。そして本田先生ははっきりと「謝礼です」と言った。
ほんの一秒ほど、驚きでかみそらは固まった。それから顔を上げ、慌てて手を振る。
「いや、――そんな」
「この発表会に時間と労力をかけて、それに見合うだけの演奏をしてくれた、その謝礼です。――受け取ってくださいね」
柔らかい口調だが、有無を言わせないものがあった。みそらがそれでもためらっていると、「大丈夫だよ」という葉子の声がした。
「経費にもちゃんと、最初から組み込んでるの。――みそら」
最後の一言にはレッスンのときのような重みがかすかに感じられた。また一秒ほどののち、みそらは葉子に小さくうなずくと、一歩進み、両手で封筒を受け取った。
「――ありがとうございます」
かみしめるような言葉に、本田先生はうれしそうに笑ったようだった。そして三谷を見る。
「もちろん伴奏もだよ。こっちが
「え――俺もですか?」
さすがに面食らうと、「とーぜんとーぜん」という声が周りから一斉にかかる。
「伴奏大変なのわかってるよー」「そうそう、ここにいるの全員ピアノ科なんだからわかるわかる」「でも今回の選曲、センスよかったね。伴奏も弾きやすいしさ」「だいじだいじ。弾きやすさはだいじよ」「でもそうやって慣れでいくとコケるんだよね」「やっぱ現役はいいよねー、緊張感があって」「年かあー」「年だなー」
前日の顔合わせのときから思っていたけれど、やっぱり先生たちはよくしゃべる。それが今、自分がいる学校となんら変わらないことの証明のような気がして――三谷は気持ちを整えて、手を伸ばした。みそらとおなじように、封筒には自分の名前があった。
「ありがとうございます」
受け取ると、本田先生は満足したようにうなずいた。
「今日はこっちのメンバーも揃わないから、打ち上げもリスケなの。でももしつぎに日程が合えば、ぜひ来て。もちろん打ち上げだけじゃなくて、つぎの演奏会とか、発表会も」
――最大の激励の言葉だ、と思った。これにはその次回への期待も含まれているのだ、と思うと、薄くて軽い封筒がずしりと重く感じる。けれどそれはきっと心地よい重さだとも、思う。
「はい、また」
三谷が言うと、隣のみそらももう一度背筋を伸ばし、いつものように微笑み、きれいな声で言った。
「ぜひ、よろしくお願いします」
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