9-3
(承前)
担当の先生たち――
「よかったよみそら、ちょうよかった。みそらの持っていきかたもよかったしかわいかったし、何より昼よりも客席の声、出てたよ」
同時に閉幕のアナウンスが入るので、声を拾わないように最小限の声で言って葉子はみそらを抱きしめる。肩口に埋もれるようになったみそらは、「そう?」と聞いたけれど、きっと本人にだって手応えはあったはずだ――いっしょに舞台にいた自分がわかるのだから。
葉子から開放されると、そうだよ、よかったよ、などと他の先生たちからも声がかかる。みそらは今度こそほっとした顔で、「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をした。また耳の横で花が揺れる。
「さ、あとは写真撮影と、撤収よ。――やるわよ」
ひとりがひそかに声を上げると、他の先生たちも静かにそれに応じる。アナウンスが「出演された生徒さん方はロビーにて写真撮影があります」と続いて、今度こそ音声がオフになった。
先生たちが終わりに向けて素早く動き出したので、すこし気が抜けたのか、みそらは生徒さん用に並べてあるパイプ椅子に腰掛けた。ふう、と小さく息をついたのが聞こえる。
「おつかれ」
「しゃべってたとき、ちょっと膝震えてたんだけど」
「そう? ぜんぜんわかんなかった」
とりあえず隣に座る。祖母は客席で聞いていたので、こちらに来るまですこしタイムラグがあるだろう。これからみそらを着替えさせて、それを持ち帰るまでが今日の祖母の仕事だ。
「着物もだったけどさ、なんか、発表会とか試験とかとはぜんぜん緊張感が違ったね。点数をつけられるほうがいっそマシなんじゃないって、一瞬だけだけど思っちゃった」
「よかったと思うよ。山岡、やっぱ講師とか先生に向いてるんじゃないかと思ったし」
「うっそ、どこが?」
「あんだけ声出るようにしといて――もしかして、山岡の基準、合唱部とかになってない?」
「え、そうかな……」
真剣に考え込んでしまったみそらの横顔は白い肌に歌ったあとの頬の赤みがうっすらと透けていて、髪にさした花がよく映える。
「俺もちょっとなつかしかったし。昔、中学の合唱コンクールで伴奏したなって」
「中学? 初耳。どれ弾いたの?」
「『時の旅人』」
「ああ、いいよね。あの――『優しい雨に打たれ』のところから
「わかる、あそこは伴奏も気合い入るところ」
「よね。あー、うちの合唱部、
「他は――」
三谷は声を途切らせた。みそら、という声が聞こえたからだった。葉子だった。
「葉子ちゃん――写真撮影、もう終わったの?」
「ううん、まだ」
ヒールの音が鳴るくらいの速歩きでやってきた葉子は、みそらに向かって言った。
「いっしょに来て。呼ばれてるわ」
「え、何に――」
「お客さん。『さっきのお嬢さんにご挨拶したい』っていう方がいらっしゃるのよ」
みそらの目が驚きでゆっくりと見開かれる。長いまつげがまた花のように広がる。
「わたしに? なんで――」
「いいからおいで」
葉子がみそらの腕を軽く引くと、みそらはつられたように立ち上がった。はっとして自分の後ろを見る。
「大丈夫、崩れてない」
三谷が言うと、みそらはほっとしたような顔をして「うん」と言った。一応祖母からひと通りの着付けを仕込まれているので、性別は違うとはいえ、いざとなれば多少は直せる。けれどみそらの姿勢がきれいなので、今のところその心配はなさそうだった。
「葉子ちゃん、挨拶ってどういう――」
「ご挨拶よ。他に言いようがある? つべこべ言わずにとりあえず行きましょうね」
若干腰が引けているみそらを葉子がぐいぐい引っ張っていく。こういう山岡はなかなか見れないな、と思いながら、三谷も数歩遅れてついていく。ロビーのようすも、祖母のことも気になっていたのでちょうどよかった。
楽屋入り口のドアが開く。それまでの遮音されたような空間から一転、わん、と響くように一気に日常の音、そして光が世界を埋め尽くす。
ロビーは人でごった返していた。カメラマンらしき人が機材の準備をしながら、他の先生たちはロビーの中央にある数段の階段に、慣れたようすで生徒さんたちを配置していく。「佐藤さんは身長がおありだから後ろの段に」「前田さん、そこの椅子に座ってください」――発表会の懐かしい景色だ。
記憶と違うのは、生徒がみんな大人なので、子どもの発表会のように先生たちが声をあまり荒らげずに済むことだろう。それを考えると、なんだかおかしくなってきた。あの頃の統率の取れていない子どもたち。その子どもたちが一生懸命にピアノと向き合い、そうやって自分のような学生になり、そことは違う道からピアノを選んでここにいる人と出会う。――音楽はいつも、思いがけない場所からあたらしい出会いを連れてくる。
「
慣れ親しんだ声がして顔を向けると、今日は自身も落ち着いた
「みそらちゃん、二回目のほうがさらによかったわね」
「やっぱりそう思う?」
「もちろん。一回目に入った方もいらしたようだし、あとは慣れでしょうね。生徒さんの引きつけ方が上手だし、先生とか向いてるんじゃないかしら」
自分と同じことを言った祖母に思わず笑い出す。そんな楽しそうな孫を、祖母はじっと見つめた。
「ね、また着てみたくならなかった? お正月とかどう?」
「うーん、考えとく」
逃げの回答に、でも祖母は折れなかった。
「お父さんのを着れるの、あなただけですからね。ちゃんと憶えといてよ」
めんどうだなあ、と思うと同時に、今回の件もあって久しぶりに着てもいいかもしれない、という気も起きてきた。口に出すとしっかり約束を取り付けられそうなのでまだ黙っておくけれど。
「私もいい機会になったわ」
ぽつりと祖母が言う。視線の先には、生徒さん二、三人と笑顔で話をするみそらの姿があった。
「まさか今、あれを出せるなんて。みそらちゃんにも、
何度かお辞儀をして、ひとりからは握手を求められて、それからやっともう一度お辞儀をして、みそらが生徒さんを見送る。横顔はまだ外行きのものだったけれど――ふとこちらに気づくと、ほんとうに花がほころんだような、やわらかい満面の笑みを見せた。足早にこちらに向かってくる。
「
「みそらちゃん、とても素敵だったわ。先ほどの方たちはお知り合い?」
「いえ、まったく。でも――お礼だそうです」
「お礼?」
「久しぶりに歌えて楽しかったですって。あと、最後の『この道』、曲は知ってても曲名をいつも忘れるから、今日聞けてよかったって」
「まあ――」祖母はまた手を合わせ、少女のように喜びを見せる。
「すばらしいことね。よかったわね」
はい、とうなずいて、みそらはすこし黙った。後ろのほうでは整列が終わったのか、カメラマンさんがフラッシュの確認をしながら「右から三番目、後列の方、そうです、そこの方、もうちょっと内向きに立ってみましょうか」など声をかけている。
「――うち、祖母はふたりともわたしが中学と高校のころに亡くなったので、どちらも成人式を見てないんです。でもなんだか、今回の件で、なんだか――」
みそらはかすかに口をつぐんだ。言葉をさがし、それからまた顔を上げて祖母を見つめた。
「ちゃんとふたりに見せれたんじゃないか、っていう気がして、――ありがとうございました」
言って、今度こそ深々と頭を下げる。揺れる花を愛おしそうに目を細めて眺め、祖母はゆっくりとみそらの手を取った。
「また、お手伝いさせてね」
言葉に導かれるようにみそらが顔を上げる。軽くびっくりした表情が、ふわりといつもの――日常にひそむソプラノの愛らしさを帯びて微笑むのが見える。みそらは相手の手をそっと握り返し、「はい」と、小さく、でもはっきりとした、うれしさのにじむ声で応えた。
「はい、――また、ぜひ」
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