9-1

 舞台袖にいる山岡やまおかみそらを見ると、「トスカ」のときのことを思い出す。ほんの数カ月前のことだ。あのときは赤いオフショルダーのドレスだった。今は遠目には薄いベージュにも見える灰桜色の小紋に深い赤色の帯をしめ、髪をきれいにまとめ上げている。重ねた襟から見える白いうなじは、まるで日本人形のようにうつくしかった。

 帯のせいもだけれど、トスカを思い出すのはその髪にさした髪飾りの存在だろうと思う。右耳の横にあって、大きすぎず、でも確実に目を惹く赤いダリアの髪飾りは、祖母があらたに用立てたものだった。みそらには既製品だと伝えているけれど、じつは知り合いにオーダーメイドでつくってもらったものだ、とこっそり自分には話してくれた。それだけでも祖母がどれほど、みそらのことを気に入っているのかがわかるというものだった。

 夕方に行われる第二部、その最後の演奏は六十代の女性だった。ピアノ歴はもう二十年になると聞いた。そう考えれば自分よりも先輩で、エリック・サティの『ジムノペディ』第一番は、技術的にはそう難しいものではなくとも、深みのある、叙情性の豊かな演奏だった。この音色は逆に音大生では難しい、とさえ思う。自分の体の動作を意識しながらも、ゆっくりとつむがれていくジムノペディ。それは演奏者が得た年月――苦しみも哀しみも飲み込んできた人生そのものにほかならないのではないか、とも思う。

 演奏が終わり、ほっとしたようすの最後の出演者が袖に戻る。その間、みそらはパイプ椅子に座ったままとくに動きはしなかった。

 裏方スタッフがピアノの位置をずらしに一度舞台に出、そのあいだに司会を担当する講師が、このつぎは、とアナウンスを始めると、みそらは立ち上がった。着慣れていない、と事前に不安がっていたようすはかけらもなく、今日二回目の舞台へと目を向ける。長いまつげが上向くと、髪にさしたダリアと同じように瞳がうつくしく花開くのが見える。――これが山岡みそらだ、と、いつになっても背中が震える瞬間だった。

 誰にも、自分にも、臆することなく屈することなく、ただその白い舞台をまっすぐに見つめて、そこに真っ向から挑もうとする歌姫。きっと本人はそんなわけない、と否定するだろうけれど、それこそ生まれ持った、みそらの性格と容姿が合わさったからこそ生まれる品格が、そこにはいつもある。

 スタッフが素早く、しかし静かに戻ってくる。アナウンスが端的に、次の出演者が羽田葉子の教え子であり、現役大学生であることを告げる。そうして袖と舞台をつなぐ扉は、あっけなく、そして大きく、みそらを舞台へと導くために開いた。

 扉が開くと自然と拍手が起こる。そしてみそらが舞台に表れた瞬間、その音は大きく、そしてかすかにざわめきが広がる。まさか和装で出てくるとは思っていなかったのだろう。昼の部もこうだったな、と思うけれど、昼よりも驚きが少ないのは、観客の中には昼にも入った人がいるのかもしれない。

 みそらが先に舞台中央に立つ。自分が数歩遅れてピアノの横に来る。しかし一度も目線をあわせることもなく、お辞儀のタイミングはぴたりと重なった。すべていつもどおりだ。手早くセッティングをし、まちがいなくそこに昼にはなかった一曲があることを認めて、――三谷みたに夕季ゆうきはみそらの背中を見た。いつもとは違う衣装の、けれどいつもとまったく変わらない風情でたたずむ歌姫――その安定感たるや。

 それを認めて、自分の鍵盤に集中する。寄せては返す波のような伴奏は、かすかにイタリア歌曲のにおいも感じる。林古渓こけい作詞、成田為三ためぞう作曲の『浜辺はまべの歌』は、ゆるやかな曲線を描いてホールに流れ始めた。


 ――あした浜辺を さまよえば

   昔のことぞ 忍ばるる

   風の音よ 雲のさまよ

   寄する波も 貝の色も


 みそらの声はよくとおった。いつもと同じ声、なのにはっきりとしてわかりやすい日本語。きっと今これをはじめて聞いている人にはわからないだろうけれど、これほどに言語の印象を変えれることがどれほど難しいか。それをみそらの、小鳥のようなソプラノの愛らしい声音が紡いでいく。しばらくすれば、――きた、と思った。

 会場からかすかに声がきこえる。みそらの声に沿うように、かすかに。ハミングよりももっと小さく、でも自然と、誰かの記憶からこぼれるように、歌が共鳴しはじめる。


 ――ゆうべ浜辺を もとおれば

   昔の人ぞ 忍ばるる

   寄する波よ 返す波よ

   月の色も 星のかげ


 このあっさりとした終わり方が三谷は好きだった。それにはそう歌える技量が必要だと思うけれど、みそらはそれができる。これを聞くたびに、子どもの頃から童謡に親しんでいたからではないかと思う。――それこそ、今客席で歌う観客とおなじように。

 ――というような余韻に浸っている暇は、伴奏者にはない。手早く譜面を入れ替える。アルペジオを使い、コードが叙情的に入れ替わって、シンコペーションが歌を誘う。江間えま章子しょうこ作詞、だん伊玖磨いくま作曲の『花の街』。こちらも学校で習う曲だけれど、これが戦後の疲弊した日本人のために作られた歌だということは、それこそ今回祖母に聞くまで知らなかった。


 ――七色の谷を越えて

   流れていく風のリボン

   輪になって 輪になって

   かけて行ったよ

   歌いながら かけていったよ


 こちらも同じだ。先ほどより早く共鳴が始まる。みそらの声がさらに相手の声を引き出すように艶を帯びる。それを聞いてすこしだけ伴奏を抑え、ときには背中を押すように音の重さを引き出す。そうしていくうちに、すこしずつと会場の声も大きくなっていく。つい心の中で、すごい、という言葉がこぼれた。

 すごいな、ここまで声が出るなんて。昼に参加した人がいるからだろうけれど、それでもだんだん合唱のようになっていく会場に耳を傾ければ、一種の感動さえあった。歌詞カードなんかなくても、親しんだものにはかならず、時間がどれほど経とうとも、人は自然と反応できるのだ。

 曲の並びをこうしたのは、みそらだった。「最初に歌いやすい曲を持ってくれば、きっと曲を知ってる人って、勝手に歌ってくれると思うんだよね。コンクールじゃないんだし、自然とそうなっていいと思うし、最終的にはそれが習いごとの本質だと思ってもらえたらいいと思うんだよね」と言って。

 よくわかってるな、と感心してしまう。中高の六年間を合唱部で過ごしたのだから当然かもしれないけれど、それでもみそらの感性はいつも観客に寄り添っていると思う。

 演奏者がいつも必死になりすぎて忘れてしまうもの。とくに自分たちピアノ専攻は、観客側を向いて演奏するわけじゃない。だからこそ没頭してしまうし、それだからいい演奏になるとも言える。けれど声楽専攻はいつも観客側を見て、何かのキャラクターをまとって歌うものだ。今のみそらは、きっと、観客の一人ひとりの「いつか」の姿だ。小学生の、中学生の、高校生の、そんな頃の自分に重なるはずだった。


(9-2に続く)

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