8

「みっちゃん、今日も色気だだもれ」

 練習室のドアを開けた、江藤えとう颯太そうたの開口一番がそれだった。先に入ってピアノの準備をしてた三谷みたに夕季ゆうきはさすがに首をひねった。

「……まだ、合わせしてないですけど」

「いや、聞かなくてもわかるよ、雰囲気で。何かあった?」

 何かあった、のあとに省略された名前や出来事は、もう予想がついた。先輩が部屋の中に入って楽器ケースを床に丁寧に置くのを見ながら、三谷は小さく言った。

「なんとなくだけど、葉子ようこ先生に夕飯のことばれたのかと思って」

 しばらく前から、慣れなのか、敬語が抜けるタイミングが増えた。けれど先輩はまったく気にしていないようで、「ああ」と合点がいったようにうなずいた。

「なんか言われたわけじゃないんだ?」

「……じゃ、ないですね」

 昨日はみそらの副科ピアノのレッスン日だった。いつもなら終わったあとにはすぐに連絡が来るのだが、昨日はそれが遅かった。それに合流しても雰囲気に若干の違和感があった。なんというか――たぶん、泣いたんじゃないだろうかと思う。

「葉子先生、潔癖だもんね。潔癖っていうか、小うるさいっていうか。線引きはしっかりしてるというか」

 声がして顔を上げる。いつものように楽器を手早く組み立てながら先輩が言う。

「男はなんとかなるって思っちゃうけど、あちら側からしたらそうじゃないんだし」

 断定的な言い方に思わず相手の顔を見た。先輩は三谷を見ることなく続ける。

「女の人って受け身にならざるを得ないところもあるし、何かあったら責めを負わされがちだし。そもそも体のつくりが違うから病気になるところも違う。最近はそういう部分にからんだ話もよく言われてて、それで就職だってキャリアアップだっていまだにめんどうって聞くし。山岡さん、一般就職希望なんでしょ、――怖いよね」

 怖い、という言葉は胸にきた。音楽があるからいっしょにいられるのに、音楽があるからいっしょにいづらい――自分たちがいるのはそういう場所だとあらためて言われたような気がして、つい黙り込む。そんな後輩を見て、先輩はすこし笑ったようだった。

「みっちゃん、まじで山岡さんのことになると腰が重いよね。重いっていうとネガティブに聞こえるけど、大事にしてるのはわかる」

「……そうですか?」

「うん。離したくないし、壊したくないし、でも誰にも渡したくないっていうのも見える」

 それって完全に独占欲では、と思ったけど、言うのははばかられた。――自覚があるだけに。

「でもたぶん、山岡さんもおんなじじゃない? だから葉子先生に潔癖なこと言われたんじゃないかと思うけど。ちゃんと付き合えとか、そういうこと、先生言いがちだから」

「……よくおわかりで」

 つい感心すると、「何年も見てるから」と軽い返事が返ってきた。

「みっちゃんは感づいてるって知ってるからもう言うけど、俺はある意味楽だと思うよ。葉子先生はもうちゃんと大人だから。俺だけなんだよね、子どもなのって。だから当面は追いつくのに必死でいたらいいし、そうやってれば数年中にバランスがとれると思ってる。絶対的にあっちが大人だからね」

 数年中に、という言い方が先輩らしいと思った。「いつか」ではないのだ。

「でもみっちゃんは違う。いっしょの場所にいて、お互いに一般就職希望で、それだって別におんなじ企業めざしてるわけじゃないでしょ? でもおんなじくらいのタイミングで舵を切ることも多い。でも切り損なったらずれていく。ごめんね、俺、一般就職のことあんまりわかんないからテキトーかもだけど」

「いえ……」

 そのとおりだ、と思った。切り損なうからずれる――損なっているかどうかは置いておいても、高校や中学の友人たちの一部と疎遠になっていくのは、そういうことなのだろうとも思う。

「さっきの男女差みたいなのにも通じるかもしれないけど、こっちはこっちで何かやらないと、っても思うじゃん。でもきっかけは必要で、試験で良い点取ったらとか、切りよく何月なんがつになったらとかでもいいんだけど、まあ、合格したらとか、そういうのがわかりやすいよね」

「――そうしたんですか」

「うん。今だから言うけど、ことしの特待の合格」

 さらりと言われた言葉に顔がかすかにしぶくなったのが自分でもわかる。そしてそれを先輩が見逃すわけはなく、思いきり笑われてしまった。

「ごめんごめん、そんなの言われたら『余計なもん背負わせんな』ってみっちゃん言いそうだとおもって」

「まじで当時聞かなくてよかったです」

「だよね、ごめんほんと」

 正直な後輩の言葉にも、先輩はあっけらかんと笑った。でも――それを区切りにするというのはわかる気がする。先輩のプライドがそこに詰まっていることは、もう、いやというほど知っているからだ。

「葉子先生見てて思ったんだけど、不用意に手を伸ばしたら怖いんだと思う。さっき言ったみたいな理由があっちにはあるから。でも、だからって、そこでビビって手を離しちゃだめだよ。二人のためにならないし、周りのためにもならない」

 そう言って、先輩は楽器を抱えた。

「たかが恋だけど、そこには音楽があるから」

 練習室の照明と、そして窓の外の光を吸い込んで、金色に輝くトロンボーン。

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