7
「よろしくないわね」
脚を組んで椅子に座った
「ごめん、ちゃんと練習――」
「そうじゃなくて」
葉子はさえぎって、膝の上に右手をかけて「いい、みそら」と言った。妙に迫力があってみそらはピアノ椅子に座っているというのにかすかにあとずさった。
「あなた、林さんの件、忘れたわけじゃないでしょう」
林さん、つまり、みそらの二つ上の、もと木村門下の林
「――去年の学内選抜のこと?」
「他に何があるっていうのよ。あのときあなた、『みっちゃんとは全力で喧嘩したいから付き合わない』って言ったじゃない。今聞いた話じゃ、もうほとんど――」
「待って、待って葉子ちゃん」
みそらは強い声で遮った。「――つきあってない」
しかし葉子のようすは変わらなかった。
「それくらいわかってる。だからよろしくないって言ってるの。わかる? 去年と状況が違うの。あのときは練習を優先したいからつきあわない、って言ったのよ。でも今は違う。ちゃんと伴奏で組んで、いっしょにいろんなことやって、その上でいっしょにいても違和感なく過ごせてるってことでしょ。夕飯まで共有して、なりゆきとはいえおばあさまとも知り合いになって。やってないのってセックスだけじゃない。それとも、もしかしてもうした?」
「してない!」
全力で拒絶するようなみそらの言葉に、でも葉子は揺らがなかった。
「だったらよけいにちゃんと、今度こそ、付き合いなさいよ。あの頃と同じ轍を踏んじゃだめでしょう」
同じ轍――つまり、やっかみなどで自分の演奏に余計な妨害なんかが起きることだ。いくら自分が上の学年になったとはいえ、門下間のいざこざや、それこそ一個人としてのやっかみもないとは限らない。そんなものにかかずらわっている暇はないし、そうならないようにしなければならないこともわかっている。
そうだ――わかっている。ちゃんとしないといけないのはわかっている。でも勇気が持てなかった。あの日、演奏会の帰りに提案されたことを、そのまま友人として受け取るべきなのか、わからないまま承諾した。ほしかったからだ。つながりがほしかったから。
「葉子ちゃん、ほんと、まじで最低……」
「最低でけっこう。言わせてもらいますけど、そんな中途半端な状態で舞台に立とうとするのはやめなさい」
歌のことだから葉子ちゃんには関係ない、と言いそうになって息を吸うと、――最低は自分だ、と思った。歌のことじゃなくても、演奏会はそもそも葉子に関係あることだ。なんて言葉を言おうとしたんだろうと自分にぞっとしたら、横隔膜が震えた。ごめんなさい――と思った瞬間、こぼれたのは嗚咽だった。
「わかってる……ごめん」
小さくつぶやく。わかっている。これは逃げだ。何も確認しないまま、提案を飲んだのは逃げだ。どういうことか聞くのは簡単だったのに、自分の予想――期待と違って歌えなくなるのが怖かった。そんなことをするような人じゃないのを知っているからこそ期待してしまうし、それが外れたときの自分がどうなるかを考えたくなかった。
顔を伏せて涙を膝に吸い込ませていると、葉子が動く気配がした。太ももの上で握り合わせた両手を、葉子の手がそっと包む。相変わらずほっそりしているようで、筋肉のある肉厚な、すこし体温が低そうなのにあたたかい、指の長い手だった。ふとその左手の四の指に細い指輪を見つけて、みそらはこんなのあったっけ、と、涙であつくなった思考回路でぼんやり思う。
「みそらはほんと、みっちゃんのことが大好きね」
慈しむような、いつもの葉子の声だった。ぼたぼたと落ちてくる涙も気にせず、葉子はみそらの手を軽く握りしめる。
「特待生試験のときもそうだったし、先月だってそうだったね。みそらが泣くのはいつもみっちゃんが伴奏するときだね」
そうかもしれない、とみそらは思った。『ミミ』のときだってそうだ。帰りに店でたまたま合流する前に、こっそりひとりで軽く悔し泣きしたのを今でも憶えている。――苦しかったからだ。あのとき先輩に負けたのが悔しかったのもあるし、伴奏が重なっているように聞こえてしまったことが――それほどにあの伴奏が――
葉子の右手が離れ、そうしてみそらの左頬に指がそっとふれる。つられるようにみそらは顔を上げた。葉子はまたいつものように、慈しむようにほほえんでいた。
「まあ、よく考えれば、今回ので一番だめなのはみっちゃんよね。夕飯の件、今聞くまで知らなかった。てことはあの子、意図して黙ってるってことなんだろうし。――それで口突っ込むなって、わたしを牽制してるのよ。気が強すぎると思わない?」
そうなんだろうか、とみそらはかすかに首をかしげた。葉子の指が、自分の頬から涙をぬぐっていく。
「――だったら、三谷にも言うの」
「言わない、かな。少なくともみそらがあの二回泣いたの、みっちゃんは知らないわけでしょう」
みそらが小さくうなずくと、「そうよね」と葉子は小さくほほえんだ。
「それに、わたしは女ですからね。味方をするなら、みっちゃんじゃなくてみそらよ」
「……葉子ちゃんの生徒は、三谷でしょう」
「みそらだって生徒よ。でもね、生物学上の分類とはいえ、やっぱり同性にしかわからないものはあると思うから。木村先生からは何も言われないでしょう?」
「……しばらく前に、恋をしなさい、っては言われた。まだかなちゃんが伴奏してくれてたころ」
「ああ、やっぱり木村先生ってそういうことをおっしゃるのね」
すこし苦笑するように、どこか困ったように笑いこぼして、葉子はもう一度、みそらの両手をそれぞれの両手で軽くにぎった。葉子の指輪がふれる。そして葉子は「みそら」と言って、まっすぐにみそらを見た。
「ちゃんと、恋、してますか」
――恋をしなさい。ソプラノ歌手らしい、淫らで情熱的な、身を焦がすような恋を。
先生の言う通りだ、と思った。嫉妬深くて、誰にも渡したくなくて必死になって、自分の心だけが燃えるようで、それを制御できなくて泣いてしまうような、そんな。
「――恋を、しています」
こぼれるように恋という言葉が体から出てきた。それにまた涙が出て、みそらは下唇を噛んだ。そんなみそらをゆっくりと引き寄せ、葉子はみそらの背中に手を回した。こないだの演奏会とは逆だ、と、ぼんやりと思う。
「うんうん。認めてあげないと、恋がかわいそうだから。大事なみそらの一部、みそらの歌の一部だからね」
慈しむような葉子の言葉に涙が押されるようにあふれてくる。落ちた化粧で服を汚してしまう、と思うけれど、どうしても葉子の肩口に顔をうずめてしまった。そんなみそらの背を、葉子はゆっくりとさすり続ける。
「演奏会まではその気持ちを大事にしようね。そして演奏会が終わったら、ちゃんと、けりをつけるんだよ」
あの日、自分で言ったはずだった。自分なりのソプラノになるから、と。
「……うん」
涙が止まるまで、葉子の手はかわらず優しかった。
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