6-2

(承前)


 ――そうやって始まったまさかの交流、その二回目が今日だった。講義終わりのいつもの駅前のコーヒーショップ、そこで二時間ほど、喜美子きみこさんととりとめもない話をした。レッスンはどういう形式なのか、今はどういう曲や講義を受けているのか、どういったきっかけで三谷みたにに伴奏をお願いするようになったのか、共通の師匠である葉子ようこのこと、などなど。

 中でも勉強になったのは北原白秋はくしゅうの話だ。詩人のひととなりというよりも、詩の読み方――音読の仕方については、はじめて気づいたところが多かった。

 白秋先生はね、声に出してみるとほとんどが七五調、つまり日本のリズムなのがわかるわ。たとえばここに「雨は接吻きっすのしのびあし」とあるけれど、ふりがなに「きっす」とあるでしょう。日本語のまま「せっぷん」と読んではリズム感が崩れるのがわかるじゃない?

 言われて指折り数えてみれば、たしかに『この道』もそうだった。一部あてはまらない部分はあっても、『邪宗門じゃしゅうもん』や『からたちの花』も同様だ。――盲点だった。危うく木村先生からレッスンで指摘されるところだった、と思いながら、まるでこれもレッスンだ、とも思う。旋律以前の問題だ。喜美子さんとの時間は、日本語のレッスンにほかならなかった。

 ――なんとなく、と思う。あまりもう憶えていないけれど、死んだ母方の祖母を思い出す。読み方がどうの、とかまで言うような人ではなかったけれど、言葉にリズムのある人だった、という記憶は鮮明だ。地方特有の訛りが会話の端々にあって、その中にみそらの名前がある――

 カチン、と音がした。ケトルの口からは白い温度が立ち上っている。みそらは一度ゆっくりとまたたいて、カップをふたつ手に取った。用意していたティーバッグをセットして、そこにお湯を注ぐとアップルティー特有の甘酸っぱい香りが広がっていく。そういえば「雨は林檎りんごの香のごとく」ってフレーズもあったなと思いながらぱらぱらとページをめくっていると、――もしかして、と思う。防音のはずだけれど、なんとなく――でもたしかに、音が変わったのがわかった。数秒して部屋に続くドアが開いて三谷が顔を出して、やっぱり、と思う。

「寒くない? そこ」

「ううん、大丈夫。ちょうどお湯沸いたからそっち持っていくよ」

 カップをトレイに載せていると、キッチンのすみに置いていた本を三谷が取る。みそらが「ありがとう」と言うと軽くうなずいて、二人はそろって部屋に戻った。

江藤えとう先輩、何か急ぎだった?」

「半々。途中から山岡とばあちゃんの話になって、――あの人の好奇心って天井知らずだよな」

 言い回しに思わず吹き出す。言い得て妙だ。

「言ったんだ? 先輩に」

「ていうか葉子先生経由で知ってた。天井知らずだし早耳だし」

 疲れたような言い方だったけれど、みそらは心の中で愛されてるなあ、とつぶやく。どうにもうちの伴奏者は、年上にかわいがられるきらいがあるらしい。江藤先輩、藤村先輩、木村先生、葉子ちゃん、そして喜美子さん。

「で、どうだった? ばあちゃんと」

「勉強になるよ、ほんと。国語の勉強し直してるみたいな気分になるというか」

 国語ね、と繰り返して、三谷はテーブルにあった詩集を手にした。

「あの人ちょっとへんなんだよね。日本語の感度が異様に高いというか」

 昔、音読の宿題で容易にマルをもらえなかった、などといった話を聞いたことがあったが、なるほどこういうことかとみそらは今日のやりとりで納得した。図書館や本屋などで行われる読み聞かせに参加していたと聞くと、よりなるほどと思えた。

「でもあらためてお願いしてよかったと思ったよ。まさか歌方面まで助けてもらえるなんて思わなかった」

 これで無料――チケット代だけでいいというのだからみそらの支出はほんとうにない――なのだから、こんなメリットばかりでいいのかと気が引けてしまう。けれど喜美子さん本人が楽しそうなのだから、それが対価なのだ、と言われるとそれも納得できる気もしてきた。

「生徒さんのターゲット層的にも意見はそう遠くないだろうし、何より――容赦がないって、きもちいいよね」

 みそらが言うと、一瞬きょとんとした三谷はすぐに笑い出した。

「ソプラノ全開だ」

「え? ――今のどこが?」

 面食らうみそらをよそに、三谷は「全体的に」とだけ楽しそうに言ってカップを取った。明日がみそらのレッスン日のため、前日の夜はみそらの練習を優先する、というのも、いっしょに夕飯を食べるようになってからの決まりごとだった。今日はあとすこし、発表会の曲について煮詰めるつもりだ。

「肝心の服のほうは決まりそう?」

「あ、今週末にでも持ってこようかなって言ってあったよ。うちでもいいですって伝えてる」

「そうなんだ。じゃあいまごろ、すごい浮かれてんだろうなあ」

「浮かれてる?」

「用意するのってばあちゃんも母さんも着れなくなってるやつのはずだから。タンスの肥やしにならずにすむ、ってすごいわくわくしながらタンス開けてそうだと思って」

 タンスの肥やし――という言葉に引っかかる。もしかして、とみそらは首をかしげた。テーブルの上のカップからのぼる湯気もおなじように揺らいでいる。

「もしかして――喜美子さんの私物、ってこと?」

「え、そうだよ。もしかしてレンタルとかって思ってた?」

「思ってた……」

 さすがに年代によって似合う柄などが変わってくるということくらいはみそらでも知っている。あ、でも、とここで思い至る。だからか、――お代はけっこうよ、という言葉は。

「まじかー……うわあ、どうしよう」

「気にしなくていいと思うよ。一時期誰かに譲ろうかって言って、それから手放してなかったんだし。うれしいのは事実だよ」

 俺じゃ着れないしね、と三谷はあっけらかんと言って、「そういえば、似てるのかも」と続けた。

「何が?」

「山岡のおばあさんとうちのばあちゃん。きっかけはたしか成人式だったと思うんだけど、働いてすこしずつためたお金で最初に振り袖を買って、それからも何枚かを自分のご褒美として買ってた――って言ってた」

 たしかに、と思うと同時に、ということは、と気づく。自分が借りるのは喜美子さんが実際に、何年か――何十年か前に着ていたものだ、ということだ。なおさら恐縮するし、――同時にうれしかった。どういった衣装になるのか――ふいに現実味をおびてくる。ドレスとはまた違う感覚がするのだろうと思えば、怖さとは違うかすかな震えを感じる。

「――なおさら、成功させないとね」

 みそらが自分に言い聞かせるようにつぶやくと、三谷はすこしおかしそうに笑って「そういうとこ」と言った。

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