6-1

 ケトルのスイッチを入れて詩集を開く。文庫本には小さなふせんがたくさんついていて、年月を吸い込んだようなしっとりとした重さを感じる。不思議な感覚だ、と思いながら、みそらは表紙を指先で撫で、そのままめくった。

 目次を見ると、『邪宗門じゃしゅうもん』『思ひ出』などの有名な詩集から、『落葉松からまつ』『からたちの花』といった日本歌曲によく見られる作品も幅広く収録されている。薄いページをぱらぱらとめくる。ふと目についたのは「空に真赤な」という言葉だった。

 その色は紙の中にあって圧倒的にあざやかだった。空に真赤な玻璃はりの色――たった九文字。なのに、一瞬にして視界が明瞭になるような見事なコントラストの日本語。

 他にも、紅玉、青いとんぼ、黒猫、銀箔、天鵞絨びろうど、沈丁、青き銀色――めくるたびにさまざまな色があらわれる。その日本語は童謡からは容易に想像できないほどの鬱屈や耽美さをあらわにしていて、体の中に直接、色を流し込まれるような錯覚にさえ陥る。そのようすは、けれどどこか楽譜にも似ているような気がした。どこをとっても美しく、ときに昏い日本語に出会える。本というのはとても不思議ないきものだ。やっぱり楽譜に似ている。

 喜美子きみこさん――三谷みたにのおばあさんに会ったのは、葉子ようこに依頼を引き受けるという話をした、その翌日だった。三谷が言うように「即レス」で、「じゃあ一度お会いして、内容を確認した上で着付けの話をすすめたらどうかしら」という喜美子さんの提案もあり、すぐに日程が決まった。こういうとき、実家が大学から近いと便利だな、とみそらは軽くうらやましくなる。

 つい先ごろ、入院、そして退院をしたばかりの喜美子さんだったけれど、みそらが会ったときにはすっかり元気になっていたらしく、意気揚々と電車を乗り継いでみそらたちの最寄り駅までやってきた。和装だろうか、というみそらの予想に反して、年齢よりも若くみえるすっきりとしたスタイリングの洋服を着ていて、染めていない、いわゆるロマンスグレーの豊かなボブスタイルの髪がなければ、六十代になったばかり、もしくは五十代後半でも通用するような若々しい印象の人だった。

 はじめて会ったときの、「まあ、あなたがみそらちゃんなのね」という声には、自分の好きな歌手と同じ音をもつみそらへの愛情のようなものがにじんでいて、初対面ながら正直ものすごくどきどきした。みそらがなんて呼べばいいのかを内心で迷っているのも察したのか、「喜美子さん、とか、自由に呼んでね」というフランクな雰囲気で顔合わせは始まった。

 いつものコーヒーショップに入ると、概要は三谷から聞いている、と言って、喜美子さんはさっそく話し始めた。

「すごく素敵な企画だと思うわ。もしよかったらぜひ見に行きたいのだけど、いいかしら」

「はい――」

 もちろん、と言いかけ、自分の舞台ではないことに気づく。ちょうどカウンターから飲み物を受け取ってきた三谷を見て、みそらは首をかしげた。

「葉子ちゃんに確認したほうがいいよね」

「先生なら大丈夫だと思うけど――念のためか」

 大丈夫だと思う、という部分にはみそらも完全に同意見だったけれど、それこそ念には念だ。その場ですぐに葉子にチャットを送ると、それこそ即レスで「もちろんチケット確保は大丈夫。当日受付にいらしてくださるか、みっちゃんに預けるか、どちらがいいか聞いといて。まずはよろしくお伝えください」という返事がきた。

「じゃあ、お手間を取らせてもなんだし、受付に預けてくださいと伝えて」

「うん」

 にこにこと孫にそう言うと、葉子に返信を送る三谷の隣で、喜美子さんはやわらかな雰囲気のままみそらを見つめた。

「ごめんなさいね、今日は実際のお着物は持ってきていないの。どんな色が合うかとかは、やっぱりお会いしてみないとわからなくて」

 なるほど、とみそらはうなずいた。

「ちなみに、歌う曲はもう決まっているのかしら」

「『浜辺の歌』と、『花の街』、『この道』です」

 まあ、と喜美子さんは手をあわせて声を上げた。そのしぐさを見て、なんとなくわかった、とみそらは心の中でつぶやく。葉子ちゃんぽいんだ、三谷のおばあさん。

「すてきな選び方の三曲ね。しかも北原白秋はくしゅうが入ってるし」

「ご存じですか」

「もちろん。読み聞かせや朗読などでもお世話になっているのよ、白秋先生は」

 まるで実際の知り合いのような言い回しをするんだ、と思った。しかも読み聞かせや朗読とは――これは相当読み込んでいる。この人に歌を聞かれるのか、と思うとみぞおちがぎゅっとした。と同時に、ふと思いつく。

「あの、――おすすめの本とかありますか?」

「本?」

「はい。歌詞とかの勉強は自分でもやるんですけど、もし北原白秋を勉強するならこれがいいとか、そういうのがあればと」

 初対面なのにがっつきすぎだっただろうか、と、内心、同時進行で反省する。けれど喜美子さんは気にしたようすもなく、「そうね」と思案顔になった。

「まずはあまりかたく考えずに、詩集を読んでみる、とかでいいんじゃないかしら。よかったらうちにあるのを持ってくるけれど」

「え、ほんとうですか」

「もちろん。あ、夕季ゆうきはいなくていいわよ」

 後半は隣で飲み物をすすっている孫に対してだ。三谷は「わかってる」とだけ言って、口を挟む気はないらしい。葉子ちゃんが女子トークをするときと似てるな、と思って今度はすこしおもしろくなってきた。

「着物はわたしもすこしイメージを考えたいし、だから曲がわかればいいなと思ったの。だから――実際にいくつか合わせてみるのは、週末とかがいいかしらね。さすがにうちに来てくださいっていうのは難しいだろうから、その場合は夕季の部屋を借りるか、みそらちゃんのお部屋にお邪魔してもいいかしら」

 今度はぎょっとする。もちろんみそらの部屋に、というところではなく、うちに、というところだ。つまるところ三谷の実家に、ということなので――いやいや、いやいやいやいや、ないない。それはさすがに。ただの伴奏をお願いしている分際のいち生徒なんでわたしは。冷や汗ものだけれど、舞台経験上顔に出にくいようになっていてよかったと思いながら三谷を見ると、彼はまた軽く「いいよ」と言った。

「じゃあその前に本だけ持ってくる?」

「それが良いんじゃないかと思うけど、――みそらちゃんはどう?」

「――喜美子さんのご負担にならなければ」

 一瞬、名前を呼ぶとき、まるで舞台上での一音目のような緊張が体に乗った。けれどうまく音にできた、と思う。品が良くて明るくて、秋の空のようなこの女性の名前をきちんと音にできた気がする。

「負担どころか、こっちに来る口実ができてうれしいわ」

 そううれしそうに言うと、喜美子さんはどこからかスマホを取り出した。みそらや三谷と同じメジャーなメーカーのものだった。店内の雰囲気とスマホをもつ姿は妙にしっくりきている。

「もしよかったら連絡先を聞いていいかしら。いちいち夕季をはさんでると、夕季もめんどうでしょうし」

「……っていう口実で、山岡と遊ぼうと思ってない?」

「そういうのはみそらちゃんがいないところで言ってくれない?」

 ということは、言外に肯定したということだ。ついみそらは軽く笑い漏らした。そんなみそらを見て、喜美子さんはまたうれしそうに目を細めた。

「ごめんなさいね。うちはほら、この子だけだから。気に入ったものを着せようと思っても、女の子向けは土台無理な話で、ついうれしくなっちゃって」

「いえ――」

 みそらは慌てて手を振った。

「わたしこそ不勉強で――助かります」

「いいえ、こちらこそ。――あ、そうそう、気になるだろうから先に言っておきますけれど、お代はけっこうよ」

「え」

 思わず背筋が伸びて腰が浮きかけた。「さすがにそれは」

「いいえ、これはちゃんとギブアンドテイクになっているから、それでいいの。みそらちゃんは着付けの機会を得られるし、わたしはみそらちゃんに会って見立てる楽しみと、演奏会に行く権利が得られる。それに、今言っちゃうのはすごく無粋だけれど――チケットって、招待券枠になるんじゃないかしら」

 軽やかな声で語られる内容にびっくりしてみそらが三谷を見ると、三谷はすこし呆れたように息を吸って、そして吐きながら「葉子先生の返事に」と言った。

「そういうことも書いてあったけど……、ばあちゃんさ、毎度のことだけど、先制攻撃仕掛けるの、やめてくんない?」

「何も攻撃してないじゃない」

「してるよ。――ごめん山岡、この人、こういう人で」

「あ、ううん、大丈夫……」

 先制攻撃という言い回しは身内ならではの気安さだろう。喜美子さんを見ていると、三谷がどうして三谷になったのかがわかる気がした。これだけ先を読む人がそばにいれば、自然とそういうくせも移るのだろう。そう思うとなんだかやっぱりおもしろくて、つい言葉といっしょに小さく笑い声がこぼれてしまった。

「いいね、家の中、たのしそうで」

「そう――」

「そう思う? じゃあ今度はほんとにうちにいらして」

 孫より先に返事がくる。やっぱりそれもおもしろくて、みそらはつい笑いながら「はい」と応え、それからあらためて「よろしくおねがいします」と頭をさげた。


(6-2に続く)

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